第94話
トゥルバはチェンノッタを連れて、ホールボーム帝国の飛び地だという平野を訪れていた。
農作物を育てる畝が並び、作業をする人々の活気が賑やかな場所である。
マシュー第一王子曰く、あの幻想生物は城のバルコニーからしか視認できないため、人々の生活に影響は出ていないのだという。
貴族の間ではひっそりと話題に上がるらしいが、実害がないため王家も対応できず、野放しになっていると言っていた。
確かに実際、土地に足を踏み入れてみると、何ら変わりない平野である。
しかしトゥルバに背負われている大銃姿のルーシェが、スコープを回しつつ己の聖女に囁いた。
「聖女トゥルバ。大樹が見えていないだけで、そこにはいるようです」
「触れもしないってか?」
「いえ、……向こうの草原に、一本、細い木があります。あれです」
ルーシェの指示で方向を変え歩いていけば、確かに低木がある。
近づいてみると、風もないのに草がそよぎ、青白い花が一輪、開花した。
トゥルバの横で警戒していたチェンノッタが、足元へ影の花びらを開かせ、瞬時に魔法陣を形成する。
今にも攻撃するかのような態度に、ルーシェの銃口に止まっていたウィズィが、慌てて飛び上がり少年の前で羽ばたいた。
「待て待て待てチェンノッタ! コイツは呼ばれただけで今はまだ何もしねーって!」
「うるさいよ。どうにかしなくちゃ、危ないんだろ」
「そりゃそーだが、幻想生物を殺せるのは御尊父だけだ! ここでオメーが攻撃したって悪戯に傷つけるだけってヤツだぜ!」
「っうるさいな、黙れよ! ママに何かひどいこと言ったくせに、僕に指図するな!」
仮面を身につけ表情を隠すチェンノッタは、口調を覆う棘を隠しもしない。
彼の一言に息を詰まらせたウィズィは、力無く羽ばたきをやめて、地面に降り立った。
トゥルバがチェンノッタを押さえつけて、セオドアに報告を終えた後。
養父が迎えに行き、聖女の元に戻ってきた養母の顔色は、目に見えて悪くなっていた。
何か衝撃の事実を目の当たりにし、言葉を失い、しかし新たに決意した横顔にも見え、トゥルバは声をかけることができなかった。
チェンノッタの憤りは凄まじく、共に戻ってきたウィズィとルーシェを糾弾し、そこからずっとこの調子である。
聖女にとってエルシィは、何にも変え難い幸福だ。己とてチェンノッタの感情も、困惑も理解している。現に他の聖女もエルシィを心配し、ウィズィとルーシェに疑念の眼差しをむけていた。
しかしトゥルバはこの状況に、どこか危うい脆さを感じている。
だからあえて幻想生物を連れ、チェンノッタと現地の視察にやってきたのだ。
トゥルバは細い低木を一瞥し、地面に膝をついて指で木の皮をなぞる。
「……こちらの言葉が分かりますか」
ルーシェが声をかけると、低木の振動が止んで、木の幹から生えていた枝が根本から折れた。
トゥルバが拾い上げてみれば、かなり掠れて読みにくいが、模様が浮かんでいるのが視認できる。それはセオドアに見せられた研究書の、最後のページに記された象形文字に良く似ていた。
しかしこちらは意思疎通を目的にしているようで、フェイの分身の力を借り、トゥルバでも読むことができる。
──痛くて苦しい、眩しくて切ない。救済を求めます、我らの聖女。
「……聖女トゥルバ、一度戻って、御尊父を呼んできましょう」
「何をさせるんだ」
「先ほどウィジャネクロイが言いました。……あの男だけが今、確実に、我々を殺す術を心得ているのです」
ぽとりと、青白い花が足元に落ちた。それは緩やかに腐り始め、土くれと同じように崩れていく。
「聖女と同体していない彼にとって、この世は苦痛以外の何ものでもありません」
再び、今度は太めの枝が折れて、やはり文字を浮かび上がらせた。
──助けて、我らの聖女。今もまだ、呆然と思う。父と母に、愛されたかった。
瞬間。
ルーシェの銃が組み変わったかと思えば、背後へ銃口を向けるとセーフティを外し、シリンダーを引いて一斉に発砲した。
それはトゥルバたちに向けて放たれた銃弾を、寸分も違わず打ち落とし、彼女は威嚇するように空へ向けて空砲を鳴らす。
振り返って睨んだ先で、徒党を組んだ軍隊が行進してくるのが見えた。
暗い藍色の団服を纏う彼らは、最新鋭の銃火器を携えて、恐れるものはないと言わんばかりに近寄ってくる。
トゥルバはチェンノッタの襟首を掴み、半歩後ろに下がらせながら、足元に魔法陣を出現させた。
「何だよ、僕もできるよ!」
「違う、役割分担だ。お前の方が長距離魔法に長けている。後ろに下がった振りをしろ」
一瞥もせず伝えれば、チェンノッタは文句を言いつつも、影の魔法陣をゆらめかせる。中央で開花した花は花弁を散らし、地面を滑って広がっていった。
「異邦人共! この地は我らが主、ホールボーム皇帝の領土だ! この場所で何をしている!」
隊長格だろうか。他より彩度の高い団服を見に纏う男は、声を張り上げた。
トゥルバが周囲を見渡すと、遠方で様子を伺っていた住民たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
彼らのうち誰かが通報したのだろう。氷の帝国は山々を超えた向こう側なので、駐屯兵がいたのかもしれない。
「俺たちは調査に来ただけだ。小競り合いをするつもりはない」
「何をふざけた事を。滞在許可証を取得したのか!?」
「許可証? 関所も置いていない田舎の、どこで取得しろって言うんだ?」
「我が国、ホールボーム帝国で許可証を取得してから、この土地に入るのが筋というものだ。最も、お前たちに滞在を許可する道理は、こちらにはないがな!」
血走った目をしながらも、隊長格は意気揚々と話を続ける。
「お前たち聖女だろう。言葉にするのも忌まわしい、グズな爪弾き者と共にいる。ハープシコードとか言ったか? あの下賤な異端者と」
チェンノッタが操る花弁の影が、緩やかに軍隊へ伸びていく。
彼の肩に飛び乗ったウィズィが唸り声をあげ、ざわざわと羽を逆立てた。
トゥルバは眉を顰め、片手で少年とオウムを軽く制する。
分かりやすい挑発だ。激情させて正しい判断を欠くのが狙いだろう。
しかし。
「我が最新鋭の銃器を手にする部隊の、敵ではない。だが争うというなら、良いだろう。戦利品にあの女を頂いてやろう」
「………………女?」
「辺境伯の屋敷で見たぞ、それはそれは美しい女だった。あのグズの妻になど勿体ない。我々で愛てやろう。さぞ麗しくこの下で狂って」
言い終わる前に、隊長格の片耳が吹き飛んだ。
男は呆けた顔をしたのち、驚きと痛みに絶叫する。
トゥルバのすぐ斜め上で、銃口が硝煙を上げた。
ルーシェの体が組み変わり、数十は下らない銃口を帝国の部隊に向ける。
「……ルジー、誰一人逃がすな」
土を踏みしめ、這うように呟かれた声に、チェンノッタが顔を上げた。
トゥルバがルーシェの銃身に触れれば、浅黒い塗装が剥がれるように落ち、鈍く艷めく金色の銃が現れる。
その一つ一つに、一寸の狂いもない二重丸を模した魔法陣が浮かび上がった。
「今この場で、俺たちのイレアを汚した奴を、誰一人赦すな…!」
それは目を奪われるほど美しく、極めて純粋なおびただしい殺意。
スカラベの瞳を見開き叫ぶトゥルバに、ルーシェが散弾銃の引き金を引いた。




