第92話
大広間に連結された広いバルコニーに出ると、室内に反して異様な静けさに包まれていた。
「あれを見てくれ」
マシューが片手で指し示す方角は、夜の帳に包まれている。
街の明かりが途切れた向こう側には、山が連なり、しかし不自然な形の影ができているように見えた。
星あかりの下では良く見えず、目を凝らしたエルシィの隣で、同じく見つめていたトゥルバが眉を顰める。
「……木か?」
風が吹いて、影が一斉に揺れた。
鼻先へ微かな甘い香りを漂わせ、エルシィは得体の知れなさに片手で口元を押さえる。
雲が切れて月が覗いた。
ようやく見えた全貌は確かに、山ほどもある巨大な樹木である。
木々の上には夥しい青い花が咲き乱れ、風が吹くと花びらが散り、幻想的な情景を醸し出していた。
突如現れたあまりに異質な光景に、言葉を失う。
「……つい数日前の夜、突然、現れたんだ。だが、大木がある方角へ近づいても実際は何もなく、朝になれば跡形もなく消えている。見えるのはこのバルコニーからだけだ。……どうだろう、聖女様。何か感じるものはあるかな?」
いよいよもって不可解な樹木である。
じっと見つめていたチェンノッタの肩で、ウィズィが大きく息を吸い込み、派手な色合いの胸部を膨らませた。
「……そこまでしなくちゃならねーのかよマジで……!」
「なに、知ってるの、ウィズィ」
怪訝な顔で問いかけるチェンノッタに、彼はつぶらな目を器用に細めると、トゥルバに背負われたルーシェを見上げた。
しかし彼女は応えず沈黙を守り、ウィズィが喉の奥で呻いてチェンノッタに頭を擦り寄せる。
くすぐったそうに肩をすくめる聖女に、オウムは羽ばたくと、エルシィの肩に移ってマシューと視線を合わせた。
流暢に喋るオウムに面食らいながら、マシューはカロライナと共に姿勢を正す。
「おうおうおう貴族のにーちゃんよぉ! あの方角にはなにがある!?」
「え? ああ、うん、向こうはホールボーム帝国の領土の一部だ」
「昔、わが国との交渉で得た、飛び土地だと聞いています」
マシューの言葉を引き継いたカロライナが、大樹を一瞥しつつ扇をひらいた。
「あそこは広い平野です。もしやホールボーム帝国が、高位の魔法使いか魔術師を派遣しているわけでは……」
「いいや。ありゃあ俺たちと同じ幻想生物だ」
「えっなんで? 聖女は全部で五人じゃないの?」
エルシィと手を繋ぎ問いを重ねるチェンノッタに、エルシィも同意して頷く。
イザベルが限界まで聖女を用意したと言い、セオドアも出会った時、聖女は歴史上多くて五人だと話をしていた。
しかしウィズィは首を振り、困惑するエルシィの双眸を覗き込む。
「アレは前提が違うって奴だ。俺たち幻想生物はなにも特別な存在じゃねぇ。召喚に必要な技術があれば世界中に姿を現せるんだぜ」
「そうなの!?」
「おうともよ! だがなぁその技術も今は失われちまってる。それに聖女と同体する俺たちと違ってアイツらは未成熟だ。召喚と一緒に自我の一部を置いてきちまってる」
聖女を選び、聖女に選ばれる幻想生物は、完全体としてこの世界に召喚される。だから言葉も話せ、元いた世界と同じ容姿に変化でき、さまざまな恩恵を聖女から得られた。
しかしその過程を魔法や魔術に置き換えて行われる召喚は、幻想生物の心を置き去りにしたまま呼び出されてしまうと、ウィズィはそう言うのだ。
あそこに見えている大樹も、不完全に呼び出され理性がなく、存在も不安定ゆえに捕まえることができない。
かといって野放しにして良いものではなく、あのまま放置して実態を確立すれば、何をしでかすか分かったものではない、という見解だった。
「だ、誰がそんなことを?」
「……これまでの出来事から順当に考えて、イザベルとかいう女だろ」
エルシィが青い顔をすれば、ウィズィの話を黙して聞いていたトゥルバが、眉間の皺を深めて呟いた。
振り返ると彼は腕を組み、スカラベの瞳を細め視線を僅かに下げる。
「あの女が使う力は、お袋殿の劣化版だろ。召喚に必要な技術が何かは知らねーが、単純な力量で言ったら聖女を凌ぐ」
彼はおもむろに背負う銃を下ろすと、軽くバルコニーの石畳みを小突いて、銃口を見上げた。
「あの女が幻想生物を呼び寄せた目的を、アンタは知ってんのか」
視線は上向いたまま答えを促す青年に、ウィズィが緩やかに閉口する。
沈黙はわかりやすい肯定だ。
チェンノッタが瞠目してウイズィを見上げ、トゥルバは微かに鼻を鳴らすと、オウムを睨み据えて大銃を指先で叩く。
冷たい風が吹き抜けて、夜空の下でも色鮮やかなエメラルドの翼を揺らした。
良いとは言えない沈黙に耐え切れず、エルシィが声をかけようとして、先にウィズィが口を開く。
「知っていると言えるほど、確証はない。だが、べらぼうにめんどくせー方法で、幻想生物を呼び寄せるっつーことはだ。考えうる目的は一つしかねぇ」
ウィズィの話し方が、心のどこかへ引っ掛かるように変化した。
思わず呼吸を止めるエルシィを見やり、しかし彼は聞かれることを拒むように話を続ける。
「母体樹に神を下ろすのが目的だろーぜ」
「…………え?」
「その予行演習ってヤツだろうよ」
突拍子もない話に飛躍し、一行は唖然として顔を見合わせた。
腕を伸ばしたチェンノッタがウィズィを引き寄せると、翼の下に両手を入れて持ち上げつつ、顔を覗き込んだ。
「母体樹ってママのことだろ? 神様が下りたら、そうなったら、どうなるの」
「御母堂様は原木として種を宿している。神下ろしが成功すれば、その種が開花して世界は終焉だ。世界はそうやって何度も繰り返してるっつーことだったんだ」
セオドアがいて、聖女がいて、幻想生物がいて。エルシィを守護する多くの仲間がいるのに、エルシィは力を行使せざるを得ない状況に追い込まれる。
それはイザベルによって無理矢理、種を開花させられる事で発動する、極めて特殊な召喚によるものなのだ。
二の句が継げず戸惑う中で、チェンノッタがウィズィを凝視したまま、ゆっくりと手から放した。
オウムは何度か羽ばたいて宙に舞い、近くの外壁に体を落ち着かせると、チェンノッタを見つめ返す。
少年は視線を逸さないまま、エルシィを背に庇うように肩を震わせた。
「…………おまえ、だれ?」
「……おいおいウィジャネクロイ様だろ、チェンノッタ。なんだよ忘れちまったか?」
「違う。おまえはウィズィだけど、……でも、っウィズィじゃない」
警戒を顕わにするチェンノッタに彼は、表情の機微が分かりにくくも、どこか寂しそうに笑う。
エルシィは息を飲んで目を見開き、思わず腕を伸ばしそうになった。
今の彼はあまりに似ている。
エルシィがこの生を越えて、愛し愛されたいと願った、世界最強の魔術師に。




