第88話
「 」
エルシィは四阿で再び、研究書を眺めていた。
書いてある内容を理解できなくとも、終えた世界のセオドアを辿っていたくて、紙面を指でなぞる。
走り書きしてある箇所は、決して多くない。
それでも彼の言葉を見つける度に、胸が締め付けられて視界が滲むのだ。
「…………妬けるなぁ」
「え? っきゃ」
頭上から声が降ってきたかと思えば、抱き上げられて悲鳴を上げる。上下した視界が落ち着くと、セオドアの膝に乗せられていて、エルシィは眉を寄せた。
「何するんですか」
「旦那さまにも構ってくれ」
「子供じゃないんだから……」
呆れつつも恥ずかしく、エルシィは彼に寄りかかりつつ、テーブルの上にある研究書を一瞥する。
セオドアが片手で紙面をめくり、暫し無言で寄り添っていた。
穏やかな風が四阿を吹き抜ける。鼻先に香るのは、花の香りだろうか。
トーマスが管理する古城には、多くの花が咲いている。そのほとんどが野草で、老紳士が育てているわけではないらしいが、まるで古城を彩るように開花していた。
この場所は山道より更に外れていて、旅人が迷い込んでくることもない。
セオドアが言うに、周辺一帯に魔法か魔術が施されている可能性もあるらしく、とにかく古城を目指して歩かないと、城門へすら辿り着けない。
転移魔法をする際、座標が定めにくいと言ったのは、そのせいだと言うことだった。
エルシィの髪に指を通していた彼は、そうだ、と声を上げる。
彼は椅子の上に置いていた小箱を手に取り、テーブル上へ静かに置いた。
金と銀の装飾が縁取る、白い箱である。
「なんですか?」
「俺の部屋に昔からある箱だ。爺さんから、君に会えたらきっと開けられるようになると、教えられてきたんだ」
「わたしに? というか、開かないんですか?」
断りを入れてからエルシィが白箱を取ると、中身が入っていないように軽い。
不思議に思いながら指をかけると、古くなった金具を押さえていたネジが、根本から折れ、ころりと落ちた。
「わああっ、ご、ごめんなさい! こっこわれ」
「うおっとと、大丈夫大丈夫、年代物だから! しかし、やっぱり運命かもしれん。俺ではうんともすんとも言わず、全く変化がなかったのに」
驚きすぎて白箱を取り落としそうになったエルシィに、セオドアが片手で支えて目を丸くする。
留め具が宙ぶらりになった箱は、簡単に蓋が開いて、……と言うより半ば壊れて、中が見えた。
「…………何も入ってないですね?」
「そうだな?」
暖色の布地が張ってはあるが、中身はない。
セオドアが箱を回して調べてみても、彼が持っていた時と違いはなく、釈然としない様子で首を傾げる。
「……? 何か入っているとばかり、思っていたんだが……」
これは開かずの白箱として、代々受け継がれてきた物だという。
幼い頃から開錠に奮闘してきたらしく、しかしいざ開けてみれば何も入っていない事実に、拍子抜けしているようだった。
エルシィは白箱を見つめ、目を瞬かせる。
指先で触れれば質の良い感触が伝わり、しかし冷たい金具が今にも、砂になって壊れそうな危うさがあった。
なぜだか鼓動が跳ねて、額に汗が滲む。
どうしようもできない不安が意識を押し上げて、言葉が詰まる。
本当に? この中には、何もなかった?
「ただいま戻った」
トゥルバの声に意識が引き寄せられ、エルシィは慌てて顔を上げる。
どうやらラバタール連邦から帰還したらしい。土産物を抱えたトゥルバとオルジオに、目を丸くした。
「おかえりトゥルバくん」
「ずいぶん買い込んできたな、俺のやった小遣い、全部使ってきたか?」
「使えるわけねーだろ、あんな大金。家でも買うつもりか」
半目でセオドアを睨んだ彼に背負われていた銃が、形を組み替えてサボテンを模した異形に変化する。
ルーシェはトゥルバから袋を受け取ると、小さく跳ねながらエルシィに近寄った。
「子供たちからイレアにと、預かってきました」
開けて中をみると、色とりどりの糸で編まれたストールのようだ。取り出して身に付けてみると、肌触りの心地よくて涼しい。
有り難く受け取り指で撫でていれば、ルーシェの大きな単眼が二人を見つめていた。
「何事がありましたか?」
「え? あ……、ううん、なんでもないわ。それよりヨヒラちゃんは?」
「はしゃぎ過ぎて爆睡だ」
トゥルバの転移魔法で帰還したまでは良かったが、疲れてすっかり眠ってしまったらしい。
膨大な力を有する聖女と言えど、彼女はまだ幼児だ。初めて見る異国は好奇心を刺激し、心から楽しんできたのだろう。
微笑ましい話に目尻を緩ませるエルシィに、トゥルバも小さく笑った。
「向こうの話もしたい。皆のところへ来てくれ」
促す声に頷いて、セオドアがエルシィを抱き上げながら立ち上がる。
慌てて流石に自分で歩けると辞退し下ろしてもらい、エルシィはテーブルに置いたままになっていた箱を手に取った。
「……御母堂」
歩き出す後ろ姿に付き従いながら、ルーシェが控えめに声を掛けてくる。
「ウィジャネクロイと、話しましたか?」
「ウィズィと?」
話したかと言われると、いつの話だろうか。
あまり内容がピンときていないエルシィに、ルーシェは薄い目蓋を瞬かせ、緩やかに体躯を左右に振った。
「いえ、そうでなければ、良いんです」
彼女はそう言って話を切り上げ、トゥルバの傍に戻っていく。
エルシィはセオドアと顔を見合わせ、首を傾げながらその後を追いかけた。




