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第87話




 しかしトーマスは、ようやく開けられると、感慨深く言葉にする。


「お嬢さん。セオドアは、まぁアホだし不良債権だし性格に難ありなところもあるが、これでも自慢の孫じゃて」

「三言くらい余計なんだが」

「こうやってふてぶてしいしの。それでも可愛い、ワシの孫じゃ」


 慈しむ眼差しに、きっと嘘はない。

 エルシィがトーマスを見つめると、老紳士は朗らかに微笑んだ。


「エルシィさま。あなたの存在を、セオドアはずっと求めていた。こやつがハープシコードを名乗るのも、あなたに見つけて欲しかったからじゃ。幼い頃からずっと、あなたに会い(まみ)えることを夢見て、研鑽を積んできたことを、どうか知っていて欲しい」


 セオドアが魔術式を施したガラスの中に隠す、神秘的なオッドアイと同じ瞳。

 真紅と青の双眸はどこまでも優しく、エルシィの視界が微かに揺らぐ。

 隣に立つセオドアの手が肩に触れて、そっと引き寄せられた。衣服越しに伝わる体温は温かく、エルシィは指先を添えて首を傾ける。


 トーマスは二人の様子に、満足げに頷いて、小箱を一瞥した。


「口伝てではあるが、その箱に魔法を施し、我らの祖先に手渡したのは、女神のように美しい女性じゃったそうな。その麗しき人の名は、アリス。アリス・サキソフォン。……我らが祖、シアド・ハープシコードが、人生で最も愛した人じゃ」


 旧王国時代の偉大なる母、サキソフォン家の初代()()、アリス。

 同じ人間とは思えないほど絶世の美女で、彼女が傍にいるだけ世界が霞むようだったと、伝わっているのだという。


 エルシィは何故か落ち着かない心地のまま、何度か己の髪を撫で付けて視線を迷わせる。

  

「…………その、魔法と魔術は、男神と女神が授けて、悪い統治者を退けたって、……そういう話しだと、聞きました。となると、わたしの先祖が魔法使いなのは、辻褄が合わない気がします」

「わっはっは! そうじゃな。だからこそシアドは、アリスの王配にはなれなかった」

「え……?」

「アリスは美しく、そして世界最強の魔法使いであったそうな。それこそ、世界を救いに導いた神だとか言う何かが、恐怖するほどに」


 トーマスは一度言葉を切り、小箱に触れて指先で装飾をなぞった。

 金と銀の装飾が施された白い箱が、微かな輝きを帯びた気がして、エルシィは目を見開く。


「現実など無情なものじゃ。一方からしか話が伝わらないのなら、全ての出来事は、その方面からしか見えて来ない」


 シアドは心からアリスを愛し、またアリスもシアドを愛していた。

 けれども何かが掛け違い、二人は離ればなれになって、干渉のないまま孤独に生を終える。

 二人にはそれぞれ家族があって、確かな愛情が存在していただろうが、本当の意味で心に空いた穴が埋まることはなかったのだ。


 老紳士は目蓋を伏せ、数秒ほど無言になってから、ゆるりと歩き出す。そしてエルシィの前にくると、セオドアと交互に見つめて、目尻を緩ませた。


「……セオドアは、一枚だけ残された肖像画のシアド王に、よく似ている。きっとこれは、運命なのじゃろう」

 

 エルシィは胸の熱さに動揺して、込み上げた涙を必死に堪え、唇を噛み締めた。

 トーマスは小箱を二人に託し、静かに部屋を出ていった。




 準備をするというセオドアに任せ、エルシィは部屋を見て回る。

 子供部屋というには子供らしくない書物もあるが、絵本や図鑑も多くあり、彼の子供時代を考えさせられた。


「……奥さま」


 呼びかけられて図鑑を閉じ、本棚に戻して部屋の中央に戻る。

 特に変わったところはないようだが、セオドアの前に立つと、渡された小箱を握りしめた。


「これは君の祖先が施した魔法だ。だから君の力で解除する」

「……それって、つまり」

「そういうことだ、だけど大丈夫。ちょっと痛いことするだけだぜ」


 ニヤリと笑う含み笑いは相変わらずで、エルシィは流石に顔を引き攣らせる。

 暫くは御免被りたいと伝えたはずなのだが、確かにセオドアの言う通り、そうでもしなければ小箱は開きそうになかった。

 後で本当に往復ビンタしようと心に決めて、エルシィは目蓋を閉じて顎を上げた。


「どうぞ、ひと思いに」

「うわ可愛い顔がめちゃくちゃ目の前にある待ってくれ物騒な言い方やめてくれ」

「もうっ! 早くしてくださいっ」


 いきなり弱腰になるセオドアを叱りつければ、彼は声を上げて笑い、足を大きく踏み鳴らす。

 途端に部屋中に魔術式が展開し、エルシィは目を見開いて続く文句も言葉も失った。


 木目の隙間なく張り巡らされた、圧巻の術式。それはアマノテル国でセオドアが披露したものを、悠に越えている。

 何年もかけて研究し、彼が今できる全てを注ぎ込んだ、エルシィのためにある魔術式であった。


 セオドアに抱き寄せられて、鼻先が擦る。

 至近距離は互いの鼓動すら混ぜ合わせて、エルシィは再び目蓋を閉じた。


「……愛してる、エルシィ。俺は君の傍で、何度だって生きていたいんだ」


 囁かれた言葉は呼吸に溶けて、足元から美しい大輪を咲かせる。

 それは徐々に芳しい香りを漂わせ、脳が痺れて急速に体温を奪っていく。

 抱きしめられなければこのまま、床に膝をついて倒れてしまいそうになった時、魔術式が一斉に反応した。

 

 握りしめた小箱が熱を持ち、二人の間で芽吹く新しい命のように脈動する。

 セオドアはエルシィから唇を離すと、赤らんだ彼女の耳に噛みついた。


「いっ──!!」


 視界を灼くほど術式が発光し、開花していたロータスの力が中心へ、小箱へと注がれていく。

 光に包み込まれて思考が回路を繋ぐことを放棄した瞬間、エルシィの力を全て吸い込んで、小箱に付与されていた魔法が音を立てて吹き飛んだ。

 同時に部屋に書き込まれた魔術式も崩壊し、黒ずんで空気の中に溶けていく。


 淡い光のかけらが空中に散布し、チカチカと視界が点滅して目が回る。

 抱き合いながら腰を抜かすと、二人の間で小箱の蓋が開いた。


「…………これ、は?」


 先に意識を戻したセオドアが、何かを取り出した。

 エルシィも両手で顔を押さえながら、滲む視線でそれを見る。


 みずみずしい碧い花が入った、コルク栓の小瓶だ。

 四つ折りにされた紙も同封してあり、恐る恐る開くと、短い文章が書いてある。

 それは研究書で読んだ、記号のような文字の羅列で、二人は顔を見合わせた。


「なんでしょう? これ。しかも見たことのない花ですね……」

「ああ。これも何かも魔術式か? いや、普通の文章か?」


 エルシィが小瓶を受け取り、開けようとした──その時だった。


 セオドアの背後から影が広がり、闇から現れたチェンノッタが首にしがみ付く。

 咄嗟の事に反応が遅れた彼のこめかみへ、木の根が張って目を見開いた。悲鳴を上げかけたエルシィの口は、細い枝に塞がれて、同じく頭を木の根が覆い尽くす。


 何が起こっているのか理解が追いつかない。

 セオドアも魔術式を書く前に、意識を刈り取られて床に倒れ込んだ。


 ぼんやりと二人の前に立つチェンノッタが、真っ黒な双眸を歪ませる。


『赦してくれ二人とも。この時を待っていた。だが今は何もかも忘れてくれ。これはオメー様が開けちゃならねーものだ』


 少年の口から聞こえる声に、エルシィは瞠目する。

 動かせない口の隙間から、ウィズィ、と愛称を呼んでも、目の前にいる彼は応えない。


『アリスがくれたものは、俺がさっさと開けて後生大事に持っていた。だがエリザヴェータは、偽物を子孫に向けて吹聴すれば、いずれ絶対に開けると分かっていたんだ』

「…………!!」

『忘れてくれ、今は。いずれこれはエリザヴェータに返す。あの女はきっと、これが何であるか忘れているから。そうして全てを無に帰して、次の世界へ進んでいこう』


 幼い少年の両手が、枝を掻き分けてエルシィの頬に触れる。

 黒い瞳にはなんの感情も浮かんでいないのに、肌を撫でる手のひらは優しかった。


『……次の生でもセオドアを愛してくれ、エルシィ。オメー様は希望だ。生涯愛を誓うことも、傍で夜を超えることも、何一つ満足にできなかった俺とアリスの、愛おしい未来』


 いずれ知る時が来る。

 彼の声は脳に反響し、しかし全てが薄れて見えなくなった。


 

 








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