第84話
セオドアが、聖女を伴いつつエルシィを招き入れたのは、倉庫のような書庫であった。
本棚には本がバラバラに並び、床には多くの書類や文房具から、椅子や窓枠に至るまで、なんでもとりあえず放り込んでいるような、そんな書庫である。
彼は窓を開けて埃を外へ逃すと、軽く両手を払って振り返った。
「奥さまはこっちに。みんなは好きに見てくれ、ちょっと面白い物もあるんだぜ」
セオドアの言う通り、壁の一部が変色していて、触ると扉が出てくる仕掛けや、本棚を移動すると地下階段が出てくるなど、なんとも心をくすぐる部屋である。
聖女たちが嬉々として散策し始める傍ら、エルシィと、彼女の片手を握りしめたままのチェンノッタが、窓辺に近寄った。
「チェンノッタ、お前もみんなと遊んできたらどうだ?」
「やだ」
セオドアが遠回しに離れるよう促しても、少年は一言で切って捨てる。
夫は苦笑して指先で頬を掻き、丸い椅子を引き寄せると、二人に座るよう促した。
優しい日差しが注ぐ窓辺からは、色とりどりの実をつける広葉樹が風に揺れる。
インクの匂いと、古紙の香りが染み付いた室内だ。
セオドアが部屋の奥から持ってきたのは、一冊の本であった。
表紙や裏表紙には、魔法陣のような複雑な幾何学模様が描かれ、壊れた鍵がぶら下がっている。
小さな丸テーブルに置いて表紙に触れると、指にささくれ乾燥した皮の感触が伝わってきた。
向かい側に座ったセオドアに、エルシィは躊躇いながら瞳を向ける。
「……これは、わたしが読んでもいいものなんですか?」
「ん? もちろん。これは先人が、──セオドアが、何度も1人の女性を好きになって、その女性に送り続けたラブレターだぜ」
椅子の背にもたれて笑う表情は、照れくさそうにはにかんでいる。
大切な、壊れ物のように慎重に、指先で鍵を避けて表紙を開く。
それは紛れもないセオドアの文字で、こう始まっていた。
『これを読むセオドアに、いつか、愛する彼女との未来がありますように』
「なにこれ?」
横から覗き込んだチェンノッタが、不審げに眉を寄せる。
インクが滲んで古ぼけているが、どうやら魔法や魔術に関する研究書のようだ。
かなり専門的な単語が並び、エルシィでは半分以上理解できないが、実在する魔法、魔術に対応するための研究だという事は、なんとなく察する。
その中にはエルシィとイザベルが扱う、立体魔法陣についての考察もあり、幾つも論点を上げて男の考えが試行錯誤されていた。
活字を追いかけていたチェンノッタが、やはり怪訝な様子でセオドアに視線を向ける。
「これがラブレター?」
セオドアは本当に小さく、顎を引いて頷く。
エルシィもチェンノッタと同じ反応をしそうであったのだが、ふと、紙の端へ書かれた言葉が目に入った。
『君に会いたい』
『こんなに綺麗な人だとは思わなかった』
『君はそんな風に笑うのか』
『どうしよう、愛してる』
『愛してるエルシィ。君の全部が、俺は欲しいんだ』
なんの脈絡もなく突然走り書きされた文字。筆跡はセオドアに良く似ていた。
エルシィが指先でなぞれば、インクの凹凸はとうに薄れ、ざらついた紙の感触だけを伝えてくる。
セオドアの話が全て本当なら、これは確かにラブレターなのだろう。
大切な日々を得るために、気が遠くなるほど繰り返す世界の中で、たった一つ残された研究書だ。己に降りかかったあらゆる事象を、可能な限り書き留めて思考し、次のセオドアを生かそうともがき続けた軌跡なのである。
良く見れば書き留めた日付が、数ページ後に重複しているところもあった。同じ内容を別の角度から熟考した内容が、過去の日付で書いてあるところもある。
これまで生きたセオドアの心が、この本の中には確かにあるのだ。
エルシィは胸の苦しさを呼吸に逃しながら、最後のページをめくる。
本に隙間なく書かれた文字は、そのページだけ、少し毛色が違っていた。
鬼気迫る筆跡で殴り書きしてあるのは、イザベルの立体魔法陣に対応する書き換え方のようである。
おそらく、一つ前のセオドアが記述したそれは、今より数ヶ月後の日付で書き込まれてあった。
「……この文字、なに?」
眉を寄せて活字を追っていたチェンノッタが、最後の数行を指さした。
書かれていた文字は、文字というより記号に近く、全く意味が理解できない。
フェイの分身で言語機能を活性化しても、分からない文字だ。意思疎通を目的としていない可能性もあった。
セオドアは本を眺めつつ、目を細める。
「ある事に使用する魔術式ってことは知っている。だが実は俺も、なんて書いてあるのか分からん」
「? 良く分からないけど、これはセオドアが書いたんじゃないの?」
「前の俺が書いたことは確かだな」
「…………前ってなに?」
「何を見ているんだ?」
三人の様子が流石に気になったのか、トゥルバが近寄ってくる。
彼に付き従ってサボテン状態のルーシェが床を滑り、上に止まっていたウィズィがテーブルを覗き込んだ。
「セオドアのラブレターだって」
「これが?」
「おうトゥルバ。比喩じゃねぇからな? 読むか? めちゃくちゃ恥ずかしい事が書いてあるぞ?」
「馬に蹴られる事を推奨してくんな」
割と本気で嫌そうな顔をされたセオドアは、文句を言いつつテーブルに肘を乗せ頬杖をつく。
「それで、前ってなに、セオドア」
「ん? ああ、そうだな。ちゃんと話す為にここへ呼んだから、腹くくろうか」
話を戻したチェンノッタに、セオドアの双眸がエルシィを見た。
エルシィは何度か深呼吸して、頷き返す。
書庫を見て回っている他の聖女たちを呼び寄せつつ、部屋の隅に積まれた椅子をフェイが持ってくるのを横目に、エルシィは再び本へ視線を戻した。
不可解な文章の直前、上から水滴が落ちて滲み、ぎこちない形になった文字に眉を下げる。
『君のそばで生きていたい』
「…………わたしもよ、セオドアさま」
誰にも聞こえないように、内側だけで反響するように、小さく呟く。
それだけで世界の全てがここにあって、どうしようもできない寂しさに、嬉しさをちりばめて。
心から泣きたくて目頭が熱くなる、そんな気がするのだった。
俯き加減で噛み締めるエルシィは、気が付かなかった。
本を見下ろすウィズィの瞳がずっと、記された象形文字を凝視していることに。
誰ひとり、チェンノッタでさえ、気がついていなかったのだ。




