第83話
エルシィは思い出す。
イザベルに向けて発動した立体魔法陣の中、背後からセオドアが叫んだ言葉を、その時は理解できなかった想いを、今は鮮明に思い出す。
彼は確かに焦った声音で、目先の感情に気を取られて先走ったエルシィを、引き止めようとしたのだ。
──ひとりでいくな!!
「僕ら聖女は、あなたの為なら、なんだって出来るよ。でも、命を投げ出そうと思ってるわけじゃない。……だけどセオドアは違う。考え方の根っこが、僕らと違う」
堪えきれない涙が小さな頬を流れて、チェンノッタは両手の平で何度も拭う。
いつのならすぐ膝をついて、その涙を拭けるのに、エルシィは動けなかった。
「セオドアは、本当に、っ……このままじゃ、本当に死んじゃうよ……っ」
切実な訴えに息が途切れて、目の前が次第に暗く点滅する。
脳内に別の声が重なり、エルシィは両手で衣服の上から心臓を抑えて、顔色を無くした。
「……おうおうチェンノッタ。御母堂様を責めるのはそれくらいにしとこーぜ。御母堂様だって好きでこんな状況になったわけじゃねーだろ」
必死に泣き止もうと目蓋を擦る少年を、肩に留まって静観していたウィズィが嗜める。
「御尊父も言ってただろ? そもそも御母堂様の力を誘発したのはあの怖いねーちゃんを退けなくちゃならなかったわけで。全責任は自分にあるから責めるなって」
「でも」
「御母堂様の力は御尊父がいねーとそもそも使えない。御母堂様は御尊父の判断で無理矢理力を行使させられたって状況だろ? オメーが責めんのは筋違いだ」
普段の陽気さを捨てたウィズィの言葉は、どこか攻撃的に聞こえた。
言葉を詰まらせるチェンノッタに、彼は鮮やかなエメラルドの翼で頬を拭う。
「つーかよォ? オメーが一番初めに不満をぶつけなくちゃならねーのはこのウィジャネクロイ様だろ?」
「…………なんで」
「俺がオメーを聖女に選ばなきゃこんな苦しい想いをさせずに済んだって話だ」
「!? っ違う、僕はそんな」
「違わねーよチェンノッタ。そもそも大前提として俺がオメーを選んだのがオメーを苦しめる元凶だ」
ウィズィは肩から羽ばたいて四阿に飛び移り、この状況でも深い眠りに落ちているセオドアを、椅子の背から覗き込む。
そして丸く黒水晶のような瞳をエルシィに向け、軽く首を傾けつつ小さく笑った。
チェンノッタは憤りを表すように肩を跳ねさせ、奥歯を噛み締めると両手で衣服の裾を握りしめる。
白く変色するほど力がこもる指先に、エルシィは少年の前で膝を折った。
近づいた目線に、彼はプラムグレイの瞳を伏せて、地面に水滴をこぼす。
本当に、そうなのだろうか。
ウィズィがチェンノッタを聖女に選ばなければ、確かに今のような苦しさを感じる事はなかっただろう。
しかし本当に、そうなのだろうか。
セオドアが以前話してくれた内容が、霧がかる脳の奥で、雑音混じりに反芻する。
エルシィが破壊し、イザベルが世界を作り直す。その繰り返しが永遠に行われているのだと。その中でセオドアは、本に書き留められた事象と違うことを、模索し足掻いているのだと。
その話が真実なら、この世界は、イザベルの意思が強く関わっているはずだ。
「…………ノッタくん、わたし」
エルシィに多くの幸福が降りかかるよう、出来上がった世界。
エルシィを慕い愛する五人の聖女と、優しい両親。紆余曲折あっても好転する生活。エルシィの現状は波乱があるが、それでも自分は幸福の中にいる。
もし本当に、イザベルが世界を創造する神のような所業で、何度も世界を作り直しているのだとしたら。
全て、エルシィがセオドアを手放すよう仕向けるために、エルシィにとって都合のいい世界になっているのだとしたら。
「……ママ? どうし──ッ!?」
「チェンノッタ!!」
流石に不審に思ったチェンノッタが、エルシィの両手に触れようとして、小さな体が浮き上がった。
エルシィの目の前に伸びてきた片手が、少年の襟元を掴み上げたと気がついた時には、視界は背中に遮られる。
聴覚へウィズィの呼びかけに被さり、セオドアの堪えきれない怒りが言葉に乗って、空気を震わせた。
「エルシィに何してる、チェンノッタ……!!」
いつの間にか目を覚ましたセオドアが、片手で額を押さえながら、ひどい顔色でチェンノッタを睨み据えた。
長い前髪の間から見える目蓋は隈が縁取り、唇も僅かに紫色になっている。普段は日焼けまじりの肌も白く不健康で、虚な目は正常な判断を欠いている事を窺わせた。
真っ青な顔で硬直するチェンノッタに代わり、ウィズィが羽ばたいて、両足の鉤爪でセオドアの袖を引っ張る。
「御尊父落ち着いてくれ話し合っていただけだ!!」
「だったらどうしてエルシィはこんな顔をしてる? 俺に責任があるから責めるなって言ったよな?」
「っ待って旦那さま、ノッタくんを放して!」
エルシィが我に返って必死に縋り付くと、セオドアの指が緩んで、チェンノッタは地面に振り落とされた。
塞がれていた気道が開放され、激しく咳き込む少年に、ウィズィが守るように翼を広げて覆い被さる。
カタカタと震える体躯は、怒気を隠さないセオドアに対し明確な恐怖を感じていることを、如実に表していた。
セオドアは、深く光のない双眸で見下ろし、奥歯を噛み締める。
「どうして分からない? お前は一番俺の傍で、俺の魔術式を見ているじゃねぇか。俺にとってエルシィがどれほど大事な人か、どんな風に俺が術式を展開しているか、ちゃんと見て分かっているだろう」
「分かんないよ!!」
セオドアに叫び返し、チェンノッタは涙を拭いて立ち上がった。
震えるウィズィを抱きかかえて後退し、ひくりと喉を震わせる。
「分かんない、全然、分かんない! 死んでもいいなんて考えてるクソヤローのことなんか、なんにも分かんない! 手段を選ぶなって僕に言ったのは、命懸けで守りたい人を置いて、先に死んでも良いってことなの? 死に物狂いでやり遂げろってことじゃないの? 守る為に命をかけるなら、すぐに死んでも構わないってことなの? それなら僕ら聖女にママを守って死ねって言えよ!!」
片手を振り払って雫を飛ばすチェンノッタに、セオドアが息を吸い込んだ。
静まり返った庭園の一角に、少年の荒らげる呼吸音だけが響いていく。
ウィズィが大きく目を見開いてチェンノッタを見上げ、掠れた声で名前を呼んだ。
チェンノッタは少しずつ、己が吐き出した言葉を理解して、目を見開く。そして片手で口元を抑え、戸惑ってさらに数歩、後ろに退いた。
「…………分かんねぇのは、俺の方か」
「っ旦那さま!」
「セオドア!」
ぼやいたセオドアの膝が震えて崩れ落ち、エルシィは慌てて体を支える。彼は数歩の距離を走り寄ったチェンノッタを片腕に抱き寄せ、もう片方にエルシィを招きながら、長く掠れた息を吐き出した。
先ほどまであった鋭利な気配を打ち消して、セオドアは小さな背中を叩く。
チェンノッタは動揺したまま視線を右往左往させていたが、おずおずと首に腕を回して抱きついた。
「悪かったチェンノッタ。嫌な事を言わせた。……そうだな、分かんねぇのは、俺の方だ」
「な、なに?」
「セオドアはこの先、生きていた事がない。だから他人からみれば、俺の行動は死に急いでるように見えるんだろうな」
「なに……言ってるんだよ、……セオドア……?」
セオドアの紫の瞳がエルシィを見つめる。
その双眸はようやく理性を取り戻した、いつもの優しい眼差しだ。
彼はエルシィだけに聞かせるように、掠れた声で囁く。
「……言っただろ? 独りで逝くな」
死が二人を分かつことすら、もう赦せないから。




