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第80話




 玉のような汗が噴き出る。

 柏手を打つ両手の平が熱く痛み、養母の強さを思い知る。

 魔法を帯びた水流が、ほんの僅かに浸透してくれればいい。ヨヒラにできるのは、そこまでが限界だった。

 

 エルシィの立体魔法陣は跡形もなく吹き飛んでいるのに、漂う残り香だけで魔法が失われていく。

 イザベルの力は恐ろしく、痛みを伴う衝動でしかなかった。しかし今、ヨヒラの魔法を崩していく力は、そんな()()()()次元ではない。

 オルジオフィリジルダと同体し、ヨヒラが生を受けてから、最も強い魔法を行使しているのに、エルシィに届く力は微々たるものだ。


 汗が目に入り、前が見えない。

 それでも涙が出ないのは、喉が枯れても声を絞り出すのは、ヨヒラを信じたセオドアの期待に応えたいからだ。


 ヨヒラに世界を開いた、この青を、絶対に守り抜いてみせると誓ったからだ。


「──っ……ぅ……!」


 エルシィの体内にある水分が微量に変化し、彼女は眉を寄せて小さく呻く。

 セオドアが万年筆を手に取り、すかさず魔術式を地面に書き込んだ。多少、反応を見せるようになったが、やはり緩やかに崩れていく。

 彼は髪を掻き乱してエルシィを再び石畳に寝かせ、チェンノッタとメイイェンを呼び寄せた。


「チェンノッタ、お前、魔術式の口述はできるな?」

「え、っ、う、うん、うん」

「俺に向けて回復の()()()()()()()()くれ。お前は唯一、魔法と魔術を混在して使用できる。一点集中ならその方が強力だ」

「わ、わかった」

「メイイェンは俺が書く魔術式を、地面に焼き付けてくれ。絶対に消えないように、強く頼むぜ」

「承知、い、たしましたわ。……っあの、どうするおつもりで……」


 動揺して過呼吸を混じらせる彼らに、セオドアは目を細め、次いでヨヒラを見た。

 ヨヒラは魔法を止めないまま、力強くセオドアを見つめ返す。

 彼は幼子の様子に痛ましげに表情を歪め、しかし言葉を飲み込んで首を振ると、口角を上げ歯を見せて破顔した。


「良い子だ、ヨヒラ。パパと一緒に頑張ろうな!」

「……! うん!」


 地面に浮かぶ魔法陣が、更なる輝きを帯びる。


 ヨヒラは嬉しかった。

 自分の居場所はここにある。その事が心の底から嬉しかったのだ。



 ◆ ◆ ◆



 水の音がする。

 緩やかに流れる、川のせせらぎだ。


 エルシィは緩やかに目蓋を押し上げ、服越しに触れる暖かさに、しばし、ぼんやりと天井を見上げる。

 天窓から見える白い月が、もう夜更けであることを感じさせた。


 視線だけを巡らせれば、聖女たちがエルシィを囲み、寝息を立てている。かなり大きなベッドは、六人で川の字になっていても余裕があり、不思議な心地が包み込んだ。

 皆一様に目の下へ隈が縁取り、暗く分かりにくいが疲労困憊な事が表情から窺える。

 一番両脇にいるヨヒラとチェンノッタの頬を、指先で撫でて体温を確かめ、その暖かさに安堵した。


 頭が、鉛を流し込まれたように重く痛む。体も言うことを聞かず、声を発するのさえ億劫だった。

 見上げる天井も見覚えがなく、どうしてここにいるのかも、自分がどうなったのかも分からない。

 曖昧な記憶を手繰り寄せながら、エルシィはなんとか上体を起こした。

 理由の分からない不安が押し寄せ、何故だか無性に叫びそうになる。己を落ち着かせるためにも、聖女たちの顔をしっかり見て安心したかった。

 

 眩暈と吐き気に襲われ、片手で額を押さえながら堪えつつ、一人一人慈しみ、寝顔を覗き込む。

 最後、一番端にいるトゥルバへ、ずり落ちた掛布を直そうとして、エルシィは動きを止めた。


 聖女の中でも一番年上のトゥルバの聖痕は、心臓の真上にある。

 寝巻きらしき衣服の上から微かに見えたそこは、褐色の皮膚を変色させ、十字の形をしているように見えた。


 鼓動が、嫌な音を立てて跳ね上がる。

 脳内に言葉が回って、エルシィは両手で口を抑えた。

 カタカタと指先が震えて、瞠目した目尻から涙が溢れてくる。


 

 ──ねぇ、エルシィ。どうしてなの? これほど恵まれた環境を用意したのに、どうしてまだセオドアを欲しがるの?


 

「ひっ──!!」


 叫び声が口から漏れそうになった瞬間、暗闇から伸びてきた両腕に抱き締められた。

 立ち膝でベッドに乗り上げ、エルシィに馬乗りになるような形で、セオドアが彼女を再びベッドに押し倒す。

 

 僅かに軋んだ音が鳴ってスプリングがたわんだが、聖女たちはよほど深く眠っているようで、起きる気配はない。

 エルシィは胸に顔を埋めて、内側から聞こえてくる心音に、徐々に呼吸が和らぐのを感じていた。

 それでも涙は止まらず、セオドアのシャツを濡らし続けていると、彼は体勢を直しながらエルシィの顔を覗き込む。


 天窓から注ぐ月光を背に、彼の表情はよく分からない。

 それでも指先で輪郭を辿れば、セオドアは唇を重ねようとして、寸前で止まった。


「…………無茶するなぁ、奥さま。俺の心臓、いくつあっても足りないんだが」


 どうして降りて来ないのだろうと、不思議に思って見つめていると、彼が微かに苦笑した気配がする。


「怒ってるんだぜ? イザベルも君も、俺の話を全然聞いてくれねぇ」

「…………」

「心構えだけじゃ、君の力は制御できない。君の意識が痛みで引き戻されても、結局、君の体は負荷に耐えられない」


 語調は柔らかいが、きっと、本当に怒っているのだろう。

 セオドアはエルシィに殊更優しい。それでも堪えきれない憤怒が、言葉の端々から滲み出ている。


「なぁエルシィ、俺は君の剣にも盾にもなれる。君の生命と尊厳を守るのが、俺の役目だ。……君が俺を大事にしてくれる事と、同じように」


 意識が緩やかに混濁する。

 もっと見つめあっていたいのに、もっと声を聞いていたいのに、エルシィの目蓋は下がっていく。


「…………それ、でも……、わたし、……あなたを、わたしたくない……」


 呂律も上手く回らず、ようやく自分が眠りを求めていることを理解した。

 エルシィはセオドアの片手を掴み、手の甲に頬を擦り寄せながら、涙を零す。


「あの、人に、……セオドアさまを、……わたしたくないの……!」


 それ以上は何も見えず、声も出せず、唇に触れる熱が何かも認識できない。

 それでもセオドアが呟いた言葉だけは、いつまでも温かく鼓膜の奥で反響した。



「生まれる前からずっと、俺は君しか愛してない。証明してみせよう、……必ずな」


 



  


 

 

 

 

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