第79話
ヨヒラは、自身を包み込んだ立体魔法陣に、心を奪われた。
痛みや苦しみが浄化され、ただ一つの道筋を示されたそれに、思わず全てを手放そうとしてしまう。
しかし次いで背後からやってきた衝撃に、我に返ったオルジオがヨヒラを抱えた。
頭を押さえて蹲り、恐ろしさを勝る何かを感じながら、必死に石畳へ縋り付く。
ようやく風が止んでオルジオが、乾き切ったミイラの体躯を持ち上げれば、周囲の惨状を目に留めてヨヒラは目を見開いた。
「…………ああ、……ああ、どうして……」
尻餅をついて青褪めるイザベルの立体魔法陣が、形こそ球体ではあるものの、今にも崩れそうに浮遊している。
そして離れの城に続く道も、離れの城の大半も、跡形もなくなっていた。
ヨヒラがチェンノッタの魔法で転移してきた時に、ルヴィナとメイイェンが、リリンベル国の王族に抵抗していた時の比ではない。
ないのだ。瓦礫すら。
崩れた壁はあるのに、全て朽ちて死に絶えたように。
唖然とするヨヒラの眼下に、魔法陣が浮かび上がる。
一切の乱れがない二重丸と、それを囲むように舞い上がる火鳥だ。砂塵の竜巻は炎を巻き上げ、イザベルを包囲すると、転移魔法を発動させる。
その砂塵へ映すよう影の花びらが舞い、内側は闇に包まれた。
「吹き飛べ!!」
三人、ほぼ同時に叫んだ声が、鼓膜を揺らす。
炎が爆ぜる砂嵐は闇の中へ吸い込まれ、最後、音を立てて消滅していった。
エルシィの力で抵抗する余力も削ぎ落とされたのか、イザベルの姿も、立体魔法陣も、その場から消え失せる。
ヨヒラがオルジオの下から這い出た直後、再び背後で複数の悲鳴が上がった。
「ママ!!」
一番に駆け寄ったチェンノッタの声に、慌てて振り返る。
エルシィが細い呼吸を繰り返した様子が見え、傾いた肢体がセオドアの腕の中へ倒れ込んだのだ。
「エルシィ、っエルシィ、しっかりしろ!! エルシィ!!」
呼びかけに彼女は答えず、ぐったりと四肢を投げ出している。
目蓋を閉じた顔に色はなく、セオドアが舌打ちして、石畳に寝かせて万年筆を取った。
他の聖女たちも一斉に魔法陣を展開し、回復魔法を施していく。ヨヒラも動悸で息苦しくなりながら、エルシィに寄り添って胸の前で手を合わせた。
しかしエルシィの様子は、一向に変化がない。
全員が処置を施しているのに、呼吸は細くなっていくばかりだった。
「親父殿、なぁ、なんでだよ、どうしてこんなに効きが悪いんだよ……!?」
苛立たしげにトゥルバが叫ぶ。
ヨヒラはセオドアの手元を見つめ、書いた側から崩れていく魔術式に愕然とした。
「…………魔法と魔術には、どうしても、克服できない弱点がある」
何度も魔術式を書き直しながら、セオドアが小さく掠れた声で呟く。
「“よく見ろ”、“よく耳を傾けろ”という信号に依存する魔法と魔術は、施そうとする相手の身体機能が著しく低下していると、効果を発揮しづらくなるんだ」
なにせ何も見えず、何も聞こえないところに、相手は旅立とうとしてしまっている。
加えてエルシィの立体魔法陣の残滓が、あまりに強すぎるのも一端だった。
聖女やセオドアが対抗しようとしても、発動した側から破壊されていってしまう。
エルシィがこの状態でなければ問題なかったが、彼女は自ら力を操作しようとした故に、踏み込み過ぎてしまったというのだ。
「なんの準備もなく、自分の力を使えばこうなるに決まってる……!! エルシィ、頼む、少しでいい、意識を戻してくれ。これじゃ内側から呼びかけでもしねぇと、死んじまう……!!」
鬼気迫る養父の表情から、冗談ではない事が如実に伝わってくる。
しかしヨヒラは彼の言葉に、大きく目を見開いて、小さな手で腕に縋り付いた。
「ぱぱ! ヨヒラ、ヨヒラできぅよ!!」
「え……」
「ヨヒラのこと、しんじて! こんどは、ヨヒラ、ままのこと、まもる!!」
小さな幼子は一度展開していた魔法陣を納め、オルジオに振り返る。
よろけながら走り寄り、朽ち果てた大木の中から覗くミイラへ、手を伸ばした。
オルジオは体躯を屈めながら両腕にヨヒラを抱き寄せ、穏やかな表情で一つ、頷く。
「おお、おお、ヨヒラ様。吾輩の幼子よ。よきかな、よきかな、存分に吾輩の力を振おうぞ」
変化を察したセオドアが、他の聖女に魔法陣を取り消すよう伝える。
ヨヒラの魔法は根本的に、他人と競合しづらい。彼女が一番強い力を扱えるのは、一人で行使する瞬間なのだ。
ヨヒラは張り出した木の一部に立ち、エルシィを見下ろして、柏手を打つ。
「“オルジオフィリジルダ、我が眷属よ“。 “幾年座して降り頻れ”」
普段のヨヒラとは、その小さな手から放つものとは、考えられないほど明瞭で力強い音が響いた。
オルジオの姿が変わり始め、細やかな鱗に煮た模様を浮かばせながら、ヨヒラの小さな体に纏っていく。
射干玉の髪は大きくひるがえり、非常に静謐な、けれども舞うような彼女の動きに合わせて、地面に波紋が広がった。
「“一つ、ふたとせ、御代の五月”。“六花、七歳の八百ろず願い”」
手を打ち合わせる大きな音に、セオドアの腕の中にいるエルシィが、微かに体を震わせる。
「“九重、尊き、吐息は辞して”。“御代の愛しき、無垢な八岐を”」
複雑な幾何学模様の中に、咲き乱れる紫陽花が、赤紫色に開花して、皮膚の内側からエルシィに呼びかけた。
「“心は尊き”、──っ“命と巡れ”!!」
ヨヒラ・サックスは霊水の聖女だ。
体を巡る全ての水分が、彼女の魔法の手中にある。




