第70話
「テオ」
セオドアがそう呼んだ青年は、エルシィと彼を交互に見つめ、パッと表情を和らげた。
「久しぶり! あれ、二年ぶりくらいかな? なになに、彼女?」
「いや、妻だ」
「えっ!? 本当に? こんにちは、初めまして。兄がいつもお世話になってます。テオ・ヴァージネットです」
テオは人の良い笑顔でエルシィに握手を求め、彼女も微笑んで手を差し出した。
「初めまして、エルシィ・サックスです」
「サックス? ……ふぅん? あなたが兄さんの運命の人か」
「え?」
エルシィの姓に反応したテオは、しかしすぐに笑って片手を振り、セオドアに視線を戻す。
赤毛混じりの焦げ茶色の髪に、紫の目をした青年だ。横顔はセオドアに似ているが、正面から見るとあまり似ていない。
セオドアが母親似で、テオが父親似なのか。随分髪の印象が違うのだなと、エルシィは漠然と考えていた。
彼は2人を通路の脇に寄せつつ、顎で一軒家を指し示す。
「母さんに会いに?」
「…………いや、会えないだろ」
秒な言い回しが引っ掛かり、エルシィが夫を見ると、彼の表情は驚くほどぎこちない。
二年ぶりだという弟との再会も、あまり喜んでいないような印象を受けた。
どうかしたのかと繋ぐ手に力を込めれば、テオが明らかに胸を撫で下ろす様子が見え、エルシィはギョッとして義弟を凝視する。
「よかった。こんなに家の側まで来たから、驚いたよ。困るよね、あなたがいると、母さんは正気でなくなるんだから。……ああ、ごめんね、夫人。兄さんを悪く言いたい訳じゃないんだよ?」
テオの双眸は確かに、純粋に困り事を話しているように見えた。それが逆に薄気味悪く、エルシィは軽くセオドアの腕を引いてしまう。
気がついたセオドアが一瞥し、口元だけで笑って、テオ、と弟を呼んだ。
「妻に、母さんの姿を見せたかっただけだぜ。待たせている人もいるから、もう行く」
「そう? オレにはたまに会いにきてよ。あ、見てくれた? 子供も生まれたんだよ? 父さんも会いたがってるし」
「ああ、……考えておく。おじさんによろしくな」
「うん。夫人もぜひ、一緒に来てね」
特に感慨深い様子もなく、片手を振って去っていく姿。
まるで明日も会う友人と別れるような気やすさがあり、知人と話し終えただけのような冷たさがあった。
テオは軽い足取りで階段を下りていき、妻と子供、そして母に出迎えられる。
仲の良い家族は互いに笑顔を見せ合い、暖かな木製の扉の向こうへ消えていった。
エルシィはそれが見えなくなる前に、再度、セオドアの腕を引く。
もう一秒でも、この場所に居たくなかった。
セオドアに連れられなければ、二度と訪れることはないと思うほどに。
急いで階段を突き進むエルシィに、セオドアは苦く笑って、彼女を引き留めた。
狭い路地に連れ込んで抱きしめると、彼女は声を震わせてセオドアの胸に顔を埋める。
「彼は、なんなの?」
「…………ごめん、悪いヤツじゃないんだぜ? ちょっとデリカシーがないというか」
悪意がない分、非常にタチが悪い輩だ。エルシィにはそう見えて仕方がなかった。
あの場所にセオドアの居場所などないと、それが当然だと言わんばかりの態度に、腹が立って仕方がなかったのだ。
気分が悪いと言うより、気味が悪いと表現するべきなのだろう。
どこへ行ってもセオドアに、悪評と苦痛が付き纏うようで、世界そのものが気持ち悪かった。
テオはセオドアの異父兄弟なのだと言う。
セオドアは生まれつき黒髪だが、母はレッドブラウン、父はサンドベージュの髪であり、明らかに異質な赤子であったのだ。
深く母を愛していた父は、母の不貞を疑い絶望し、糾弾した末、家を出ていってしまう。
拗れてしまった愛情は戻らず、母はセオドアを見るたびに、泣き叫ぶようになってしまったのだ。
セオドアが祖父の家に預けられている間、ずっと母に寄り添い介抱してくれていた幼馴染みが、テオの父親なのだと言う。
今では母も落ち着きを取り戻し、家族5人で幸福に暮らしているのだそうだ。
ほとんど母と接点はない。それでも実母であることは事実で、エルシィに姿だけでも見せたいと、──姿だけでも見たいと、セオドアはここへ来たのだ。
「こんな予定じゃなかったんだが、……うぅん、ごめんな奥さま。夜は旦那さまがちょっとカッコいいところを見せて、ハッスルしてしまおう!」
沈んだ空気を払拭しようと、空元気に振る舞うセオドアに、エルシィは眉を下げた。
視線を交えて黙していれば、彼は緩ませていた口角を徐々に強張らせ、彼女の長髪に指を通す。
「…………大丈夫って、笑って誤魔化さないで。……わたしには、ちゃんと言って、旦那さま」
セオドアの、母から受け継いだオッドアイが左右へ揺れた。
彼はエルシィの頬を両手で包み、鼻先を擦り合わせて唇を重ねる。
誰の目もない路地裏は、階段を上り下りする人々の生活もどこか遠い。真っ直ぐに心を射抜かれる青と真紅の瞳には、エルシィだけが映り込んでいた。
静謐な香りが、緩やかに足元から蔓を伸ばしていく。頭に霧がかかって、思考回路を奪われていく。
それでも良いのだと頭の隅で、エルシィの声で誰かが囁いた。──その時だった。
「セオドア!! ママ!!」
影が形を変えて出現した魔法陣から、チェンノッタが慌てた様子で姿を現した。
驚いて思わずセオドアを突き飛ばし、後頭部を強か打ちつけて悶絶する夫を尻目に、飛び込んできたチェンノッタを抱きしめる。
少年は片手で仮面を外しながら、血相を変えてエルシィの胸に縋りついた。
「っルヴィナが連れていかれた、早く戻ってきて!!」




