第59話
刹那、小ぶりになり始めた雨が、大粒の涙のように土砂降りとなる。
縁側に座る三人の足が濡れるほどの勢いに、ルヴィナが驚いてヨヒラを正面から抱え直した。
「ど、どうしたの、ヨヒラ」
「いや、いやぁ、とめないで、とめちゃやだ、いやああっ」
半狂乱で泣きじゃくる様子は、尋常ではない。彼女の鳴き声が響き渡るたびに、雨足はさらに強くなっていく。
このままでは過呼吸になってしまうと、エルシィが慌てて抱えようとすれば、別の手が伸びてきてヨヒラを抱き上げた。
目を細めてヨヒラを見下ろしたトゥルバが、己の顔の高さまで持ち上げ、額を重ねる。
彼は泣き続ける幼子を揺すり、静かな声で言葉を投げかけた。
「……ヨヒラ、こっちを見ろ。……そう、できるな? ……そうだ、上手いぞ」
視線を逸らさず見つめ続けるスカラベ色に、ヨヒラの慟哭が次第に収まっていく。
そして何度かしゃくりあげた後、トゥルバの褐色の肌を両手で撫でた。
彼はようやく落ち着いたヨヒラに笑いかけ、蒼白のルヴィナに目を向ける。少女は体を震わせながら、両手を胸の前で組んで俯いた。
「ご、ごめんなさい」
「いや、アンタは何もしていないだろう。……それに、今の原因はアンタじゃない」
トゥルバは遊牧民族の代表として、小さな子供たちの面倒もよく見ていたという。ヨヒラは少し鼻を啜っているも、表情はすっかり穏やかになっていた。
感心してエルシィが見ていると、ヨヒラが腕を伸ばすので預け渡される。消沈するルヴィナが、ヨヒラの小さな手を掴みつつ、外を指差した。
「雨が止むのは、嫌なの?」
「…………うん」
「そう……。ヨヒラが嫌なことは、したくないわ」
彼女は眉を下げ暫く考えこんだ後、再度、いくらか雨粒が和らいだ庭園を見つめた。
「……雨が止んだら、何かあるのかしら……」
エルシィも彼女に倣って、庭園を眺める。
美しい光景だが物悲しく虚で、どこにも旅立つことを許さない、閉鎖的な空間だった。
ルヴィナは両手でヨヒラの頬を撫で、エルシィを見上げる。
「ママ。わたし、屋敷の外に行きたい。ここにいちゃ、何が起こってるのか分からないわ」
「え? そ、そうですね……、オルジオさんが帰ってきたら、聞いてみましょうか」
彼女は大きく頷くと、次いで居間でチェンノッタと魔術談義をする、セオドアに話しかけた。
「セオドアさま、わたしに屋敷を出ても魔法が持続するよう、魔術を施して頂くことはできますか?」
「うん?」
「だめだよルヴィナ、このヤローの神経がイかれる」
「でも……」
「だめだよ。いざとなったら、コイツが盾になってママを守ってもらわなくちゃ。こんなとこで潰してたら意味がない」
「おいクソガキ、それは心配してんのか? 貶してんのか?」
ガンとして譲らないチェンノッタは、畳に胡座をかくセオドアの足に座っている。離れる用事がない時は、常にピッタリと張り付いているので、心配で堪らないのだろう。
セオドアは少年にとって唯一、魔術に精通した理解者だ。これ以上、命を削るような行為は見過ごせなかった。
眉を下げるルヴィナに、トゥルバが目を眇めて首を傾ける。
「外で何をしたいんだ」
「様子を探ってきたいの。わたしなら、別人に成りすませるから」
「別人?」
ルヴィナ曰く、怪しまれないよう魔法で地元の人間を模写し、何が起こっているのか確かめたいのだという。
確かに彼女の、存在認識に齟齬を与える魔法は精巧だ。屋敷の外で活動するにはもってこいだろう。完全に作用すれば、普通の人間は誰も異国の人間だと思わない。
まだ小さなヨヒラでは、伝達能力も年相応で、言葉からの思考も難しい。屋敷を出て外界を見れば、分かる事も多いだろう。
しかし彼女の提案は、硬い声音の一言で切って捨てられた。
「いけません、お嬢さま」
「シテラ!」
オルジオと戻ってきたシテラが、険しい表情で首を左右に振る。
「ただいま戻りました。本屋敷の人間と接触してきましたが、クズの極み。あのような場所に、お嬢さまをお連れすることは出来ません」
本気で怒りを露わにするシテラに、エルシィは戸惑って声をかけた。
「何があったんですか?」
シテラは言葉を続けようとして、ヨヒラを一瞥し口を閉ざす。ぼんやりと疲れを滲ませる彼女に、聞かせる内容ではないのだろう。
背後から近寄ってきたオルジオが、ヨヒラを抱き上げてエルシィに頭を下げた。
「吾輩が預かりましょうぞ。ああ、食料や日用品、生活必需品は、たんまりせしめて来ましたゆえ、ご心配召されるな」
「おじじ……ヨヒラ、このへん、とことこする」
「おお、ヨヒラ様。安心召されよ。眠ればすぐに良くなるでな、おじじと共にいようぞ」
胸の辺りを片手で撫でるヨヒラに、背の低い老人は優しく言葉を交わしながら、ゆっくりと廊下を歩いていく。
姿を見えなくなったところでシテラに視線を戻せば、彼女は珍しく長い息を吐いて、ルヴィナの隣に膝をついた。
「……なにがあったの、シテラ」
白い顔色は怒気を孕んだまま、ルヴィナが気遣って従者の片手をとる。
シテラは橙色の瞳を歪ませながら、主君と視線を交えた後、エルシィに改めて背筋を正す。
「先ほど、オルジオが言う、本屋敷に行ってまいりました」
「え、ええ」
「そこで、この屋敷がどのような経緯であるのか、耳にしてきたのです」
本屋敷には、このアマノテル国を統べる帝が住んでいたという。
ここよりも更に部屋数の多い、広大な敷地に構えられた住居は、多くの人間が行き交っていた。
オルジオの権限で帝に直談判し、食材を確保できたところまでは良かったのだ。
多少手荒なところはあったが、これでも二人で穏便に済ませたところである。
しかし、御簾も上げず顔も見せない、辟易した様子で対応していた帝は最後、シテラとオルジオに聞いたのだという。
「……ヨヒラさまはいつ、死ぬのかと」
「…………え……」
「この屋敷は、霊廟だと言うのです。日照りが続いたこの国で、雨乞いの儀式を行い、ヨヒラさまを餓死させ、天への供物にするはずだったのだと」
誰もいない屋敷にたった一人残され、飢えと寂しさに誰かを求め続けたヨヒラ。
彼女が聖女として覚醒し、雨が降り出したかと思えば、今度は決して降り止まぬ雨として国を濡らし続けている。
「だから今度こそ成功させて、水害を減らせと。……よりにもよって、我々の前で、聖女の死を願うなど……!!」
シテラの憤りが空気を裂いて、心に突き刺さる。
瞠目し呼吸を止めたエルシィと、傍で同じく絶句するルヴィナに、シテラは瞳を揺らして奥歯を噛み締めた。
暫く、皆が無言で言葉を探していると、頬杖をついていたセオドアが、ゆっくりと口を開く。
「──なるほど、なら、掌握しようか」
「……え?」
意味が分からず呆けた顔で聞き返せば、彼は無表情に近しい顔で双眸を細め、息を吸い込んだ。




