第57話
しとしとと、雨は降り続く。
障子を開け放った広い部屋からは、インクの匂いが溢れ、渡り廊下の向こうまで漂ってきていた。
エルシィが別室から眺めていると、廊下を行ったり来たりしているヨヒラが、両手を前に突き出しつつ戻ってくる。
受け止め背を撫でると、彼女は涙を流しながらも声を弾ませた。
「ぱぱ、ずっとかいてぅの、すごいの、まま」
「……そうね」
セオドアが魔術式を書き始め、丸三日。
彼は一室の中央に、気を失った聖女と幻想生物を寝かせ、一心不乱に回復の魔術を書き連ねている。
その量は部屋に敷かれた畳全てに匹敵し、間に合わない箇所は柱にまで手を伸ばしていた。圧巻の作業量は部屋で見続ける事ができないほどで、遠巻きに眺めて息をのむ。
インク切れの際に離席はしているものの、ほぼ部屋から出ずに集中を切らさないセオドアに、エルシィは夢中で視線を追っていた。
多量のインクを買い求めに外出していたオルジオが、足音を忍ばせながら、静かにエルシィのところまでやってくる。
真っ白い老人は感心しきりに髭を撫で、隣に腰を下ろした。
「いやはや御尊父様の技術は、脱帽ものの変態ですぞ。あ、褒め言葉であり申すぞ」
「ふふ、わたしもそう思ってました」
「素晴らしいの一言につきまする。ほんに一寸も競合せず、ヨヒラ様のあらゆる魔法を掻い潜って、魔術式を正答に導いていらっしゃる。天才と名乗るに相応しい技量ですぞ」
手放しで褒め称えるオルジオに、エルシィの方が気恥ずかしくて、むず痒くなる。
「彼が今……していることって、どれほど凄いんですか?」
「普通の魔術師であれば、畳一枚書いたところで吐血し申すな」
「えっ」
「そこを抜けて部屋の半分までくれば、上位魔術師と名乗れましょう。そこで普通は昏睡しますぞ」
「昏睡!?」
思っていた以上に楽観視できない言い方に、エルシィは青い顔でヨヒラを抱きしめた。
オルジオは穏やかに笑って、セオドアがいる部屋を見つめる。
「魔法使いと違い、大変地味な作業に見えましょうが、ほんに魔術は難しい。彼の方が書き続けていられるのは、同時に、己を護る魔術も付与し続けているからなのです」
「…………それって、今のヨヒラちゃんと同じようなって、ことでしょうか」
「左様です。聖女ではない彼の方が、その高みにいらっしゃるのは、ほんに素晴らしきかな。ひとえに血を吐くような努力の賜物でしょうぞ」
そこまで言ったオルジオは、エルシィに視線を戻して、微かに眉尻を下げた。
「……吾輩は顕現した日が浅いゆえ、彼の方の事は噂程度しか知らなんだ。……だが、なかなかどうして、良い男でございますな。御母堂様に相応しき御方かと存じますぞ」
エルシィは胸が締め付けられるような、呼吸が上ずるような心地を覚え、唇を噛み締める。
ヨヒラが片手でエルシィの頬を撫で、肩口にしがみつきながら目蓋を閉じた。
次第に重くなる体を支え、エルシィが体を揺すっていると、穏やかな寝息が聞こえてくる。
その様子にオルジオが息を呑んで、そっと己の聖女に近寄った。
「……おお、……おお、ヨヒラ。眠り申したか」
エルシィが老人に預け渡しても、ヨヒラはぐっすりと寝息を立てている。
これもセオドアの規格外に緻密な魔術のおかげだと、オルジオは鼻を啜って彼女を抱きしめた。
目尻から変わらず涙は溢れているが、あどけない寝顔に頬を擦り寄せる。
「おお、そうか、眠り申したか。よかった、ほんに良かった。……おおヨヒラ、吾輩の宝。不甲斐ない僕を許したもうぞ……」
パキパキと音を立てて老人の体が渇き、白い枯れ木の姿に変わっていく。
二つに割れた大木の中から腕が伸び、乾涸らびた体はヨヒラを包んで、ゆりかごのように彼女を抱き上げた。
エルシィが目尻を緩ませ眺めていると、屋敷全体がほんの僅かに発光し始める。
物音が聞こえて立ち上がり、セオドアがいるはずの部屋に入ると、エルシィはその光景に言葉を失った。
インクで書き連ねた魔術式に、別の魔術式が重なって、光が幾重にも部屋を包む。
しかしそれは決して互いを汚さず、まるで色とりどりの宝石に似た美しさを宿していた。
エルシィが惚けた顔で見つめていると、その光は徐々に中央へ収束されていき、余韻を残して消えていく。
光が消えた場所で、聖女たちは緩やかに意識を浮上させた。
「ママ……っふ、わっ」
「おい、気をつけろ。……なんだ、どうなってる?」
ルヴィナがエルシィの姿に気づき、立ちあがろうとしてふらつく。
傍で支えたトゥルバの背後で、仮面が割れたチェンノッタが周囲を見渡し、ポカンと口を開けていた。
「なんだ、これ……。こんなの人間が書いて大丈夫なの……セオドア? ──っセオドア!」
「旦那さま!」
部屋の端で仰向けに倒れているセオドアに、心臓が冷水を浴びせられた気がして、エルシィは走り寄った。
インクが付着し黒ずんだ畳に膝をつき、彼の頭部を抱え上げると、セオドアが掠れた声で囁く。
「…………頑張った旦那さまは、超疲れたのでキスを所望します」
「バカなの?」
「ド直球の蔑み、感謝の意……!」
「ノッタくん、大丈夫みたい。元気よ」
「あ痛っ」
思い切り手を離せば、強か後頭部を畳に打ちつけたセオドアが、悶絶していた。
冷めた顔で眺めたチェンノッタだが、左右に首を振ってセオドアに近寄って助け起こす。
「ママの前でカッコつけるなよクソヤロー。本当に大丈夫なの」
「動かない対象なら、まぁなんとか。その辺はちゃんと天才なんだぜ」
「なんなの、この魔術式。気持ち悪いぐらい周りくどくて丁寧で細かすぎ。人間が書いていいものなの」
「絶対に真似するなよチェンノッタ。冗談でなく死ぬぞ」
「バカじゃないの!?」
心底呆れて、同時に眉を吊り上げて怒るチェンノッタに、セオドアは笑って片腕に抱き寄せた。
二人の会話に、やはりセオドアは空元気なだけなのではと心配になったが、当人は本当に大丈夫だと片手を振って見せる。
老人の姿でヨヒラを抱き上げたまま、部屋に入ったオルジオは、感嘆の息をこぼして部屋中を見渡した。
「おお、間違いなく変態の所業ぞ。ほんに素晴らしきかな、天才の域を超えて申すぞ。自他ともに回復させながら、粒子の海から全員の意識を拾い集める式を、ヨヒラの魔法と競合せぬよう数百通りの道を作り、加えて屋敷を覆う魔法に上書きをして幼子の力を補っており申す」
理解が追いつかない状態で並べられる単語に、エルシィは疑問符をまき散らし、首を傾けた。
「え、っと……? やっていることがいっぱい過ぎて、旦那さま、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないんだよママ! このヤローじゃなかったら、今すぐに鼻血出してぶっ倒れて脳が壊死して死んじゃうよ!!」
思い切りチェンノッタに頬を引っ叩かれたセオドアは、それでも口角を上げてエルシィを見上げる。
「わっはっは! すごいだろ、どうだ奥さま。旦那さまに惚れ直した?」
邪気のない顔で笑う姿に、エルシィは首元まで染めながら返答に窮し、軽く彼の頭を小突いたのだった。




