第55話
引き戸から庭園の砂利、岩までも吹き飛ばした爆風が、轟音を響かせる。
「こんなとこで何するんですかバカえっち変態!!」
「ぐぅうすっげぇ痛いけど美人に罵られるって控えめに言って最高では……?」
「時と場合を考えて!?」
「考えたらいいってことか!? そんなこと言われたら俺の聖剣が伝説を超えてしまうんだが!?」
「何言ってんですか旦那さまのバカやっぱりきらい!!」
ロータスの残骸が散らばっては消えて、エルシィは己にのし掛かる夫の股間を蹴り上げた。
痛みで悶絶するセオドアの下から這い出ると、どこからか足音が聞こえて顔を上げる。
いつの間にか壁際まで転がってきたらしく、近くの引き戸が壊れるほどの勢いで開かれた。
「起きられましたか、ご両人!! 救世主じゃ、ほんに救世主じゃ、女子の服を着替えさせてくれたもうぞ!!」
そこにはエルシィの腰ほどしかない背丈の、真っ白なヒゲを顔が見えないほど生やした老人が姿を見せる。
予想外の珍客に、エルシィは唖然として目を瞬かせた。
一枚の布を縫った、不思議な形状の衣服と格闘すること、一刻ほど。
エルシィは老人の指南を受けながらようやく帯を結び、ホッと一息吐き出した。
「まま、あぃがと」
「どういたしまして」
腕の中にいる幼女に笑いかければ、彼女は涙を流しながら微かに微笑んだ。
足首まで伸びた長髪は墨のように黒く、灰青色の瞳からは絶えず涙が流れている。着せた衣服は厚手で上質な布地に、細やかな模様が織り込まれたもので、大きな紫陽花が描かれていた。
悪戦苦闘し結んだ帯には金の刺繍が施してあり、国の違いはあれど、どことなく高貴な家柄の幼女……に、思えなくもない。
エルシィは畳に横座りし、膝の上に抱き上げて幼女の背を撫でながら、しきりに感謝している老人に視線を向けた。
「ええと、ご説明をお願いしても……?」
「おおそうでしたな! 失敬しました。この幼子はヨヒラ様。コヅルテキ・ヨヒラ様でございますぞ。ここはヨヒラ様に設えられた屋敷になり申す」
「……その割には、誰もいないが」
屋敷を見て回ってきたセオドアが、襖を開けつつ顔を出す。
彼がエルシィの隣に腰を下ろすと、ヨヒラは腕を伸ばしてセオドアの衣服を引っ張った。
「ぱぱ」
「んー……ふふ、そうだぞ、パパだぜ」
「え、誰もいないんですか?」
可愛らしい幼女に骨抜きになっている男は置いておいて、エルシィは怪訝な顔で老人を見る。
幼女と老体二人だけでこの広い屋敷にいるなど、どう考えても不自然すぎた。もしや、と嫌な予感が脳裏を駆け巡って、エルシィにしがみ付くヨヒラを抱きしめ返す。
老人は太く白い眉毛を下げ、指先で頬を掻いた。
「左様です。宮支えはおるはずじゃが、寄り付かなくてのぉ……。女子の着替えは流石に手が足りず、困り果てておったのです」
老人の服装はヨヒラの格好にも似ているが、もう少しエルシーやセオドアに近かった。
彼曰く、突然猛烈な風が吹いて外に出ると、エルシィとセオドアが庭に倒れていたらしい。
慌てて運び込んで魔法で身体を乾かし、屋敷の中で一番清浄な部屋に横たえ、回復を待っていたのだそうだ。
魔法という単語にやはり予感は的中し、エルシィはヨヒラを見下ろす。
幼女は大きな目を瞬かせながら、未だ、溢れ続ける涙を衣服の袖で拭っていた。
「……この子が、聖女か」
セオドアの表情が痛ましげに曇る。
老人はやや驚いた双眸でこちらを見つめ、にこやかに破顔した。
「吾輩の幼子に心を痛めてくださるか、ご両人。ほんに美しきかな」
老人はエルシィからヨヒラを預かり、指先で後頭部の髪を優しくすき流す。
豊かな髪の間から見えた頭皮には、確かに赤く引き攣り変色した箇所が、十字のように見えた。
「左様ですぞ、御母堂並びに、御尊父様。ヨヒラ様は、このアマノテル国の聖女。霊水の聖女と呼ばれ申す」
そう言葉にした老人の体が、緩やかに水分を失い形を変え、部屋の天井ほどある真っ白な枯れ木の姿を取り戻す。
大木が朽ち果てたようにも見えるが、室内には少し苦い、けれども心安らぐ良い香りが漂った。
そして大木はパキパキと割れる音を響かせながら、中央が二つに裂けて何かが顔を出す。
両手を胸の前で組み、微笑みを讃えた、成人男性大はあるミイラだ。
一滴の水分もなく、腐敗の処理も済んだかに見えるソレは、目蓋を閉じたままであるのに、エルシィたちを見下ろしている感覚があった。
皺の寄った口が、緩やかに開閉し言葉を紡ぐ。
「お初にお目にかかりますぞ。オルジオフィリジルダと申す」
「おじじ」
「おお、ヨヒラ様。そうですぞ、おじじですぞ」
立ち上がったヨヒラが、やはり涙を流しながらオルジオに抱きついた。
ささくれで傷まぬよう注意を払い、枯れ木が蠢いて背中を撫でる仕草は、彼の深い愛情が伝わってくる。
彼らは外部から差し入れられる食材や、生活用品を頼りにしながら、二人で暮らしているのだという。
この屋敷は本来、とある目的でのみ使われる屋敷で、そもそも在住する人間がいない。加えてヨヒラが聖女として覚醒したことで、余計に誰も寄り付かなくなってしまい、オルジオはすっかり困り果てていたのだった。
救世主が舞い降りたと喜ぶ老体に、ヨヒラも嬉しそうに体を揺らしている。
しかし相変わらず涙に濡れた瞳を前に、エルシィとセオドアは互いに顔を見合わせた。
「……オルジオ。俺は今、レンズが壊れて、瞳に仕込んでいた魔術が一切なくなっている。ヨヒラお嬢さんは、どうして泣いているんだ?」
聞き捨てならない台詞に、エルシィは素っ頓狂な声を上げかけた。
しかし慌てて己の口を両手で塞ぎ、セオドアを見つめて後程の説明を求めていると、オルジオは軋んだ音を立てながら、外を一瞥する。
「ヨヒラ様は現在、魔法を垂れ流しておるのです」
「た、垂れ流す? ですか?」
「左様です。ヨヒラ様の心は、深く傷ついており申す。……この雨はヨヒラ様の魔法。この国は降り止まぬ魔法によって、緩やかに朽ち果てようとしておるのです」
自業自得なのだと。
掠れた声は雨音に紛れるように、色のない温度で鼓膜を震わせた。




