第54話
水の音がする。
天空から降り頻る、雨の音だ。
エルシィはゆっくりと目を開け、滲む視界に周囲を捉える。
全身が痛み、鉛のように重い。それでも腕に力を入れて起き上がると、薄い紙を貼った引き戸の向こうで、雨が振っているのが見えた。
美しい絵画のように石が並べられた、庭園、だろうか。
中央には小川が流れ、短い橋がかかる細い道には、白い砂利が敷き詰められてあった。
厳かな気配の中、しとしとと雨が振っている。
「…………ぅ……」
隣で誰かが身じろぎ、エルシィはハッと身を翻した。
しかし倒れていたのがセオドアだと認識すると、安堵の息を吐きつつ声をかける。
「旦那さま……!」
「…………ぅ、ぐ……頭、いってぇ……、……エルシィ……?」
彼は片手で顔を覆い、呻きながら上体を起こした。
引き戸と同じく不思議な形状の床を見て、部屋の様子を窺ってから、エルシィを視界に入れる。
「ここは……?」
「分からないんです。目が覚めたらわたしも、ここに」
柱がいくつも並ぶ広い室内には、誰の気配もなかった。
セオドアは鬱陶しげに前髪をすき流し、目を細めた後、何事か驚いた声を上げる。
どこか他に痛むのかと覗き込めば、彼はエルシィから顔を背けて、片手で口を覆った。
横顔は前髪に隠されているが、影になった表情は、酷く焦燥を抱えている。
「旦那さま? どうしたんですか、どこか痛みますか!?」
「ち、違う。……ごめん、今、……っエルシィ、だめだ、頼む、今は俺を……!」
思わず身を乗り出したエルシィは、──呼吸を止めた。
黒い髪の下で揺れる、青と真紅のオッドアイ。
腕で隠そうとするセオドアの双眸が、いつもの紫色ではなくなっているからだ。
エルシィから身を離したセオドアは、前髪を指先で握りしめ俯く。
その反応はエルシィの疑念を肯定するには十分で、彼女は大きく息を吸い込んだ。
やはり彼は初めから、エルシィの事を知っていたのだ。
旧王国時代の直系は、須くオッドアイを受け継ぐという。
しかし遠き時代より細々と続く遺伝のため、今はもうごく一部の人間しか伝わっていないらしい。
エルシィの母は、父から聞いたと言っていた。
ハープシコードを継ぐセオドアが、知らない訳がないのだ。
沈黙の中、雨だけが音を響かせる。
エルシィは呆然と彼を見つめ、徐々に感情が込み上げてきて、ポツリと呟いた。
「…………なんの目的で、わたしに近づいたの」
セオドアが慌てて顔を上げ、首を左右に振る。
「違う、君を何かに利用しようとしたわけじゃない」
「じゃあどうして、今まで黙ってたの? わたしがあなたと同じだって」
「言う必要がないだろう? 君はエルシィ・サックスだ。サキソフォンの姓はもう、この世にはない」
「必要ないわけないじゃない! そうだ、だって、あなた最初からおかしかった。わたしのことに詳しすぎた。あなた、一番初めに名乗った時、わたしの事を知っていたわ!!」
自らの叫び声に心臓を取り込まれて、肺が上手く機能出来ず息が吸えない。
過呼吸気味に喉を空気が抜けていき、触れようとする男の手を叩き飛ばす。
頭の片隅では、彼の言い分は理解できた。だがそれでもエルシィは悲しいのだ。
込み上げる想いは涙となって溢れて、ようやく頬を濡らす水滴が、更に寂しさを助長させていく。
セオドアの本心がどこにあるのか、エルシィは分からなくなっていた。
この感情を憤りだと呼べばそうであるし、深い悲しみだと表現すれば間違いではない。
エルシィに好意を寄せているのか、目的の為の手段であるのか、何も分からないことが、彼の行動も言動も彼女の心を乱していく。
ルヴィナが以前、セオドアはエルシィに嫌われることで安堵していると言っていた。
エルシィの表情を見極め、踏み込んで良いところで踏みとどまり、己に向かう嫌悪に胸を撫で下ろす。
もしそうであるならあまりにも、この男の感情は自分勝手がすぎるだろう。
唇を噛み締めながら泣くエルシィに、セオドアは両手を彷徨わせ、緩やかに床に落とした。
彼は呆然と彼女を見つめ、ひくりと喉を震わせ、苦く笑う。
「その顔、嫌い。笑って誤魔化さないで」
本心を見せようとしない笑みだ。
酷く神経を逆撫でして、全ての感情が混ぜ合わさったものが、エルシィの脳内を埋め尽くす。
「わたしに嫌われたいなら、そう言って。言葉にして。誤魔化さないで、ちゃんと言って、どうしてわたしに近づいたの、あなたの言葉が欲しいのよ、セオドアさま!!」
広い室内に、余韻が解けた。
息を荒らげるエルシィの前で、セオドアは暫し、呆然とした顔をしていた。
しかし奥歯を噛み締めて言葉を詰まらせると、彼女の細い両手を握りしめる。
汗ばんだ手のひらはそれだけ、彼の緊張を伝えてくるようで、エルシィは目を見開いた。
「……ずっと、君に会える日を待ち望んでいた」
「え……?」
「君の事は確かに知っていた。だけど、それは今の俺じゃない。だから君に会って、君を知って、それまでの俺が好きになった女の子を、自分の目で確かめたかったんだ」
「ま、……待って、何を言って……?」
セオドアの言い分は支離滅裂だ。
だいたい今のや、それまでとは、いったい何を言っているのか。全く理解が追いつかない。
困惑を隠せないエルシィに、セオドアは目尻を緩ませて眉を下げる。
「君の立体魔法陣は、破壊と終焉を司る。……その発生条件を、教えただろ?」
セオドアの指先が優しく手の甲を撫でた。
それは決して不埒なものではなく、ただ、エルシィを案ずる心が伝わってくる。
「君が俺を好きになってくれて、俺に全てを明け渡してくれる度に、世界は何度も崩壊して、創造されるのだそうだ」
エルシィが破壊して、イザベルが創造する世界は、何度も同じ時代を繰り返す。
その中で死期を迎えるセオドアは、ずっと、繰り返す世界を一冊の本に書き留めていた。
先人が残した記録を学び、魔術を身につけ、今度こそ彼女と共に世界を進めるよう、研鑽を積んできた。
いくら同じ時代を繰り返しても、全く同じ日々にはならない。
それを信じてセオドアは、少しずつ本の記述と違う事を模索しながら、別の未来を探しているのだ。
二人が永遠の愛を誓って結ばれれば最期、未来は永久にやってこない。
それでもセオドアは命を得るたびに、エルシィ以外を選ぶことはあり得ないのだ。
「なぁ好きだよ、エルシィ。魔術師としてこう言っちゃなんだが、言葉なんて陳腐なものだ。俺はまぁこんな性格だし、口に出すほど嘘っぽいだろ? でも、君への感情を文字にするなら、愛してる意外に適切な単語はないんだぜ」
「……セオドアさま」
「一目見て、君を好きになった。こんな強気可愛い君を誰にも譲りたくなかった。きっと以前の俺も、こんな気持ちで傍にいたんだろうな」
「せ、おどあ、……さま」
セオドアは微笑んで、エルシィの額に口づける。
「エルシィ、俺の奥さま。なぁ嘘じゃねぇんだ。君と結婚して縁者になって、君の一番近くで君を愛していたいから、俺は君に近づいた。……君に魔術を施したのだって、君が他の誰かの所へ行ってしまうのを、俺が堪えられないからだ」
エルシィに心から愛する人が出来たら、セオドアとの縁が切れるように。
そのときは憤りと悲しさしかなかったが、彼の本心はエルシィの思考とは別の所にあったのだ。
おそらく今、エルシィが同じ立場に追い込まれたら、セオドアに対して似通った未来を望むだろう。
恥ずかしいな、と彼は笑う。
鼻先は赤くて声は震えて、エルシィに触れる指先は小刻みに揺れるのに、セオドアはまっすぐにエルシィを見つめている。
恥ずかしい事などなにもないと、安心を与えたい相貌だった。
「……その、……ええと、魔術って、セオドアさまには無効なんですよね?」
「うん? ……ん? まぁ、対象が俺じゃあ、君に心から愛された一番いい男の称号を逃しちまうからな。そこはちゃんと抜かりな」
「なら、いいです」
毒気も何もかも抜かれて、苦笑交じりに笑ってセオドアを引き寄せる。
「ひどいこと言って、ごめんなさい。ならもういいんです。……わたしも、あなたを好きですから」
饒舌に回る呼吸をふさぐように、エルシィは夫に口付けた。




