第35話
琴・美炎が最初の死を迎えた時、その女は女官であった。
彼女はベッドにうつ伏せに倒れ、虫の息であったメイイェンに、穏やかな声で囁いたのだ。
「これは流石に、わたくしも手に負えません。でも安心してください。すぐに新しい命をお創りしましょう」
布で顔面を隠す女官姿のまま、女はメイイェンの身体に、立体魔法陣の効力を付与していく。
それは創世の神と等しい力であって、同時に最も遠い劣悪でもあった。
メイイェンの背中に浮かび上がった聖痕が、痛みによって幼い彼女の意識を引き戻す。おそらく幻想生物が、己に呼びかけてくれていたのだろう。
しかし救われた命は、いとも簡単に創世の力によって奪われ、材料となり、再構築されていく。
女は自らの姓を名乗らなかった。
名乗らなかったから、赦されていた。
琴家を傍系に据える本家筋であっても、バスガイゲを名乗らなければ、同じ人間として尊重される。
馬鹿げでいると思っても、メイイェンは死にたくないと縋るしかなかった。
今思えば、ペイジフェイリリスの降臨を受け入れた方が、得策だったと確信している。
その時のメイイェンの心は、己を刺し殺した相手を必ず殺すのだと、苛烈な信念しか渦巻いていなかった。
目前に迫る死に気ばかりが急いで、女がどれほど悪質な相手なのか、知ろうともしなかったのだ。
二度目の人生は、優しい両親の元にいた。
それでも同じ容姿で生まれ直したメイイェンは、両親のどちらとも似ていない。そこではザクロの実に扮したフェイが居て、おまけに記憶も保持していたから、尚更、自分がどこにいるのか分からなかった。
やっと言葉を話し始めた頃、噂を聞きつけたチン一族に召し抱えられ、皇帝に返り咲いた。
それでも十歳を迎える前日の夜、メイイェンは二度目の死を迎える。
自分を抱えて、必死に医者へ縋るフェイの姿に、少しだけ救われて永遠の眠りにつくはずだった。
三度目の人生は、物心ついた時には皇宮にいた。
メイイェンと繋がっているフェイが、国中を回って探し出し、赤子の彼女を預かったのだという。
しかしその頃は、世継ぎを心配した高官たちが、事実上の最高権力者であった紅優の世継ぎ問題を心配し、美陽を妻にあてがった時期だった。
それでも古き歴史より、皇帝の座に座るのは、炎のような髪をもつ者だけ。
メイイェンに記憶があっても、精神が十歳から大人になるわけではない。
メイイェンは両親と手紙のやり取りをしながら、ただ皇帝の座にあるだけの幼子でしかなかった。
そしてやはり、誕生日を迎える前日の夜に死んだ。
四度目の人生で、ホンヨウが涙したことを覚えている。
その頃から、現皇帝には死者蘇生の術があるなどと市政で話題になり、女皇帝メイイェンは一種の娯楽になっていた。
方々を駆けずり回り、解決の糸口を探していたホンヨウが、その噂に激怒したのだ。
彼を宥めるのはいつもメイイャンで、彼女との間には子供もいる。実質、政治を動かしているのは彼らで、傀儡でこそないながらも、メイイェンはただ、生きているしかない器だった。
妻に寄りかかり、疲れた表情で涙するホンヨウ。
寄り添い励まし合う家族に、女皇帝の居場所はなかったのだ。
五度目の人生は、皇帝から逃げ出そうと部屋に篭った。
フェイはそれでも良いと甘やかし、周囲も幻想生物の意見に倣う。
己が信頼する従者は、メイイェンの疲労を理解してくれたが、周囲の思惑はまた別のことだった。
メイイェンが表舞台に出てこなければ、ホンヨウを支えるメイイャンに光がさす。彼女の父親は国でも重鎮、筆頭高官だ。どれほどメイイェンの存在が邪魔であるか、想像に難くない。
それでも女皇帝は、王座から降りることはできなかった。
髪を墨で黒く染めても、西国の技術を応用し、魔法で髪色を変えても。
優しい腕の中を夢見て、届かない絶望に嘆いて、眠れぬ夜を過ごしても。
六度目の人生で、彼女の生きる世界に複数人の聖女が誕生した。
世界中を飛びわまり、メイイェンの呪いを解く鍵を見つけようと、ホンヨウもフェイも躍起になっていた。
しかし当の本人は、一連の転生にほとほと嫌気がさしていたのだ。
自分にはもう、チン家の血は一滴も流れていない。
今生の両親は、国でも遠方の地域出身だと聞いている。本来なら生まれるはずだった我が子の命を食い潰し、生まれてきたメイイェンを、両親が愛せるはずもなかった。
惰性で生きていたわけでもないが、メイイェンは疲れていた。
殺したいという思いに、生きなければという願いに、心の底から辟易していた。
フェイが嬉々として語り、会いたいと顔を綻ばせる彼女に出会うまでは。
聖女の力を増幅させるという、奇異な存在を、実際にこの目で見るまでは。
王座の上から派手な登場で印象づけ、謁見に訪れたその人を見ながら、メイイェンは思った。
なんて美しい人なのだろう。
痛みのないオリーブの長髪。意志の強く、しかし優しい、金と青の幻想的なオッドアイ。珠の肌は白く可憐で、心地よい声音。
天女が桃源郷より降臨したのかと思うほど、エルシィ・サックスは美しい人だった。
この美しい人を自分から遠ざけねばならない。心からそう思った。
メイイェンは未だ生き汚く命に固執し、疲弊しては絶望を繰り返す。背中の聖痕はことあるごとに痛みを訴え、少女の精神を蝕んでいく。
そんな自分を、この美しい人に見られたくなかった。
この美しい人に、心の奥底に眠る全てを、知られたくなかったのだ。
炎鳥が甲高い咆哮を上げる。
それは大きく炎が爆ぜる音だ。
メイイェンは靴の踵で床を踏み鳴らし、焼き付けた魔術式の効力を復活させる。
視線を下げればエルシィが、目を丸くして見上げていた。
その肌にはいくつもの裂傷ができ、口からは血が溢れている。メイイェンはあまりの痛ましさに、己が事と涙をこぼして、服の裾で口元を拭った。
そして目尻を吊り上げてエルシィを背に庇い、床に二重、三重と魔法陣を展開していく。
力が漲ってくる。ここで死んではいけないと、誰かが脳に訴えてくる。
それは確かに彼女を聖女たらしめ、背中の聖痕が熱を帯びて爆ぜるのに、勇気が湧いてくる。
知られたくなかった。見られたくなった。
それでもエルシィに抱きしめられて、ようやく認める事ができた。
自分は命を繰り返すほど、ずっと悲しかったのだと。
メイイェンは己の背中から繋がる草花の根を、両手で引き抜いて怒号を張り上げた。
「あたくしは鬼灯帝国第17代皇帝、琴・美炎!! これ以上ママの前で、無様な姿は晒せませんわ──ッ!!」
立体魔法陣に襲いかかるのは、鉄の融点と同じ温度。
周囲を巻き込んでぶつかった魔法の塊に、メイイェンと立体魔法陣を繋いでいた線が、完全に焼き切れ霧散した。




