第34話
部屋中に敷き詰められた魔術式の上で、女皇帝は長椅子に座る。
肘置きにもたれかかる姿は悠然としていて、動揺も緊張も見受けられないようだった。
セオドアはチェンノッタを隣に呼び寄せ、小さな頭を撫でつつ床に膝をつく。
「抜かりはないだろうな?」
「当然だろ」
「よし、いい子だ。……女皇帝、今から君と立体魔法陣を切り離す。フェイは彼女の傍から少し離れてろ」
「えっ、なんでよ」
不服げに唇を尖らせたフェイに、セオドアは眉を寄せ、ドアを背にするルヴィナとシテラを視線で示した。
「そんな近くにいたら、心臓ごと木っ端微塵に吹き飛ぶだろ」
物騒な物言いに顔色を悪くし、フェイはメイイェンと軽い抱擁を交わした後、渋々離れていく。
エルシィの肩に止まっていたウィズィが、チェンノッタの合図で姿を変え、本性を現した。
脳を模した頭から液体を垂れ流しつつ、彼は木の根でエルシィと魔術師組を抱える。僅かな隙間から腕を伸ばし、セオドアは足元にある魔術式の起点に指先で触れた。
部屋中の術式が共鳴し、淡い光を放ち始める。
それは徐々にメイイェンが座る長椅子にまで伸びていき、彼女の靴に書かれたものと融合した。
刹那、興味深く周囲を見渡していた女皇帝の顔色が、一気に青ざめる。
彼女は両手で己の細い体を抱え、必死に奥歯を噛み締めて、脂汗を額に滲ませた。
「メイイェン!」
「ダメですわ、ペイジフェイリリス!! こちらに来ては赦しませんわ……!!」
叫んだ従者に叫び返し、メイイェンの身体が傾ぐ。
表情に苦痛を浮かべ長椅子から床に倒れ込んだ彼女に、エルシィは咄嗟に走り寄ろうとしてセオドアに腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、彼はメイイェンの様子を見つめたまま、険しい顔を左右に振る。
メイイェンの背中から、半透明で美しい、春の草花が咲き始める。
それは緩やかな円形状に変化し、一瞬の静寂の後、複雑な模様が織りなす立体魔法陣を形作った。
切り離しは成功したのだろうか。
メイイェンが肩越しに立体魔法陣を振り返り、忌ま忌ましげに睨み上げる。
彼女が浮かぶ球体の下から這い出ようとした時、背中から伸びていた草葉の根が一本、ぷつりと切れた。
エルシィの頭上で、セオドアが悪態をついたのが、確かに空気を震わせる。
彼はエルシィをチェンノッタに預けると、ウィズィの木の根を潜って外に飛び出した。
「──っ!!」
メイイェンの絶叫が響き渡った。
立体魔法陣の効力に押し切られ、彼女を守っていた魔術式が、次々と音を立てて崩壊し始める。
セオドアは腰元に下げていたペンケースから別の万年筆を引き抜き、インクカートリッジを取り替えると、そのままペン先を立体魔法陣に突き刺した。
一心不乱に魔術式を描き込み始めれば、美しい円形であった立体魔法陣がたわんで形を変える。
しかし反発しあうのか、メイイェンの聖女の力なのか、彼の服の裾が焦げ始めた。
「上書きなんてむりだよセオドア!! ルヴィナ、防御壁を張って!!」
「わっ、わかった!」
事態の深刻さを察したチェンノッタが、真っ青な顔でルヴィナに呼びかける。
呪文を唱え始めるルヴィナの足元に、魔法陣が現れた。しかし普段よりもどこか歪で、彼女は眉を寄せて足下を凝視する。
シテラが姿を変えると蔓を巻いて、ルヴィナとフェイを守護しようと蠢いた。
「メイイェン、メイイェン! しっかりして、メイイェン……!」
「フェイ、動いてはいけません!!」
シテラを押しのけようとするフェイを鋭く制し、シテラは花弁に浮かぶ眼球で新たな聖女を見据える。
床をのたうちまわるメイイェンは、喉を嗄らしながら細い手を伸ばしていた。
百草霜色の瞳を涙で濡らし、けれども憎悪に縁取られた双眸で、空中に向かって腕を伸ばしている。
通常よりも時間をかけて、ルヴィナの防御壁が完成し、セオドアを包み込む。膝から崩れ落ちた彼は、鼻から垂れた血を無造作に拭い、瞬く間も無く魔術式を書き連ねていた。
「の、ノッタくん、彼は何をしているの?」
「あのよく分からない魔法陣が、皇帝さまを引きずり戻そうとしているんだと思う。だからセオドアは、立体魔法陣に魔術式を直書きすることで、魔法陣の効果を上書きしようとしてるんだ」
でも、とチェンノッタは首を左右に振った。
「あの魔法陣、効力がめちゃくちゃだ。セオドアがすごい人なのは分かるけど、あんなことやってたら、アイツの方が先に死んじゃうよ……!!」
ルヴィナの魔法で守られていても尚、立体魔法陣は悲鳴のように大きくなって、目を見張るほど美しい半透明な花を咲かせていく。
セオドアが呻いて片手で頭を押さえ、メイイェンが痛みに泣き叫んだ。
高度な魔術式を行使した脳が、限界を迎え始めているのだ。
彼がいかに常人を逸脱しているとはいえ、それでも人間なことに変わりはない。
どうしたら、と震えるエルシィの目は、確かにメイイェンがこちらを見ている事に、気がついた。
「……け、て」
甲高い、鼓膜が支障をきたすほどの音が、セオドアの魔術に反発し響き渡る。
それでもエルシィには、確かに彼女の声が聞こえたのだ。
「助け、て……おか、ぁ、さま……!」
──ねぇ、エルシィ。どうするの?
ウィズィの木の根を掻い潜り、エルシィは考える間も無く飛び出していた。
背後でチェンノッタが叫ぶ声が聞こえるが、思考が振り切れて答える余裕もなく、立体魔法陣の中に飛び込んでいく。
「!? エルシィやめろ、戻れ!!」
突然の事態に目を見開いたセオドアの制止も振り切り、メイイェンの体を抱き起こした。
凄まじい何かが電流のように、身体の中を駆け巡って内臓を傷つける。あまりの痛みに意識が飛びかけるが、必死に手繰り寄せ、強くメイイェンを抱きしめた。
口から血を吐いても、皮膚が裂けて血が滲んでも、エルシィは穏やかな声で呼びかける。
「大丈夫、わたしは、ここよ」
瞬間。
エルシィとセオドアの周囲を、鳥の姿をした炎が駆け巡った。
それは消えかけていた魔術式を、木造の床や壁に焼き印として上書きしていく。
効力を取り戻した術式に、一層魔法陣が膨らんだが、火鳥が飛び移って天井まで上がる火柱に変わった。
呆気に取られたエルシィとセオドアに対しては、穏やかで暖かな炎が身体を守る。
しかしその本質は、立体魔法陣を彩る草花を根こそぎ焼き尽くしていく、苛烈な魔法の集合体だった。
「…………怪我、させましたわね」
胸元から顔をあげたメイイェンが、エルシィの傷ついた頬を両手で撫でた後、彼女の頭を抱え込む。その声は怒りに塗り固められ、しかしエルシィの髪を撫でる指先は愛情に溢れていた。
燃える炎を纏わせて、火焔の聖女は己を蝕む立体魔法陣を睨みつける。
「……あたくしのママを傷つけるなんて、笑止千万。万死に値しますわよ……!!」




