第31話
離宮へ続く渡り廊下の下に、花菖蒲が風に吹かれる。
茶葉を蒸した香りを漂わせながら迎えられた先は、メイイェンの私殿であった。
本殿と違い、落ち着いた色合いと、こぢんまりした間取りが印象的である。
無言で着いてきた女官が、茶の用意を行うのを横目に見つつ。
エルシィは硬い椅子に腰を下ろし、すぐに飛んできたチェンノッタを膝に抱き上げた。
「おうおうおう御母堂様よぉ。ありゃァやべーってやつなんじゃねーか?」
肩に留まったウィズィが、声を顰めつつ耳打ちする。
視線の先では、明らかに困惑しかない表情のセオドアに、破顔一笑のメイイェンがぶら下がっていた。
シレッと後出しされたフェイの情報曰く、メイイェンは強者が大好物なのだという。
自分が気に入った相手であれば、誰彼構わず求婚を申し入れるらしく、他の人間も知っているので問題ない、ということだった。
どう考えても倫理的に、問題しかない。
エルシィは女皇帝に、セオドアの安全を確保するため、後ろ楯になって欲しい希望がある。彼が気に入られれば越したことはなく、その面から見れば確かに問題はない。
しかし今の状況に納得できるかと言えばそうでもなく、頭を悩ませていた。
セオドアは一人、メイイェンの座る長椅子に連れて行かれている。
顔を引き攣らせながら対応する彼に、メイイェンが腕にしがみついて、不意にエルシィへ視線を向けた。
「そうそう、聞きましたわよ。あたくしの国に、後ろ楯になって欲しいのでしたわね」
「は、はい」
「良くてよ良くてよ。あたくし、過去の因縁など興味ございませんの。強者はそれだけで全てですわ」
おほほほ、と笑うメイイェンの瞳は、どこか挑発的な色を宿している。人型になり長椅子の後ろに控えているフェイが、椅子の背に肘を立てて頬付けをついた。
「さっすがアタシの聖女ちゃん。話が分かるわ」
「当たり前でしてよ。ただ、ねぇ、ハープシコード王? あたくしの側室になりなさいな」
「そっ……!?」
予想外な方向へ進んでいく話に、セオドアが絶句した後、顔を引き攣らせて片手を左右に振る。
女皇帝であれば側室とは男になるのだろうが、あまりの急展開にエルシィも微妙な顔をしてしまう。
「そ、れは、無理難題だなぁ、お嬢さん……?」
「あらどうしてですの? あなたとあたくしなら、世界征服も夢ではありませんわ」
小さな指がセオドアの頬を撫で、どこか妖艶な炎は瞳に宿った。
彼女は硬直する男に寄りかかりつつ、やはり視線はエルシィに向かって、艶やかに笑う。
「彼女は、あなたのような人間には、吊り合いませんでしょ?」
勝ち誇ったような、蔑んだような。敵意すら感じさせる視線が肌を撫でた。
エルシィは眉を下げて微笑み、チェンノッタを抱きかかえる腕に僅かに力を込める。
それは反論する余地もない事実だろう。
何せエルシィは魔法使いでも魔術師でもなく、ましてや聖女でもない。特殊な力があっても自由に扱えるわけでもない。
セオドアに守られずとも、平穏さえ約束してもらえれば構わない、普通の人間なのだ。
仮面をつけたチェンノッタが、エルシィを降りあおぐ。
そして床に魔法陣を描くと、花吹雪の影を揺らめかせた。
「……皇帝さまは、僕のママを笑い者にしたくて、ここに呼んだんですか?」
もはや殺意すら感じさせる気配に、メイイェンは怯む事なく笑みを深める。
「あら嫌だ、あたくしったら、すぐ考えが口に出てしまうの。ごめん遊ばせ」
「……僕らをバカにしているの?」
「の、ノッタくん! いいの、ありがとう、大丈夫だから」
慌ててエルシィが仲裁に入ると、チェンノッタは不服そうに顔を向けた後、彼女の片腕に擦り寄った。
少年が怒りを露わにしてくれるのは嬉しいが、小競り合いは得策ではない。メイイェンは民草から見れば権力の塊である。後ろ楯を望むからと言って、おいそれと不躾な態度で望んで良い相手でもないだろう。
エルシィとチェンノッタの様子を、光のない眼差しで見つめた女皇帝は、さて、と話題を切り上げた。
「あたくしが条件をのむということは、失敗は許しませんことよ。必ず呪いの解除に尽力し、計らいなさい」
椅子の背にもたれかかり、足を組み替えた彼女は、セオドアを一瞥する。
彼は長い溜め息を吐き出して、メイイェンを横目に眺めた後、口を開いた。
「……まず、女皇帝。前提として、世間一般が考える相手を呪うという行為を、魔法や魔術はできない」
「え?」
寝耳に水なのは、この場にいる全員だ。それはメイイェンやフェイも同様である。
怪訝な顔で顔を見合わせた二人は、やや背筋を正して眉を寄せた。
「魔法や魔術は基本的、術を発動し続けることがとても難しい。それは魔法が視覚に依存し、魔術が聴覚に依存しているからだ」
魔法使いが呪文を唱えるのは、“こちらをよく見ろ”。魔術師が魔術式を使用するのは、“よく耳を傾けろ”という意思表示なのだという。
魔法使いは特に融通が利き、力ある人間なら、呪文など呟かなくとも魔法の行使だけは可能なのだ。対象が無機物であれば特に顕著で、例えば甘味処の内装をルヴィナが直した時、彼女は呪文を呟いていない。
自分一人が扱う術なら、それだけでも十分だ。
しかし生物相手では、こうもいかない。
言語の違いや種族の違いは関係なかった。魔法陣を見せ、魔術式を聞かせ、相手に自らを認識させなければ、十分な効果が得られないのである。
「女皇帝のように、圧倒的な存在感を誇示できれば、呪文は確かに必要ない。君が俺に攻撃した時も、あれは呪文ではないんだろ?」
「……その通りですわ。今、市政で話題の人形劇を真似しましたの」
「もちろん君は聖女で、幻想生物と共同で力を高めているんだろう。人外的な要因が加われば、この限りではないだろうな。だが前提として、相手が見えない、知らない、聞こえない術っていうのは、ほとんど意味をなさないんだ」
特にメイイェンが患っているような、周囲の全てを巻き込んで発動する魔法や魔術など、最初の一回発動が成功すればよい方だろう。
周到に用意するとなれば魔術が適しているだろうが、魔術インクはそもそも風化する。それこそ国中どころか国民全てに魔術式を刻み、複雑な式を組み立て、周期的にインクを書き足していかなければならない。とてもでないが、現実的ではなかった。
何度も決まった瞬間に、術者が傍に居ないところで発動し続けるなど、理論上は不可能なのだ。
そしてそれだけ規格外な力を扱うなど、それこそ聖女であっても難しい。そんな莫大な魔力を留めておけるほど、人間の肉体は強靭ではない。
断言するセオドアに、メイイェンが青い顔で口を閉ざす。
彼女は三つ編みを巻いた髪を所在なく撫で、唇を噛み締めて俯いた。
「それでは、あたくしの、これは、……なんなんですの?」
呼吸を詰まらせながら歯噛みするメイイェンに、セオドアが眉間の皺を深める。
「言っただろう。魔法や魔術は、できない」
「え……」
「願っただろうと、言われなかったか? 君が望んだ事だと、言われなかった? ……無責任に君の命を救った、その女に」




