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第19話




 エルシィはセオドアと同室だと言う事実に、動揺した己を金槌で打ち据えたくなった。


 団欒スペースの広いテーブルに書類を広げ、全員で歓談しながらセオドアは書類の活字を追う。そして必要な箇所にペンを走らせ、エルシィに手渡した。


「ここに名前を書いてくれ。親の同意は不問にチェック」

「は、はい」

「住所は割愛するから斜線で良いか。えーと? 夫婦別姓に丸、と。あとは……こりゃなんだ? 委任状?」


 非常に軽快かつ簡潔に婚姻届の記入が進んでいくのである。

 エルシィはてっきり、同室で二人きりの状態で書くのかと腹を括り、美味しい夕食が半分も喉を通らなかった。普通の顔色で振る舞い、子供達やシテラの話に相槌を打っていても、内容は半分以上頭に留まっていなかったのだ。

 緊張で吐き気すらあったと思う。シテラが少し同情気味な視線を向けてくるのも痛かった。


 だがいざ向き合い蓋を変えてみれば、どうだろう。

 セオドアは興味津々なルヴィナとチェンノッタに説明しながら、全員が見えるところで、特別なことなど何もないかのように、書類を作成し始めたのである。


 エルシィは恥じた。

 何か大切な、乙女としての矜持を粉々に砕かれた気がして、そんな己の自意識過剰を恥じるしかなかった。

 婚姻届を記入する前、両親に手紙をしたためたのだが、やはり数行書き加えておくべきだったと後悔する。


 ──お父さん、お母さん。予想外な出来事が重なり、自分の身を守る為に結婚することになりましたが、心配しないでください。

 ──旦那さまとなる方には結婚後、いの一番に脳天杭打ち(パイルドライバー)しておきます。


 エルシィは固い決意を拳に込め、ペン先を折りそうになりながら、自らの名前を署名した。

 その後すぐ、事務作業の延長のように二人で婚姻届を提出し、晴れて書面上、夫婦になったわけである。



 

 ……と、無駄に神経を擦り減らしながら、実は全員が居る状況に安堵していた己を、金槌で殴り飛ばしたくなった。


「奥さま、すごいぞ! この部屋だと酒が一本無料らしい!」


 嬉々として受付から瓶をもらってきたセオドアが、確かにエルシィの前にいる。

 風呂上がりで髪も肌も少し濡れて、リネンの館内着に身を包む男が、確かに隣のベッドを使うのだ。

 エルシィはなるべく見ないようにしながら、適当に相槌を打つ。そしてかっちり着込んだ館内着の胸元を、更に片手で引き寄せた。


 端的に言おう。

 頭から火が出そうなほど緊張している。


 チェンノッタかルヴィナが、ママと同室が良い、とでも言ってくれたらよかった。二人ともシテラに誘われ、隣室に行ってしまっている。突発的な移動の疲れがあり、早々に寝たいという希望もあったのだろう。

 セオドアと見送ったエルシィは、ベッドの端で身を縮こまらせながら、早くこの時間が過ぎてくれと祈るしかなかった。


「奥さまはハーブティーでいいか?」

「お、おおお、おかまいなく」

「お構うなぁ、……奥さま、ちょっとこちらに来ようか」


 窓際に備え付けられた小さなテーブルと、上質な布が張られたカウチ。その一つにセオドアが座り、行儀悪く瓶をラッパ飲みしながら、エルシィを手招いた。

 テーブルには何故か、彼が愛用している魔術用の万年筆と、不思議な色のインク壺が置いてある。エルシィが頼りない足取りで近づくと、彼は向かい側へ座るよう促した。


「さて、俺たちは新婚さんで、今日は事実上、初夜なわけだが」

「帰ります」

「待て待て待て違う違う、君をどうこうする気は俺にはない!」

「じゃあなんでそんな締まりのない顔するんですか!!」

「超絶美女の奥さまと同室だぞ、俺も男だ少しくらい【自主規制】な夢くらい見る!!」

「言葉に出さないでよ変態ばかきらい!」


 一悶着してセオドアを引っ叩いてから、エルシィは渋々席につく。

 彼は物理的な衝撃で赤らんだ頬を手の平で撫でつつ、インク壺の蓋を開けた。


「奥さま、俺は誓って君に手は出さない。ただ、今から魔術式を書き込むから、それを誰にも見られたくないだけだ」

「……変なこと、するんですか?」

「まさか! 違うって。この魔術インク、冗談でないほど高額なんだ。盗難防止ってことだぜ」

「盗難防止」

「これ一つで、国一つ買える」


 エルシィは再度、今度は驚愕して声を上げそうになる。

 確かにそれほど高額なら、団欒スペースで使用するのは得策ではないだろう。宿泊施設の従業員が突然入ってくることはないが、用心を重ねるに越したことはない。

 エルシィが緊張の眼差しでインク壺を見つめていると、セオドアが万年筆を片手に取った。


「君の唇に書くぞ」

「え? 変なとこに書くんですね? どういった意図が……?」

「君に」


 セオドアが続けようとした言葉を、不自然に切った。

 視線を上げれば、彼は双眸を揺らしてエルシィを見つめ、眉間に深い皺を刻む。

 そして自嘲交じりに口角を上げて、ゆっくりとペン先をインクに浸けた。


 小さな壺の中では、角度によって金色や銀色、黒、青など、様々な色に移ろうインクだ。しかし付着し一度外に出ると、無色透明に変化する。

 セオドアは慎重に余計なインクを落としてから、片手をエルシィの頬に添えて、親指の腹を顎に押し当てた。


「君に、心底、愛する人ができたら、セオドア・ハープシコードとの縁が切れるように」

「…………え……」

「君が愛する人とキスをしたら、魔術が発動するように。……ああくそ、自分で言ってて虚しいな」


 そう言いながらも、彼は手を止めずに魔術式を書き込んでいく。

 本来、魔術式にそういった発動方法は存在しないと言う。だが、エルシィがもつ立体魔法陣の力と組み合わせることで、精神の作用を引き金にする魔術が完成するらしい。

 エルシィは淡々と説明するセオドアを、信じられない気持ちで見つめていた。

 それでもやめろと言えなかったのは、彼の瞳が、今まで異性に向けられた事がないほど真剣で、寂しい、双眸であったからだ。


 複雑な術式らしく、セオドアの額に汗が滲み始める。

 妙な緊張感に包まれた二人は、彼のペン先がエルシィの口端に当たったことで、ようやく緩和された。


「…………だーっ!! 書けた、緊張した、スッゲェ手が震えてる、もう書きたくない、頭の中がパンクしそうだ」


 万年筆をケースに突っ込みながら、セオドアが悲鳴を上げる。

 エルシィは指先で己の唇に触れて、なんの感覚もないことに泣きたくなった。


「旦那さま」


 そう呼びかけると、彼は目を丸くしてエルシィを見る。


「……わたし、旦那さまの事、好きになりそうにないです」

「うん? んふふ、知ってるぞ」

「あなたみたいな身勝手な人、わたし、きらいだわ」


 無性に腹立たしく、寂しく、悲しくて、エルシィは目蓋を伏せる。

 セオドアはやはり目を丸くした後、インク壺の蓋をキツく閉め直してから、エルシィの頬に両手で触れた。


「……うん、俺も、……俺もこんな身勝手な男、殺したいほど、嫌いだぜ」


 

 

 

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