第16話
今度の空間転移は、酔いがあった。
途中から別の何かがぶら下がる感覚がし、エルシィが目を開けると、白い砂浜の海岸に転がっていたのだ。
呆ける頭を片手で支えながら体を起こし、セオドアとルヴィナを探して視線を彷徨わせると、近くに横たわっている影に気がつく。
「……!? 大丈夫!?」
黒い塊だったのは、先ほど相対した少年だ。
抱き起こした体は驚くほど軽く、まるで実態がないかのように輪郭がぶれている。仮面に覆われていた顔面は真っ黒に塗りつぶされ、エルシィは短い悲鳴を上げた。
ドがつくほど素人の自分は、魔法にまったく明るくない。それでも状況を見るにこの少年は、もしや無理やり空間転移について来たのではないだろうか。
空間転移魔法は、物質を保護しながら書き換え、構築し直す魔法なのだとセオドアが説明していた。失敗すればその反動は凄まじいと、彼が言葉を濁したのも記憶に新しい。
彼の側にいた幻想生物も、彼が持っていた本も、目につく範囲には見当たらない。
なんとかせねばと、エルシィは涙目になりながら立ち上がった。
その時だ。
砂浜を歩く足音に気がついたのは。
「どうしました? お困りごとですか?」
振り返ると、小綺麗なワンピースを身にまとう、一人の女がいた。
エルシィよりも年上だろうか。海岸の延長にある美しい海を思わせる、グラデーションがかったマリンブルーの髪。垂れ目で銀と深紅のオッドアイ。日差しの下に映える肌は白く、物語の姫君を思わせる気品があった。
エルシィが抱える少年を目に留め、彼女は青い顔で走り寄ってくる。
「大変! このままでは、死んでしまうわ!」
「っど、どうしたら、わ、わたし」
「ああ美しい女神さま、涙を拭いて。大丈夫、安心してください。すぐに治します」
混乱していたエルシィは、治療を施すという彼女の両手に、少年を受け渡す。
彼女が息を吸い込んで目蓋を閉じると、周囲に風が吹き、立体魔法陣が少年の体を包み込んだ。
立体魔法陣の上から春の花が咲き乱れ、徐々に中央へ優しい光を宿していく。それは最後、少年の身体に吸い込まれていった。
黒く滲んだ輪郭が徐々に元通りに復元され、仮面が顔を覆う。全ての修復行程が終われば、立体魔法陣は小さな破裂音を立てて消えた。
ひく、と少年の喉が震え、呻きながら身じろぐ。治癒を施した女が見下ろすと、彼は呆けた様子を見せた後、慌てて起き上がりエルシィに飛びついた。
「きゃっ」
「***!!」
聞き取れない言語を発しながらエルシィの顔を撫で回した後、地面に降り立ち大きく両手を開いて、女の前に立ち塞がる。
威嚇する小動物じみた仕草に、女が朗らかに笑って肩を震わせた。
「あら、驚かせちゃったかしら」
「す、すみません、この子、ええと、知らない間に着いてきてしまって。助けてくださり、ありがとうございました」
「いいえ。お困りの女神へ奉仕するのは、当然のことです。……申し遅れました。わたくしはイザベルと申します」
「エルシィです。この子は──」
「…………チェンノッタ・ヴィオラカフ」
少年はエルシィの言葉を引き継ぎ、緊張感を滲ませる声音で名乗り上げる。そしてエルシィに振り返り、彼女の片手を小さな両手で握りしめた。
明らかに警戒を崩さないチェンノッタに困惑すると、対するイザベルはにっこりと笑い、フレアスカートの裾を持ち上げて頭を下げる。
「あなた方と縁で結ばれたことを、神に感謝いたします。……あら、いけない」
イザベルが視線を後方に移すと、遠方で船の汽笛の音が聞こえた。
彼女は旅行者で、ここへは物資の調達に立ち寄ったのだという。昼間の便で出立する予定なのだと、慌てて再度頭を下げる。
「慌ただしく申し訳ありません。またどこかでお会いできましたら」
「は、はい! お気をつけて」
「ええ、あなたも。良き旅路をお祈り申し上げます」
修道女のような言葉を残し、イザベルは軽やかな足取りで海岸沿いを駆けていく。
彼女の姿が見えなくなってから、エルシィは息を吐き出し、チェンノッタの前に両膝をついた。
彼はエルシィの片手を解放すると、ようやく安堵した様子で声をあげて笑い、彼女の首に両腕を回して抱きつく。
「ママ!」
「おっとっと、……っと、もう! どうしてついてきたの」
声を荒らげることはしなかったが、エルシィは心持ち強めにチェンノッタを叱った。
たまたま素晴らしい魔法使いが通りかかってくれたから良いものの、あのままでは少年は死んでいたのである。転移魔法にしがみついてでも来たのか、横入りしたのかは分からないが、危険な行為であることは事実なのだ。
チェンノッタは肩を跳ねさせ、仮面越しで分かりにくいものの、不思議そうにエルシィを見つめる。
「ママがいくなら、僕もいく」
「そうじゃなくて、危ないでしょう? 死にかけたのよ? ダメよ危ない事をしちゃ。いや、置いて行こうとしたわたしたちも、悪いと言えば悪いんだけど」
とはいえ、あの状況では少年を助ける猶予すらなかったのだ。
むしろ幻想生物が共にいて、あの場に留まって居た方が、チェンノッタは安全だったはずである。何せ銃弾が全く意味をなさず、掠りもしていなかったのだから。
眉を吊り上げるエルシィに、少年は僅かに距離を取ると、思い切り顔を背ける。
「***」
「え?」
「******」
不貞腐れたようにも聞こえるが、エルシィの耳には聞き馴染みのない外来語だ。
しかしこちらの言葉は通じているようなので、彼女は根気強くチェンノッタに言い聞かせる。
「もし死んじゃったら、誰も助けに行けないのよ? 君も危ない事をしているって、分かっているんでしょう? お願い、わたしをママって呼ぶなら、危ないことはやめて」
「****」
は、と。
チェンノッタ少年が明らかに、──鼻で笑った。
これは流石にエルシィにも伝わり、彼女は目を丸くして呆気に取られる。
「*****」
何事か、おそらくあまり良くない意味の言葉を投げかけられた時、チェンノッタの足元へ魔法陣が出現した。
瞬く間に顕現したシテラが、蔓に少年を捉えて、小さな体を容赦なく締め上げる。
ダメだと叫んで止めに入ろうとした時、背後から地を這うような重低音が聞こえ、エルシィは思わず竦み上がった。
「──おい、俺の奥さまに今なんて言った? もう一度言ってみろよこのクソガキが……!」




