第14話
セオドア・ハープシコードという男は、一つの王国だ。
その姓を名乗るということは、世界中から敵視される国となり、同時に畏怖と脅威の象徴になるということだ。
セオドアの縁者になるという選択は、強大な力に護られる代わりに、世界の爪弾きものになるということと同義であった。
エルシィは疑問符を撒き散らかしながら、目を瞬かせる。
「……この人、そんなに悪い人なんですか?」
「ええ、ハープシコードと名乗り、生きているだけで」
一切の躊躇いもないシテラの回答に、背後でセオドアが苦笑した。
酷く暴力的な結論に面くらい、おずおずとセオドアを肩越しに振り返る。しかし彼はエルシィの視線には応えず、オリーブ色の髪に己の指を通しながら、幻想生物に続きを促した。
そんなセオドアの縁者となる手段として、無国籍自治区は都合がいいのだという。
無国籍自治区で行われるあらゆる手続きは、もちろん法的に有効で、各国からも認められたものだ。しかし、同意や誓約を省略するゆえに、放棄の手続きすら簡単に行えるのだと、シテラは頷く。
「御母堂さまがこのような男と夫婦になる、という事は業腹ですが、手続き場所はおおいに賛同いたします」
「放棄って……?」
「言葉通りです。この男と婚姻していた全ての事象、この男に関わった事柄を、御母堂さまがいつでも放棄可能なのです。面倒な手順を踏む必要もありません。そして放棄しても、御母堂さまの経歴には一切傷はつきません」
無国籍自治区最大の利点は、そこだ。
いつでもエルシィとセオドアの婚姻全てが、なかった事にできるのである。
説明口調のシテラに、エルシィは半ば呆然として、返事をし損ねた。
無国籍自治区の状況は理解した。だが、そこをセオドアが選ぶ意味が分からない。
これではまるで最初から、いつでも夫婦関係を解消して良いということではないか。
仲の良い両親と共に、のんびり平穏な暮らしの中にいたエルシィには、まるで理解できない選択肢だった。
「……せ、おどあ、さまは、……ええと、わたしと、いつでも離縁していいって、思ってるってことですか?」
「うん? んー……いや、俺の心情としては、君と本当に結婚したいが。……だが、まぁ、……自分の立場くらいは分かっているつもりって話だな」
「立場……」
「俺は自由だが、傲慢じゃねぇよって話。……ちょっと自慢話になるが、俺は昔懐かしき地位はドン底だが、一応、人生困らないくらいの財産も力も持っている」
セオドアは軽い口調に努めながら、シテラを一瞥する。
視線を受けた侍女は、小さく嘆息して頷いた。
「…………それは認めましょう。その男一人であれば、一国の部隊が束になっても勝てませんから」
「えっ、力って物理って事ですか? し、シテラさん、それは流石に盛りすぎでは?」
「いいえ。この男は単独で我々幻想生物を殺す手段を持っているのです。……だから私は、この男が嫌いなのですが」
「うわぁ……やっぱ知られてると思った。まぁなんだ、そこは自衛手段ってだけだぜ? ……で、だ。そんな出来のいい男にも、線引きという概念がある」
さらっと凄まじい内容が飛び交った気がした。こんな会話の中間部で済ませて良い内容ではない気配がする。
ルヴィナも気がついたようで、真っ青な顔をして、シテラを守るように彼女の腕に触れた。
セオドアは二人の反応に苦く笑って、エルシィの髪に再度指を通す。
「俺の存在が誰の幸福にもならない事は、自分が一番よく分かってる」
語調は普段通り軽いのに、エルシィは咄嗟に返事ができず、口を噤んだ。
彼はそんな彼女の反応に眉尻を下げて、髪から指を離す。
「だから君が、いつでも逃げ出せる手段を残しておくのは、当然のことだ。……だってこれは、仕方がない婚姻だろ? 君の存在が世界中に周知されるのは時間の問題で、リリンベル国みたいな連中がどこから君を狙うか分からん。美人で強気可愛い奥さまの、剣となり盾となり、こき使われるのは必要な事だ」
「……わたしの、ため……って、言いたいの?」
モヤモヤと、言い表せない感情が胸を渦巻いて、エルシィは自分でも無意識にセオドアを睨み上げた。
これがセオドアの誠意だというのなら、確かにそうなのだろう。
だが彼の手をとる選択をしたのは、紛れもなくエルシィ自身なのだ。少なくとも現状、大司教トミーの助言通り、セオドアの縁者になることが身を守る最善なのだと、納得したからここにいるのである。
仕方がなかったと理由をつけられ、セオドアだけが非を背負うやり方は、エルシィの誠意ではない。
少なくとも彼が、誰よりもエルシィに優しいのは事実なのだから。
憤りを言葉に乗せようと口を開いた、その時。
セオドアがエルシィを膝に抱え上げるのと、シテラの身体が裂けて本性を現わすのは、ほぼ同時であった。
「っきゃああ!?」
地面から揺れが突き上げ、車内にいる人間が浮き上がる。
地表から姿を現した硬い木の根に車が大破し、雪を凌いでいた屋根が吹き飛んでいく。
盛んに吠える狼たちの声が、いっそ悲鳴にも聞こえるほど周囲一帯に響き渡った。
部隊の男たちが外に放り出され、突然の事態に戸惑いを見せるも、すぐに統率が取れた動きで背負っていた小銃を構え始める。
御者席から降り立った部隊長が、鋭い叫び声で指示を出した。
巨大な花弁を開き、転がる眼球で周囲を確かめるシテラに守られ、エルシィは緑の葉で出来た籠から状況を確認する。
狭い下り坂だ。下の方に明かりが見え、到着まであと少しだったのだろう。
しかし視界の大半は、豪雪地帯には似つかわしくない、うねる木の根が多い隠し、進行を妨げていた。
その巨大な木、だと認識していたものは、群青色の液体を頭上から垂れ流している。
恐る恐る顔を向けると、まるで人の脳を模したようなグロテスクな塊が、エルシィたちを見下ろしていた。
「……もしかして、これって、……」
吉兆と捉えればいいのか、凶兆と捉えればいいのか、エルシィは同じく顔を引き攣らせるセオドアに縋り付く。
頭上で柔らかな笑い声がした。
幹の中間から姿を見せたのは、まだ幼い、おそらくルヴィナよりも年下の少年──に、見える。
少年はフードのついた防寒具を見に纏い、小さな顔を歪で美しい仮面で覆い、心底愉快そうに声をあげて笑った。
「無国籍じじくにいくの? ママも行くなら、僕もいく」




