第100話
アリス、と名乗った彼女に、最も迅速な行動を取ったのは、轟音に驚いて様子を見にきたセオドアの祖父、トーマスであった。
老紳士は飛ぶように彼女の前に来ると、敬う口上を述べて深く頭を下げる。
「我が妃、サキソフォンの賢王陛下に謁見のご許可を賜りましたこと、恐悦至極にございます」
「……ありがとうございます。ワタシは本当の意味では、偽物ですが」
「何をおっしゃいますか。我がハープシコードの末裔が、御身を間違えるはずございません」
緊張した面持ちでトーマスが、彼女の手を取った。
その様子から本当に彼女が、自身の先祖である実感が湧いて、エルシィは一歩踏み出す。
「ど、どうして……? いえ、どうやって、ええと、生き返ったってことですか?」
「いいえ、生まれ直したと表現する方が近いでしょう。なのでワタシは、御魂に刻まれた記憶を引き継いでいますが、厳密には偽物なのです」
再び薄らと笑う彼女に、エルシィは隣で立ち上がったセオドアを見た。
彼は突如現れた真の女神へ、惚けた顔を向けるも、すぐに怪訝な顔で眉を寄せ、片手で胸元をさすりながら首を傾ける。
そして視線に気がつけばエルシィを見つめ、ホッと表情を緩ませた。
セオドアの反応に、アリスは心底好ましげに笑みを深める。
「御尊父、そのお心に正直にあられませ。ワタシに懸想する情も沸かないでしょう」
「え……あー、いや、綺麗だとは思うが……、俺の奥さまの方が、やっぱいいなぁって」
「当然です。御母堂はあなたにとって、もはや命より尊いお方なのですから」
その言い方は確かにルーシェを思い起こし、エルシィは戸惑って彼女に視線を戻す。
彼女は一つ頷いて、疑問に応えることを約束してくれた。
トーマスに急かされたセオドアと、他の聖女たちと共に、応接室へ足を踏み入れる。
茶菓子の用意をしてくると言い添えて、部屋を退出していったトーマスを横目に、アリスは三人がけのソファーへ優美に座っていた。
目頭が熱く、心が騒いで叫び出しそうな衝動を耐え、エルシィは彼女を見下ろす。
セオドアに呼びかけられた事で我に返り、向かい側に座ると、聖女達が養父母を取り囲んで着席した。
「……まずは、弁明をさせてください。けして何か、騙すようなことをしていた訳ではないのです。ワタシがワタシであることを思い出したのは、御尊父の研究書に書かれた、魔術式を見てからです」
「俺の研究書?」
「はい。御尊父が魔術式だと言う、最後のページに書かれたあの一文です。御尊父はあの古代文字が読めずとも、意味だけは分かっていると言いましたね」
「ああ……、……相手の記憶を呼び起こす魔術式だろ」
エルシィと聖女が、セオドアの言葉に目を瞬かせる。
脳の記憶を司る中枢に働きかけ、忘却されている記憶を鮮明にする。それがあの、不可解な文字の正体だという。
ただセオドアほどの魔術師であっても、あまりに言語的な違いがありすぎて、自分のものとして書き起こす事ができない。なのであの魔術式は、ただ記録されたものであったはずなのだ。
アリスはゆっくりと頷き、視線をテーブルまで下げた。
「あれはワタシが知る上で、最もワタシの隣へ近かった魔術師が書いたものです」
「……え……、あの魔術式は、一つ前の世界のセオドア様が書いたものでは、ないんですか?」
脳内の混乱を抑えつけつつ、エルシィが控えめに声をかける。セオドアも驚いた様子で、片手を顎に添えて眉を寄せた。
アリスは二人に視線を戻し、しかし僅かに逡巡して沈黙するも、緩やかに首を左右に振る。
彼女は絹に似た素材で出来たドレスを握りしめ、再び顔を上げた。
「いいえ。あの文字は古代文字。失われた文字です。セオドア・ハープシコードがどれほど魔術に精通していようとも、文章の成り立ちが今と違いますので、あのように流暢に書くことは出来ません」
「じゃ、じゃあ、前の世界でも、アリスさんのような人が居て、書き残していったってこと?」
「そうです。彼は恐らく、次の自分に託して行こうと思ったのでしょう」
彼、と口にする彼女の表情に、微かな憂いと愛おしさが滲む。
それは家族との思い出を話すには甘く、恋人を思い描くにはあまりに切ない、胸が締め付けられるような表情だった。
視界から取り込むことで脳に働きかけ、記憶中枢を揺さぶる、現在の技術では誰も到達し得ない領域の魔術式。
それは極めて魔法的な手法で発動する、最初の魔術師が独自に編み出した魔術式であった。
加えて書き込む魔術式の量を減らす記号や、発動までの時間短縮の際に必要な構成まであり、そんな芸当が出来るのは、アリスが知る限り一人しかいなかった。
エルシィは無意識にセオドアの片手に触れ、セオドアもまた、エルシィの片手を握り返す。
何かが頭の中で、ゆっくりと開いていく感覚がした。
暗く暖かな土の中で守られた芽が、大地を突き破り空に向かい、太陽の熱を知りたいと花開いて、葉を伸ばすように。
アリスはエルシィと同じオッドアイを細め、片手を己の心臓の上に持ち上げる。
彼女はその腕を、エルシィに向けて差し出した。
無意識に惹かれて片手を伸ばし、指先を重ねれば、アリスは愛しそうに、切なそうに、それでも溢れる寂しさを瞳に浮かべて、微笑んだ。
「……かの魔術師の名前は、シアド・ハープシコード。ワタシが世界で最も愛し、最も遠い場所にいた、世界最古の魔術師です。彼は一縷の望みを、次の自分に託して、あの魔術式に残して行ったのでしょう」
例え自分に、魔術式を書く腕がなくとも、魔法を紡ぐ声がなくとも。
たった一つの希望を信じて、一人きりの世界で出会った、自分だけの聖女と心を繋いで、万年筆をとったのだ。
貴女に会いたかったと、アリスは微笑む。
「二人で貴女に逢える今を、待ちわびていた。エルシィ、可愛い愛娘。ワタシとシアドの、愛おしい未来」
どうして忘れていたのだろう。
どうして忘れてくれと、彼は願ったのだろう。
呼吸を震わせるエルシィの瞳から、涙が溢れて頬を伝う。
開いた花は、記憶を押さえつけた蓋を開けて、木の根を取り払い、霧が晴れる。
そうだ、エルシィは会ったのだ。
彼は。
ウィジャネクロイは、
蓋をした話を解禁し、次話から幕間の過去編に入ります。
キャラクターとしては別人の恋愛話となりますので、ご留意くださいますと幸いです。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




