第99話
古城の一角に根を下ろし、巨大なヒルギ科植物は眠っている。
寄り添うチェンノッタが一心不乱に、地面に展開した魔法陣の中へ魔術式を書き込んでいた。
額から汗が流れ落ちてもペン先は止まらず、その集中力が切れぬように、エルシィはそっと背後から見つめる。
ウィズィの背後にまわっていたセオドアが出てくるのと、少年が終点を打ち終えたのは、ほぼ同時であった。
疲れ目を擦り大きく欠伸をしたチェンノッタを、セオドアが片腕に抱き上げて背中を撫でる。
「よしよし、上出来だ。これで安静にしていれば、大丈夫だろ」
「………………」
「泣くなよチェンノッタ、大丈夫、ウィズィは無事だ。ちゃんと回復する」
声もなく泣き始める義子をあやし、セオドアは体を左右に揺らしながらウィズィを見上げた。足早に隣へきたエルシィも視線を追いかけると、頭頂部から液体が染み出し、木の幹を濡らしていくのが見える。
そうして脳を模したそこへ亀裂が走り、ゆっくりと開いて宵闇を覗かせた。
彼が根を張る足元では、やはりルーシェが包まれていて、彼女は大きな単眼を薄い目蓋に隠す。
全員が傍に近寄れば、ルーシェは再び目蓋を開けてトゥルバを見つめた。
「…………お前が何者か、話してくれるな、ルジー」
膝を折って視線を近づけるトゥルバから、ルーシェの目線はエルシィとセオドアに移る。
そこから一人一人を見つめた後、シテラが抱える植木鉢に目を向けた。
そこには、ホールボーム帝国の飛び地から連れてきた幻想生物が、細く心許ない木に似た形状で、植えられていた。
「…………、……その前に、御尊父。その者に救いを与えてください」
「救い?」
「御尊父だけが今、唯一、それが出来るのですから」
エルシィは目を瞬かせてセオドアを見る。
彼は眉を寄せたままルーシェを見おろし、チェンノッタをエルシィに預け渡した。
「救いでもなんでもねぇと、俺は思うが」
「いいえ、今は死こそ救いなのです。……聖女に呼ばれなければ、幻想生物にとって、この世界は害以外の何物でもありませんから」
セオドアは腰に下げたホルダーや、古城に用意してあった万年筆の中から選び、一本を携えて細い木に近寄る。
シテラが手近な椅子の上に植木鉢を置くと、外気に冷やされた風が枝を揺らし、幻想生物の白い幹に文字が浮かんだ。
──救われたかったのです。
「……それが消滅でも?」
──惨たらしく我らが聖女の害になるのなら、我々の誇りは失われます。……ああ、それでも父よ、母よ、愛されたかった。それだけはどうか、その崇高なるお心にお留め置きください。
稀代の魔術師は自身の指先に、ペン先を押し付けて皮膚を傷つける。
血液を付着させたままインク壺に浸し、躊躇いつつ幹の中央に書き記した。
刹那、雷に似た放電が空気を振動させ、彼が魔術式を書き進める度に大きく爆ぜる。
水滴を振り乱し植木鉢を割った弱い根が、土をかき分けてセオドアの片手に縋りついた。
セオドアは無表情に近しい双眸で、その根をもう片方の手で強く掴み、千切るように引き寄せる。
そして魔術式が全ての工程を終えた直後、周囲一体に甲高い、慟哭に似た叫び声が木霊した。
『ああ、主よ、類稀なる美しき主よ。晴れやかなる御身の誕生を祈ります。愛しい父と母、我らが未来!!』
地面に魔法陣に似た何かが浮かび、これまでの彼が書き記した象形文字を思わせる文章が、瞬く間に記されていく。
全員の足元まで伸びたそれは、やはり意思疎通を目的としない歪な言語で、しかし強烈な死を予兆させる切迫感があった。
鼓膜を震わせる轟音と共に、幻想生物は大きく体躯を引き攣らせると、根本から崩れて消えていく。
セオドアの片手を包んでいた弱い根も、ゆっくりと土塊に変化してしまえば、彼はホルダーから一枚の布を取り出し、万年筆のインクを拭き取った。
後方で見つめていたシテラが、真っ青な顔色で、隣に立つフェイに縋り付く。フェイも息を詰めて唇を震わせ、セオドアから視線を逸らした。
唖然としているヨヒラを抱き上げているオルジオも、ふらりと揺れ、腰を抜かして尻餅をつく。
「おじじ!? どうしたの!」
「おお、……おお、やはり、知っておるのか、御尊父様。我々の死を……!」
尋常ではない幻想生物の怯えように、エルシィは以前、シテラに告げられた言葉を思い出した。
セオドアはこの世で唯一、単独で幻想生物を殺す術を知っているのだと。
エルシィはチェンノッタを下ろしながら夫に近寄り、根が絡んでいた片手を、両手で包み込んだ。
彼は前髪を後ろにすき流して長い息を吐き出し、静観しているルーシェに視線を戻す。
彼女はまっすぐにセオドアを見つめ、緩やかに黙礼した。
「感謝いたします」
「……君は、反応が違うんだな」
「申し上げました通り、現状、無理やり召喚された幻想生物にとって、死が最も救いなのです。それに御尊父は極めて理性的でしょう。我々に害がないのに、何を恐れると言うのでしょうか」
感情の機微が乏しい静かな声音から、ルーシェの思考を読み解くことは難しい。
だがそれでも、エルシィは問いかけざるを得なかった。
「…………あなたは、誰?」
根本的に違うと思った。
少なくともラバタール連邦で彼女に出会った時、トゥルバの母と対峙した後。エルシィの足元へ発砲した彼女は、気丈に振る舞う中で、震えていたのを覚えている。
あの時は確かに、ルーシェはセオドアを恐れていた。
エルシィが視線を逸らさず見つめる中、彼女は緩やかに瞬いた。
そして眠るウィズィを一瞥し、木の根の中から抜け出しながら、徐々に姿を変えていく。
輪郭はうっすらと光を湛え、見る角度によって色合いが変化する長髪は、足元まで伸びている。
人ならざる均整のとれた顔は、相手に恐怖心を植え付けるほど美しく、白い肌に映える金と青のオッドアイがエルシィを射抜いた。
彼女の前では誰もが膝をつく。そう思わせるほど人外的な威厳が、彼女にはある。
聖女達が呆然と目を見開き、次々に膝をおって首を垂れた。
それは半ば無意識に感情を急かして、セオドアですら片膝をつき、彼女の足元を凝視する。
一人立ち尽くすエルシィは、薄らと笑う彼女に、言いようのない悲しさが込み上げた。
それはまるで、世界の全てが霞むほど美しく、多くに祝福されて生まれてきたのに、──その全てに捨てられ、失ってしまったように。
「この御魂は、亡国シグリードの初代女王、アリス。……アリス・サキソフォンと申します」




