迫害されていた家から連れ出してくれたのは、それまで見て見ぬふりをしていたメイドでした
私はダンヒル子爵家の娘、マルグレット。
今、逃亡中。
しかも、私の手を引いているのは、今まで碌に話したこともない使用人の女性です。
夜の森は暗くて冷たくて……だけど不思議と怖くありません。生きてきた中で一番早く長く走っているはずなのに景色はあまり変わらなくて、聞こえるのは私の息と心臓の音だけで。まるで夢の中のようです。
どうしてこうなったのか……。
私の脳裏に今日の出来事が浮かびます。
ダンヒル子爵家の出来損ないだった私は、夕食前に呼ばれて、とある男爵様に嫁入りすることが決まったと伝えられました。
男爵様はとてもお金持ちで、私のためにたくさんのお金を子爵家に払ってくれたらしいのです。
両親は今までに見た事がないぐらい上機嫌で、男爵様について教えてくれました。
お年を召した男爵様は、若い女性が大好きで、今までにも沢山の若い女性をお召になったそう。
けれども不思議なことに、すぐに亡くなってしまわれるのだとか。でもまたすぐに、こうして新たなお嫁候補が現れるのですって。
これを聞いて私は首をひねりました。
あ。男爵よりも子爵の方が爵位としては上ですけれど、貧乏子爵よりもずっとお金持ちですので、立場はあちらが上なのだそうですよ。
それでも子爵だからと、とんでもない額を払って貰ったというのに、私は大した支度もなしに嫁ぐことになりそうです。
もともと出来損ないの私ですから、ダンヒル子爵家の娘と言っても、使用人同然にすごしていましたし、よく失敗をしてはご飯を抜かれていたので痩せっぽちです。
もう16になりますのに、二つ年下の義理の妹の方が、ずっと背も高くて、こう、グラマラスなのですよ。羨ましい……。
ええとええと、そうじゃなくて。
そのあと、部屋に帰ってきて、夕食のパンとスープを食べていたら、何故か涙が出てきて、どうしてだろうと拭っていたら、ガチャリ、とドアが開いて。
見ると、この、今私の手を引いている彼女が立っていて、こう言ったんです。
「この家から出ますよ」と。
首を傾げているうちに、ずかずかと部屋に入ってきた彼女は、私の着替えだとかを持っていたバッグに詰め込んで、私の腕を掴みました。
何が起こったのかわからなくて、声をかけようとしたら、しずかに、と言われて。
「声を出すなら置いていきます。あなただって、エロジジィに人生終わらされたくないでしょう?」
と睨まれて。
固まっている間に手を引かれて廊下を早足で通り過ぎ、裏口を出て、裏手の路地を通り過ぎて森の中へまっすぐ飛び込みました。
私の頭の中は疑問符だらけ。
彼女は、私がご飯を食べられず俯いている時に、こっそり食べ物を分けてくれた人達ではなく。
かといって、義母と義妹のそばでくすくす笑ったり嫌な目で睨んだり泥やゴミをかけてきた人達でもなく。
そういうのを、まるで関係などないといったように見ないで通り過ぎる人達のうちの一人で。
だから、今までの今までなら、通り過ぎて何も無かったはずなのに。
今、一緒に森の中を走っているのです。
よく聞くと「失敗した」だとか「なんでこんなことに」だとかブツブツ言っていて、なんだか自分の意思ではないみたい。
これは、迷惑をかけるだけだと思った私は彼女から手を離しました。
「あの、ごめんなさい。私はいいから、あなたは逃げて」
すると、彼女はとても怖い顔をしました。
「バカを言わないで。アタシはアンタのためにこんなことをしたんじゃない」
「えっ」
「アタシはアタシの罪悪感を薄めるためにやってんの。アタシだけ逃げたんじゃ後味が悪いから。だから連れて逃げるの」
……彼女は何を言っているのでしょう。言葉遣いもすっかり変わってしまって。
分からないまま呆然としてると、ホラ、と言ってまた腕を取られました。
「もし見つかったら、アタシは貴方を置いて逃げる。そしたらアンタはアタシに誘拐されかけたのだとでも言えばいい」
そう、これは誘拐よ、と彼女は引っ張るので、私は彼女が逃げるための人質代わりなのだと理解して追いかけ始めました。
人質にするには、ダンヒル子爵家の出来損ないは、あまり価値がないように思いますが……。ああ、でも男爵様に出すお嫁さんがいなくなったら困りますか。そう思えば今一番の人質かもしれませんね。
私は夢現で彼女と共に走ります。
ずっとずっと森が続いているような、そんな心地がしてきました。
このまま逃げても、追手に追いつかれても、この景色を忘れることは無いでしょう……。
§
なーんてことを考えているんでしょーね、この超ド級の箱入り娘ちゃんは。
アタシはぽやぽやと追ってくる栗色の髪の痩せっぽちの娘に、内心ため息をついた。
本当、どうしてこうなったのか。
アタシは、ダンヒル子爵家が寄子になっているサパテル侯爵家に敵対する派閥の密偵だ。
本当はこのダンヒル子爵家からさらに派遣されてサパテル侯爵家に忍び込む予定だったのに。
このダンヒル子爵家が想定以上にヤバくて、留まることになってしまった。
正統な後継者のはずのこの子が虐げられて使用人同然にこき使われているし、入婿じゃ認められていない愛人が後妻のフリして子爵家に入り浸ってるし。子爵家夫人を気どって湯水のように金を使っているし。しかも国に納めるべき税金を誤魔化した上でそうなんだから、もう完全に黒。
挙句の果てに、後継者を嫁に出して家を乗っ取ろうだなんて。
あんまりにもあんまりな状況に、アタシはこの家に居続けること自体に身の危険を感じた。
本来の主人に連絡を取り、今日、抜け出す手はずに……なった所で聞いちゃった、この子の嫁入り先。
アレじゃん。若い女をいたぶるのが大好きで有名なエロサドジジィじゃん。
バカじゃないの?! と思った次の瞬間、アタシは今までにない行動をとってた。
つまり、この子を連れ出して逃げた。
バカじゃないの?! って今度は自分に思ったね。
一人で身軽に逃げるから逃げ切れるのに。
16だと言うのにまだまだ10代前半の子供にしか見えないこの子の体力じゃ、絶対に見つかって追いつかれるのに。
なんでこんな余計なことをしたんだろうと、後悔していると、突然手を振り切られた。
曰く、一人で逃げろと。
ハァ?! アンタここで逃げなきゃ、ロリコンエロジジィにめちゃくちゃにされて殺されるんだよ? バカじゃないの? バカじゃないの?!
だからアタシは、お前のためじゃないんだよ! とか言ってまた強引に引っ張る羽目になった。
あーあ。もうホントに何やってんだろう、アタシ。
この子は本当なら貴族の何不自由ない家で、何不自由なく育てられるはずだった娘。
虐められてもいたぶられてもひもじくても、ほわほわと笑っていた姿ばかり思い出す。
そして二言目には、相手の心配ばっかりするの。
ホント馬鹿。アンタの方がよっぽど酷い目にあってるじゃないの。
呆れ果ててモノも言えない。
だからアタシは、ダンヒル子爵家の入婿がぶっとい指でこの子を指しながら嘲笑い、酷い未来をわざわざ用意したのを見て、キレたんだ。
ああ、そうだよ。キレたんだよ。
こんな柔い優しい子供に何してくれてるんだとキレたんだ。
だからコレは義憤じゃない。アタシの私怨だ。
アタシがアタシの意思で、敢行すると決めた私怨だ。
こんなことするのは初めてだ。もっと小さい子を見殺しにしたこともあるアタシが。
グッと細い枝が絡まったような手の感触を握りこんで、森を進む。
この森を突っ切るのがアタシの逃亡ルート。
抜けた先に、主がいる。
はー……。叱られるだろうなぁ。余計なことしたって。
罰されるだろうな。首はねられなきゃ良いけど。
アタシは首はねられても、この子は助けてもらえるようにしなきゃなぁ。
そうこうしているうちに見えてきた。
松明の明かり。アタシの同僚が持つ明かりだ。
と。
握りこんだ手がビクりと撥ねて、ブレーキをかけた。
え? 何、追手? あー、大丈夫大丈夫。心配しないで。
娘はアタシの後を、恐る恐るとついてくる。
「やほー。おつかれー」
「おう。おつかれ、ご苦労さん。お前にしちゃー遅かったな」
「ちょっとね」
やはりそれは同僚たちで、しかも二人ともかなりの顔見知りだった。これは助かる。
「ん? そいつは?」
アタシに声をかけてきたのとは違う方が、あたしの後ろの娘ちゃんに気がついた。
「ん。ダンヒル子爵家の長女ちゃん」
「は?!」
「おま……どういうことだよ」
アタシは事情を説明する。
ダンヒル子爵家の血を引く唯一の正統後継者でありながら、虐げられ使用人扱いされていたこと。この度無理やり婚姻をさせられそうになった為に連れ出してきたこと。
「それは……」
「堂々たるお家乗っ取り事件だね?」
「そゆことー」
うむ。やっぱりコイツが来てくれて助かった。打てば響くこの返し。頭いいやつは楽だなー。
「そのまま残すと明日には、この子身一つで送り出されそうだったからさー、脱出ついでに連れ出してきちゃったわけ」
「はー……そういう事かぁ」
娘ちゃんの前に一歩出る、頭いい方の同僚。
合わせるように一歩下がった娘ちゃんは、目線を泳がせたあと少し顔を赤らめて俯く。
ああ、こいつ頭もいいけど顔もいいもんね。
引っかかるんじゃないよ、娘ちゃん。コイツ腹黒だから。
「事情はわかった」
「あの」
「ん?」
もじもじする娘ちゃんに、目線を合わせるように二人は屈む。
「彼女は……メイドさんは、私を誘拐してきました」
「……」
絶句。
胡乱な目で見てくる二人。
違ッ、いや、傍目から見ると違わなくもないのか? いや、けど、それは追手に捕まった時に言えと言った言い訳で!
「お前、誘拐犯だったのか」
「違ッ! ……それは!」
バカの方が言う言葉に首を振る。
それに対し、頭いい方は娘ちゃんに向き合い、こんなことを言い出した。
「うん、僕らは誘拐犯とその仲間、ってことだね?」
認めるんかい!!
「はい……いえ、あの、違うんですよね?」
娘ちゃんの言葉にホッとする。なんだ、分かってるんじゃないの。
だけどその後の会話にゾッとする。
「本当は私、連れてきちゃいけなかったんでしょう?」
「まぁ、予定だと」
「叱らないでください。彼女はいい人なので」
いい人?
え、誰が? 私が?!
「彼女が、いい人?」
「そうです。お屋敷でご飯をくれたり、仕事をさりげなく減らしてくれたりしたのは他の人たちだけど、あそこから連れ出してくれたのは彼女だけだから」
再びの絶句。
ダメだ。この子絶対すぐ騙される。だよね、アタマお花畑ちゃんだもんね。だよね。
連れ出すんじゃなかった……!!
クックック、という笑いが聞こえて、頭いい方の同僚はなるほどと何度も頷いていた。
ヤバい。これは、ヤバいことが起こる……!
「よくわかった。君は、この第一王子親衛隊副隊長、アルヴァー・ロルフ・セーデンが預かろう」
目をまん丸にした娘ちゃん。
血の気が引く私。
その私の肩をポンと叩くバカ。
あー!
連れ出すんじゃなかったーー!!
§
それから。私マルグレットの日常は、目まぐるしく過ぎていきました。
第一王子の親衛隊の副隊長を名乗ったカッコいいお兄さんは、私をお城に連れて行って色んなことを教えてくれました。
私が本当は唯一のダンヒル子爵家の跡取りだということ。
ダンヒル子爵家は第一王子と王太子位を争う、第二王子の派閥で、彼女はスパイだったこと。
助ける代わりにダンヒル子爵家として第一王子の味方をして欲しいという提案。
頷いた私に、子爵家当主として必要な知識や振る舞い、信用出来る部下や使用人も与えてくれました。
更には素敵な旦那様まで……。
まさか、カッコいいお兄さん自身をそれとして与えてくれるなんて思ってもみませんでしたが、私はとても幸せです。
やがて、第一王子が王太子になり、第二王子は味方していた色んな人達と共に、悪事を暴かれて牢獄送りになりました。
その中には私の父や継母の姿も。義理の妹は修道院に預けられたそうです。
私は女当主として、領民と王太子の親衛隊の副隊長となった旦那様を、一生支えると誓ったのでした。
ちなみに、あれからかのメイドさん……スパイの彼女とは会っていないのですが……。
私を救い出した時に一緒にいた、もう一人の男性と恋人同士になったのだと聞いています。
旦那様はさっさと結婚すればいいのに、とボヤいてましたので、私はそうですね、と笑ったのでした。
End.
お読みいただきありがとうございました♡