000 プロローグ
痛みは、ないみたいだ。
手も動くし、足に違和感もない。
首を回しても特に問題は無さそうだし、むしろ、長年悩まされてきた肩凝りが無くなり、逆に調子がいいようだ。
さて、
目の前には池が見え、水辺には小鳥が集まっている。
周囲には木が茂っている。
緑の葉に交じって、黄色い葉がちちらほらと見える。
上を見上げると、頭上と右の方に二つの太陽が。。。
で、何度か手を握ったり開いたりを繰り返してみたり、掌と手の甲を返す返す見返してみたが、両手は見覚えのある自分の手である。
服は麻でできているかのような、ちょっとごわごわした手触りの長袖と、素材は同じだが厚手の長ズボン。
皮と布でできたような靴を履いている。
こんな服装に見覚えは無かった。
「あー、あー、あいうえお」
声を出してみるが、この感覚にも違和感はなかった。
さてさて、
ここはどこ?私は誰?というやつか。
まさか30歳を超えて、というか、まさか自分が使うことになるとは。
思わず苦笑する。
とはいえ、私は誰?と聞かれたら、オレは「柴 健太郎」だ、と思う。
再来月に36歳を迎える。
あだ名はシバケン。
32の時に某弱小メーカーの営業職に再就職し、弱小メーカー故にいまだに部下無し。後輩無し。
ブラックというほどの仕事量もなく、低空飛行の業績の中、細々と仕事を続けてきた。
離婚歴アリ。子供は無し。
実家には、兄夫婦が母親の面倒見つつ暮らしている。
うん。記憶におかしなところはなさそうだ。
学生の頃の思い出も、卒業してからの記憶、別れたかみさんとの記憶、職場の記憶。
多少あやふやな事も含めて、自然だ。
不自然なのは、今置かれた現状だけか。
最後の記憶は、土曜日の夕方に缶酎ハイを飲み始め、日本酒4合瓶を空けたところでまだ7時ぐらいなのに、うとうとしてそのまま寝落ち。
途中一回トイレに起きて、キッチンで水を飲んで、そのまま寝室へむかう。
そこまでは、よくある休日の過ごし方。
そしたら、山の中で見たことの無い服を着た姿で目が覚めた。
太陽は二つあるし。
春先だったはずなのに、木は紅葉してるし。
さっきから、遠くの方で獣の声が聞こえるし。。。
そうだ、
おもむろに池に向かって歩き、自分の姿を水面に移す。
風もない水面に映った自分の顔は、間違いなく記憶している自分のものだった。
ん?気持ち若くなったように見えるのは、服装のせいか。
って、あまり動じてないんだよな。
事故に巻き込まれたわけでも、余命いくばくもなかったわけでも、ゲームの途中でそれらしい選択をしたわけでもないないから、現実感が無いだけなんだろうけど。
それなりの不条理と、わずかばかりのやり甲斐で日々を過ごしていたから、あんまり未練もなかったからかもしれないが。
とりあえず、今は自分が冷静でいられることに、感謝か。
さて、そうと決まれば、
自分の服とズボンに手を当て、ポケットのようなものが無いことを確認すると、さっき自分が目覚めたところにまで戻り、周りを調べた。
「ちょっと、まずいな。。。」
持ち物らしきものは何もなかった。
柴健太郎としての所持品はもちろん、この世界での持ち物も無かった。
周りに誰もいないことを確認して、
「ステータス、オープン」
「アイテムボックス」
とこわごわ声に出しても、何も反応はなかった。
「いやいや、こりゃ本格的にまずいぞ」
今まで焦りが無かったのは、頭のどこかでラノベのような展開を期待したからか。
言いようのない心細さと、不安が身に迫ってきた。
飲み水は池の水を飲めばいいとして、食料と寝床の確保。
このあたりに住む生物たちの脅威。
人のいる集落が近くにあるのか。
言葉が通じるか。
通じたとしても、胡散臭い自分を受け入れてもらえるのか?
原住民に木に縛り付けられて火あぶりになる姿を想像する。
「落ち着け、落ち着け」
深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
先ほど見つけていた、長さ1メートルほどの木の棒を2本ぎゅっと握りしめる。
釣りもしたことないし、ましてやサバイバルの知識なんかないのに、どうしたらいいんだ。
仮に小動物や魚を掴まえたとして、生食はさすがに抵抗はある。
植物の方がまだましか。
果実ならなお良し。
とはいえ、毒が無いとも限らないし。
試しに近くに生えている草の葉を一枚ちぎって、先端をちょっと噛んでみる。
。。。苦い。
普通の草だ。
毒は無さそうだけど、また食べたいとも思わない。
こうやって、ひとつずつ試してみるか。
水は池の水を飲めばいいし。。。
慌てて、池の前まで行って池を覗き込んだ。
先ほど顔を映した際にきれいな水だったので、飲めると思いこんでいたが、はたして飲めるのだろうか?
この水が飲めないとなると、飲み水の確保という最重要課題が待ち構えることになる。
恐る恐る水を手ですくい、口に入れる。
口をゆすいで、地面に吐きだす。
。。。問題ない、と思う。
再び水を手ですくい口に入れる。
次はいよいよ飲み込んでみる。
多少土のにおいがするが、普通の水のような気がする。
恐る恐るもう一口口に運ぼうとするとき
「さっきから、何をしている」
「へっ」
急に声を掛けられ驚いた拍子に、水が鼻に入った。
むせ返りながら振り返ると、そこには胡乱げな表情の老人と、笑顔の10歳ぐらいの少年が立っていた。