【書籍化報告&お礼SS】その後のバルトルとロレッタとレックス
「……ああ、やはり。あなたは、美しいな」
ニコリと、琥珀色の澄んだ橙の目を細めて彼は言った。
冷たい印象の整った顔を綻ばせ、掠れ声で囁くように。
長くしなやかな白魚のような美しい手は私の手にそっと重ねられていた。
「……おい、レックス。なんで君は僕の奥さんを口説いているんだ?」
そこに飛んできたのはいかにも不機嫌そうな声。いつも穏やかな微笑を浮かべているのに珍しく眉を顰めて口元を引き攣らせているバルトルだった。バルトルのそんな顔を苦笑を浮かべて見ながら、わたしは重ねられたレックス様の手をそっと解いた。
バルトルに対して、レックス様は不思議そうに切長の眼を少しだけ大きく開く。
「口説いてなどいないが?」
「無自覚だろうがなんだろうが、適切な距離感ってものがあるだろう。手を握るな、手を」
バルトルはわたしとレックス様の間にスッと入ってわたしを背に隠してしまった。
レックス様は怪訝な面持ちのままで小首を傾げていて、バルトルははあと頭を抱える。
「え、ええと、すみません」
とても美しい流れるような所作でされたものだから、ついぼうっと手を握られてしまったことを謝ると、バルトルはゆっくりと大きな動作で首を横に振った。
「ロレッタ。君は謝らなくてもいいんだよ、君が僕以外の男になびきっこないってことは僕が一番よくわかってるから」
「わかっていてなぜそう焦るんだ?」
「お前、本当に人らしい情緒ってもんがないよな! 好きな女の子の手を他の男に握られたら嫌だろ!」
「握手だ。社交辞令だろう」
「『氷の貴公子』とか呼ばれているくせにこれだから……」
二人の言い合う姿を見て、ふと思う。
(……バルトル、実はレックス様と仲がいいんじゃ……)
あんまり仲は良くないのだと、確か以前言っていたと思うが。同年代で、同じ仕事に就いているもの同士、通じるものがいろいろあるのではないだろうか。
――バルトルにサラッとすごいことを言われた気もしたけれど、「え」と言う間もなく目の前で言い合いが始まってしまい、なんとも言えない面はゆさを一人でやり過ごす。
レックス・クラフト。ほんのひと時だけ、わたしの妹ルネッタの婚約者であった彼。
彼から我が家への訪問の申し出があったのは一週間前のことだった。
わたしが糸を紡ぐのを、もう一度見たいのだ、と。
「……美しい」
彼に請われたとおり、目の前で糸を紡いで見せ。
そして、レックス様は琥珀の瞳を輝かせて恍惚とそう呟かれるに至ったのだけれど……。
そう、レックス様はけしてわたしに対して「美しい」と仰ったわけではない。「美しい」という言葉の対象はわたしの紡いだ糸のこと。……けれど、近い距離で妻にそんなことを囁かれてバルトルがいい気をしないのは世間知らずなわたしでもさすがに察せる。
結果として、自分がぼーっとしているせいでレックス様はバルトルに叱られるに至ってしまった状況にレックス様にもバルトルにもどちらにも「申し訳ない」というような気持ちが湧いてくる。
「ほら、もう帰った帰った。僕の奥さんの糸紡ぎを見たかっただけだろ。用事済んだならもういいだろ」
しっし、とまるで野良犬を追い払うようにバルトルはすげなく手を振った。
レックス様はおおらかな方なんだろう。それを気にする様子はなく、あっさり頷かれる。
「ああ、ありがとう。先触れを出したとはいえ、急に失礼した」
「いえ、その、わたしの糸のこと、褒めてくださってありがとうございました。嬉しかったです」
それから、とわたしはバルトルの背からスッと前に出て彼と向き合い、本当は今日一番彼に言いたかった言葉を続けた。
「それに……その、ルネッタに金銭的な支援をしてくださったと伺いました。……ありがとうございます」
「……あれは婚約破棄の慰謝料だ。あなたに、お礼を言われることじゃない」
「……ありがとうございます」
あの一件以来、わたしはルネッタとは、いや、実家の人間に直接連絡は取っていなかった。でもどうしても妹のことだけは気にかかり、バルトルに当面の生活のためのお金の援助だけでもしたいと願ったところ、レックス様が彼女に慰謝料という名目でお金を送る支度を整えていることを聞いた。
わたしやバルトルの名前で渡されるよりも、レックス様の慰謝料に潜ませて渡したほうがあの子も気をやまないだろうと、気持ちばかりではあるが、レックス様にお願いして一緒に渡してもらったのだ。
……少しでもこれで、生活再建の目処を立てられるようになればよいのだが。
「――ガーディア夫人」
「は、はい」
物思いに耽っていたところ、名前を呼ばれ慌ててシャンと背筋を伸ばす。琥珀色の瞳を見上げる。
「クラフト家も、ほとんどの人間が電気の魔力を持つ。水色の髪をして生まれてきた俺は期待はずれだった。家系図を辿れば水の魔力を持った人間がいるのはわかっていたから、不貞こそ疑われなかったが」
彼は静かに語り始めた。平坦な声には感情は宿っていないのに、なぜだかあまり表情を映さない彼の顔がわずかに曇って見えた。
「まあ、そもそも俺は次男だ。兄は眩い金の髪を持っている。それならば家を継ぐ人間には困らない。俺は生まれ落ちた時点で、家にとってはどうでもいい子どもだった」
「……」
「だから、好きなように生きるのにはちょうどよかったが。クラフト家は代々魔道具士の資格を取るのが伝統になっているが……形骸化してきている。ゆえに、むしろ、熱心に魔道具士の腕を磨こうとするのは歓迎されていない。俺が貴族の社交や業務を怠って魔道具士を本当に生業にしようとしているのを放置されているのは、まあ都合はいい。……」
レックス様の片眉がひきつる。悩ましげな様子でレックス様は薄い唇をわずかに尖らせた。
「……」
「あの、レックス様……」
「……良い話になってしまった」
「え?」
急に押し黙るレックス様。お声をかけて、やっと口を開いた、かと思えばなぜだか整った眉が露骨に下がった。見るからにしょんぼりとした顔をレックス様が浮かべられたことに少し驚く。
「困った顔で僕を見るなよ、お前が何を話したかったのかなんて僕がわかるか」
「…………そうか」
チラリとバルトルを横目で見たレックス様はバルトルにはすげなく返され、眉を顰めてしまわれた。なんだか、頼りない表情の彼ともう一度目線が合い、わたしまでつられて緊張する。
「……俺のは良い話になってしまったが、言いたかったのはそうではなくて」
「は、はい」
「……だが、黒髪で生まれてきたあなたの気持ちは……少し、わかるかもしれない。……と、言いたかった」
「レックス様……」
レックス様が伝えたかったお気持ちは、十分よくわかった。探り探り、絞り出したという雰囲気のお言葉はまっすぐなもので、レックス様ご本人はきっと、もっとわたしに寄り添った言葉を添えて伝えられたかったのだろう、というお気持ちもわかる。複雑そうなお顔で不安げに瞳を眇める彼に小さく笑って見せた。
「……あなたのことを、もっと早く知ろうとしていればよかったと悔やまれる」
「そんな。レックス様は……あの日もわたしに謝ってくださいました。そのお気持ちだけでもわたしは……」
彼はとても真面目な人なんだろう。そして、その心根には優しさのある人なのだろうと。ルネッタに婚約破棄の慰謝料の名目で金銭を送ろうとされたことからもそれはしっかと感じられた。
レックス様はふと、表情を和らげられた。
琥珀色の瞳がわたしを見つめたまま柔らかな弧を描く。
「きっと俺はあなたのことを正しく知っていたら、あなたに婚姻を申し込んでいたんだろうな」
その口元はたしかに微笑んでいるように見えた。
「レックス、人の奥さんを口説くなって僕さっき言わなかったか?」
バルトルの声は先ほどと同様に不機嫌なものだった。対して、レックス様はやはりきょとんと怪訝そうにされていた。
「……? 何を言っているんだ、おまえは」
「くそっ、無自覚! お前もう、うちには来るなよ!」
「………………そうか」
来るな、と言われレックス様は先ほどと同じように露骨に落ち込まれたご様子だった。
「あっ、あの、バルトル。レックス様は、その、本当にそういう気はないんだと……」
「ロレッタ、天然ってやつは天然だから怖いんだよ! 他人からも何がなんだかわからないけど、本人にも何がなんだかわかってないんだから!」
「……ええ……?」
そうだろうか。バルトルの主張は、そうなのかしら、どうかしら、となんとも言えず首を曖昧に傾げてしまう。……レックス様が『氷の貴公子』というよりも『天然』でいらっしゃるのは……その通りだと思う。
「……おまえが何をそう憤っているかはわからんが」
レックス様はいつも通りのあまり感情を出さない涼しげな表情で口を開いた。
「ガーディア夫人。あなたが美しいひとということはわかる」
「よし、もう帰れ。僕が玄関まで送ってやるよ」
バルトルがレックス様の背をグイと押した。
「ロレッタ! 君は来ないで大丈夫、居間で待ってて! すぐ戻るから!」
「え、あ、は、はい」
大きく張った声でそう言いながら、バルトルはレックスを連れて、文字通りあっという間に目の前から去っていってしまった。
◆
すぐ戻るから、という言葉通り、バルトルはわたしが本邸の居間に入るのとほぼ同時に居間にやってきた。
レックス様をお見送り、というよりも半ば追い出してきたんだろうというわたしの推測は、多分正しいと思う。
「はあ、疲れた」
私の座る椅子から少し離れたソファにもたれかかり、バルトルはいつになく深いため息をつく。
「……レックス様って、面白い方なんですね」
「その感想になる?」
「はい。いい方だと思います」
「否定はしないけど、やっかいな奴だよ、あいつ」
「否定はしないんですね」
思わずクスリと笑うと、バルトルは片目を眇めてしまった。きっとバルトルも本心では憎いとは思ってはいないのだろう。
「……少し、バルトルに似てる方でしたね」
「…………そう思うかぁ……」
バルトルが再びため息と共に天を仰いでしまった。
よくないことを言ってしまっただろうか。真面目で、優しくて、好きなことに夢中になれて、そして何より、具体的に言葉にするのは難しいけれど、なんだか雰囲気がほんの少しだけ似ていると、そう思ったのだ。慌ててソファの隣に腰掛けてその表情を覗き込もうとすると、拗ねているような、バツが悪いような、なんとも言えないちょっと幼げな目をした彼と目が合った。
「……白状すると、僕も、自分でそう思う」
「バルトル」
「だからさ、だからだよ。君とあいつが並んでると、ちょっと色々考える」
「……そうなんですか?」
バルトルはのけ反った体勢を戻し、少し身を屈めてわたしを見つめた。きれいな青い瞳はやはり少し、拗ねているように見える。
「……もしかしたら、君に気づいたのは僕じゃなくて、あいつだったかもしれないとか」
「まあ」
「そんな、もしもと考えること自体がナンセンスでムカついてくる。そのもしもにならなかったから今なのにさ」
そう言うバルトルは本人が言う通り、悔しそうだった。魔道具造りは思考と試行の連続だ。だから、つい色んな仮定を想像してしまう癖がバルトルにはついてしまっているのかもしれない。
(……たしかに、今日みたいなバルトルは珍しいわ)
バルトル本人は至って悔しそうなのに、申し訳ない限りだけど――その様子がなんだかかわいらしいなあと思ってしまう。
背を丸めているおかげでいつもより近い位置にある金色の髪に手を伸ばす。バルトルはわたしの髪をよく褒めてくれてるけど、バルトルの髪も素敵な髪だと思う。触ると意外と柔らかくて気持ちがいい。
「……ロレッタ」
小さな掠れ声と共に、バルトルは上目遣いでわたしに目線を送る。ほとんど無意識に頭を撫でていた。
「すみません、なんだか、かわいらしくて」
「……君、やっぱ『お姉ちゃん』だよな」
「えっ?」
「や、いやじゃないからいいけどさ」
「きゃっ」
ぎゅうと首元に顔を埋めるように抱きつかれる。スリ、と頭をすり寄せられると、柔らかな髪が肌を撫で、少しくすぐったい。
少し迷いながらさきほどまでと同じように頭を撫でると、抱き締める腕の力が強まったから、おそらく正解のようだった。
「君は?」
「え?」
「僕のこういう情けないところ、いやじゃない?」
「かわいいですよ」
「……『お姉ちゃん』だな。いいよ、今日はそれに甘えるから」
少し複雑そうな顔をされたのがなぜかはよくわからないけれど、きっと、悪いことではないだろう。
昼下がり、カーテンの隙間から差し込む日の光がちょうどバルトルの金の髪を照らし、キラキラと輝かせていた。髪の柔らかな感触も、日の光の暖かさも、とても心地よいものだった。
※バルトルはめちゃくちゃ心配してますがレックス(クソど天然男)が間男的感情を抱いたりそういう展開になることはありません
◆ご報告◆
当作品ですが、このたび書籍化・コミカライズの運びとなりました。
みなさんのあたたかな応援のおかげです。ありがとうございます!
詳細につきましては追ってお知らせいたしますので続報をお待ちいただけましたらとても嬉しいです。
より多くの方に楽しんでいただけるように頑張りますのでどうぞよろしくお願いします!






◆アース・スタールナさま特設ページ
