9.
彼女を迎え入れる支度をしていると、婚姻までの数ヶ月は長いようであっという間だった。
「――バルトル・ガーディアと申します」
「……初めまして。ロレッタ・アーバンです。婚姻のお申し出、ありがとうございます」
彼女はバルトルを視界に捉えた瞬間、一瞬わずかに顔をこわばらせ、しかし挨拶を交わすときにはニコ、と淑女らしい微笑みを浮かべてきれいな礼をしてくれた。
久しぶりに会った彼女は――いや、こうして対面するのは初めての彼女はあの時見た髪を覆い隠すための帽子は被っていなかった。
きれいな黒髪。帽子の下の髪はよほど短かったようで、きっとバルトルとこうして会うまでに伸ばしていたのだろうが、それでもまだ短かった。毛先がようやく襟足に届くか届かないか、それくらいの短さだ。
上品そうな小さな顔に、大きな瞳の彼女は髪が短くともなおかわいらしく、儚げに見えた。
彼女はまっすぐ前を向いてはいても、あまりバルトルの顔を見ずに少し目線を落としていた。人と関わる機会も少なかったろうし、少しずつ慣れてくれたら嬉しいな、とバルトルは思う。
「君は病弱だと聞いている」
ふと、そう話しかけたら、彼女は大きな目をパチリと見開いておずおずと返事をした。胸元に落ちていた視線が自分の目のほうに向いて、バルトルは少し嬉しい、と思ってしまう。
病弱だという話は真実ではないとしても、離れにこもりきりだったことは事実だ。改めて、家を離れることになることは大丈夫かと聞くと、彼女は頷いた。
彼女の控えめだけど澄んだ声を遮るように、横にいる父親が「ご心配なく」と笑った。
「ああ、なに、子作りの心配もいりませんから。まあ体力がないところはあるかもしれませんが」
バルトルはその言葉には極力反応を示さないように努めた。
(ここは、すごい居心地の悪い家だなあ)
父親はこれから嫁に行く娘に興味はなくバルトルが持ってきた支度金のトランクばかりを気にしているし、母親はバルトルを値踏みする気配を隠そうともせずじっとりと見てくるし。
早く、この家から出たいし、この子を連れ出したいとそう思った。
◆
彼女が持ってきた荷物はほんの少しの、ささやかなものだけだった。
「荷物はこれだけ?」
そう聞くと、彼女は少し寂しげに頷く。
今日はよく晴れていて、彼女の黒髪を美しく照らしていた。艶のある髪が日差しを受け、天使の輪のように白く輝いていた。その姿がますます彼女を儚げに見せていて、バルトルはなんだか胸がちくりと痛んだ。
(本当は、もっと持っていきたいものもあったんじゃないか)
なんとなくそんな気がして、バルトルは遠くに見える離れを見つめた。だが、彼女が荷物はこれだけにしようと決めたのだから、余計なことは言わないと決め、代わりに彼女に微笑んで見せた。
馬車に乗り込んでからも相変わらず彼女はバルトルの胸元、スカーフばかりを一生懸命見つめていた。
「……白い肌に、黒い髪が美しいね」
「えっ……」
ずっと黙っているのも彼女を緊張させるだろうか、と思って、バルトルは思ったことを素直に口に出した。
「さっき、日向にいる君を見てそう思った。君の黒い髪に光が当たって、天使の輪のようだった」
「……あ、ありがとうございます」
思ったそのままを伝えると彼女の白い頬が赤らむ。俯かせてしまうかな、とそう思ったのだが、彼女はむしろ顔を上げ、少し驚いた雰囲気でバルトルの顔をまっすぐ見てくれた。
(あ、こっち見た)
別にそういうつもりはなかったのだけれど、バルトルは内心ラッキーだと思う。
大きなきれいな瞳が自分を見つめてくれていると、嬉しい。バルトルは自然と顔を綻ばせていた。
◆
彼女をようやく我が家に連れて帰り、そして、夜を迎えた。
今日提出した婚姻誓約書はすでに受理されたと電報が届いている。つまりはバルトルと彼女は正式な夫婦であり、これは夫婦の初夜にあたる。
彼女は先に湯を浴びて、寝支度を整えていると聞いている。バルトルはまだ少し濡れている髪を手で軽くすいてから、夫婦の寝室の扉を開けた。
扉の音で振り向いた彼女はベッドのすぐそばで困った様子で立ち尽くしていた。薄手の白いワンピースの裾を健気にぎゅ、と握りしめていた。
バルトルがベッドに腰掛けると、彼女はわかりやすくビクリと身体を硬くしていた。
「その、バルトル様」
震えた声が自分の名を呼んだ。
(……かわいいな)
薄手で柔らかな寝間着は露出は少なくとも華奢で儚げな印象とは裏腹な豊かな曲線を浮き出させていて、つい目がいった。見るからに緊張した様子にも一瞬自分の中の嗜虐心めいたものがグラリときたが、それはすぐさま蓋を閉めて、バルトルは彼女に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ、僕たちの初夜はまだ先にしよう」
「え?」
バルトルの言葉にきょとんとして、見つめる彼女は少し幼げな表情をしていた。
(やっぱりこの子、目が大きいな)
クッキリとした二重の瞳は少し猫っぽい形をしている。つり目といえばつり目だが、表情や雰囲気が柔らかいせいか、キツい印象は全くない。グレーの瞳はよくよく見ていると虹彩が文字通り虹色に輝いているように見えて、とてもきれいだ。
髪が短いから余計に目が大きく見えるのだろうか。
「書類上の夫婦にはなっても、ホラ、式を挙げていないだろう? それからでいいと思うんだよね」
「え」
「うん?」
彼女、ロレッタは困惑している様子だった。
――けして想いあって結ばれたわけではなかったが、バルトルは彼女と幸せな夫婦になりたいと考えていた。アーバン家にいた時よりも、彼女と一緒に、彼女と幸せな家族になりたいと。
元々、バルトルには『家族』というものに憧れがあった。
だから、想い合う前に身体を繋げて、それで子どもができてしまうのは望ましくないとバルトルは考えていたし、国の法律には『白い結婚』という制度もあった。
初夜を迎えていない夫婦であれば、そもそも婚姻の事実がなかったと認められる制度だ。
もしも彼女がバルトルを好きになれなかったのなら、その時には綺麗な身体のまま離縁させてあげたい。彼女をあの家から連れ出すという目的はもう果たせているのだから、離縁した後も彼女が自由に思うがままに過ごせるように彼女の自立だけ支援させてもらって。
そうとまでは言わなかったが、バルトルは彼女に夫婦としての関係を焦らないことを告げる。彼女は困惑はしつつもあからさまにほっとしているようだった。
(僕のことを好きになってくれたら、嬉しいけど)
バルトルはふと、彼女の頬に手を伸ばした。びくりと小さな肩が震える。冷え性のバルトルの手は火照り気味の頬をした彼女と冷たかったかもしれない。きれいな灰色の大きな瞳と目が合うとバルトルはやはり嬉しい気持ちになった。彼女が自分を見てくれていると、嬉しい。
彼女の黒く、艶やかな髪にそっと触れる。
「……髪も、伸ばしているんだろう?」
「あ……」
「きっときれいだよ。君のこの黒髪が風にたなびいて、光の下で煌めいて……純白のドレスを着た姿」
この言葉は本心だった。
きっと、いや、絶対にきれいだ。
そして、その姿を見てみたいと、バルトルはそう思う。
バルトルは彼女にそれぞれの私室があることを伝えた。
「今日は疲れたね。よくおやすみ。夫婦の寝室はここだけれど、その日が来るまで互いの部屋で夜は過ごそう。あっちの青いプレートのかかった部屋が僕の部屋だ。ひとり寝が寂しいのなら慰めるくらいの甲斐性は持っているつもりだがね」
そう言って、バルトルはウインクをして見せる。
「……」
無意識にしてしまった仕草だが、深窓の令嬢である彼女には見慣れないものだったかもしれない。彼女は大きな目を瞬いて、だがしかし、それからなぜか、ギュッとその目を強く瞑ったようだった。
どうしたんだろう。思わずポカンとしていると、彼女は少し慌てた様子で口を開いた。
「あ、あの、変でしたか?」
「えっ」
もしかして。
――ウインク仕返してくれた、のか。
今度はバルトルの方が惚けてしまっていると彼女は白い頬を真っ赤に染め上げて、「おやすみなさい」と慌てて自室に逃げ込んでしまった。
「……」
バルトルもぼうっとしたまま自室に入る。そして何も考えずにフラフラと歩いていたら床に落ちていた紙切れを踏んで、足を滑らせた。
「うわっ」
咄嗟に近くのコートハンガーを掴んでしまい、ハンガーと一緒に床に転がり、派手な物音を響かせた。
「いててて……」
普段ならこんなに抜けてはいないのに。バルトルは鈍い痛みと共に、あまりにも間抜けな転びっぷりに少なからず落ち込んだ。
ウインク、した。失敗してたけど。
(……かわいかったな)
ぎゅっと目を瞑り、ちょっとくちゃくちゃな顔をした彼女。
儚げなかわいらしさが印象的だったけれど、そういうかわいらしさもあるのか、とバルトルはつい噛み締めてしまった。
(いや、そんなことしてくると思うか? 思わないだろ)
茶目っ気というか、自分の仕草を真似てきた彼女には自分に歩み寄ろうとする気概を感じた。なんていうのは、自分に都合のいいように考えすぎかもしれないが。
「……僕は、とんでもなくかわいい子と結婚してしまったのでは……?」
バルトルは柄にもなく口元を抑え、一人そう呟くのだった。
以上で番外編完結です。
バルトル視点の前日譚にあたるお話でした。
本編に入れるには蛇足かな!と思っていた話をゴリっと書けたので楽しかったです。
こちらも最後までお読みいただきありがとうございました!
本編完結時にはたくさんのブクマや評価、いいねをありがとうございました…!!!とてもとても励みになりました…。
新しく読んでくださった方がいらっしゃいましたら、よろしければ広告下の☆☆☆☆☆の評価やブクマをいただけますと読んでくださった方がいるんだ!と嬉しくなります!






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