7.「これ、魔法がかかっているんだ」……はい?
ウィルフレードが差し出す手にリラジェンマが自分の手を乗せたのは無意識の行動だった。
あいかわらずウィルフレードは同時多発的に重要問題をサラリと溢すので、リラジェンマとしてはどれから反応すべきか迷う。迷っている間にどんどん場所が移動してしまう。
彼に手を引かれたリラジェンマが立ち上がると、ウィルフレードは彼女が腰を下ろしていた辺りに敷かれていたハンカチを拾いあげ尻ポケットに押し込んだ。そして彼女の手を握ったままズンズンとどこかへ連れていこうとしている。
(待って待って。だいぶ重要なことを言われたわよっ⁈)
先ほどウィルフレードはなんと言った? あまりのことに呆然としてしまったが、訊かずにはいられなかった。
「え? 待ってちょうだい。ゆれいが憂いていた? わたくしを保護してくれと佑霊が言っていたの? ウィルにはそれが聞こえるの?」
佑霊とはリラジェンマが知っているところの始祖霊と同じと言っていなかっただろうか。
始祖霊はリラジェンマたちウーナ王家の人間を守護する精霊だ。つまり佑霊はヌエベ王家を守護する存在だということだ。その佑霊、つまり精霊の声が聞こえるということなのか。
そんな人間がこの世にいたなんて!
ウィルフレードは彼女の瞳を覗き込み、内緒話をするように声を潜めた。
「うん。僕は佑霊の声が聞こえるんだ」
「本当に?」
「秘密だよ」
どこかいたずら小僧のような表情でウィルフレードが言う。
これはもしや、リラジェンマが特殊能力を持っているように、ウィルフレードもまた特別な能力があるということだろう。それもヌエベ王家限定の特殊能力が!
「それって、王家に伝わる秘匿ではないの? わたくしが知っても構わないの?」
リラジェンマは母から『例え伴侶であろうと言ってはならない』と聞いていたのだが。
「うん。リラは僕のお嫁さんだから構わないよ」
ウィルフレードが明るい笑顔とともに、あっさりと言う。まるで天気の話題でもしているように。
(いいの? 本当にそれでいいの? 随分、軽くない? ヌエベ王家だって数百年の伝統があるでしょう? それをこんなに軽く済ませていいの?)
やはりウィルフレードは違う。次代の王位を継ぐ者として育ったのは同じだが、リラジェンマとは心構えが違う気がする。
いやそれとも違うのは両王家の対応だろうか。
ウナグロッサ王国では特殊能力を秘匿として、伴侶にも明かさなかった。だが、グランデヌエベは違うのかもしれない。伴侶にも、王家の血を引かない人間にも情報開示しているのかもしれない。
「それに、リラが自分の秘密を明かしてくれたんだから僕も言わないと不公平じゃないか」
え゛?
「わたくし、の、秘密?」
「うん。他者の悪意が視えるって。さっき話してくれただろ? お母上から一子相伝だと言われていたって」
言っただろうか。自分でぺろりと言ったのか。
実父と異母妹に対する長年蓄積された不満とともに語ってしまったのだろうか。
(……言った、かもしれないわ)
血の気が引くという言葉の意味を、身をもって体感した。うっかりとはいえ自分はとんでもないことをしてしまった!
「だけど僕を信用して話してくれたんでしょ? なら僕も僕の秘密を打ち明けようと」
いままでよりウィルフレードの笑みの親しみ度が上がった気がする。……気のせいかもしれないけれど。
(お母さま。ごめんなさい、お母さまっ。リラジェンマはうっかりし過ぎてとんでもないことをしてしまいましたっ)
衝撃と罪悪感と、胸中で亡き母への懺悔を捧げるというリラジェンマの19年の人生で一番の混乱に襲われぐるぐると思い悩んでいる間に、手を引かれ芝生広場から屋内に場所を移動していた。
「あぁ、この話はさすがに結界外で口にしたらダメだよ? だれに聞かれるか分からないからね」
「……けっかいがい?」
未だ混乱が続くが耳はウィルフレードの声を拾い、どこに結界があったのだろうと意識の隅でぼんやりと思う。そのまま言葉を繰り返し声に出した。
「あれ? 芝生の周りを囲んでいた石柱。あれが結界を作っていた……のは君も知っているだろう?」
「けっかいって結界? え? あの石柱が結界を張っていたの?」
「あれ。初耳?」
「初耳です……」
芝生広場も石柱も、そういう物だと思っていたから疑問を抱いたことなどなかった。流石に見慣れない形状の鉄柱には気がついたが、珍しいとか綺麗としか思わなかった。
ウィルフレードは疑問に思ったから調べたと言っていた。その過程で石柱が結界を形成していると知ったのだろう。
(子どもだったウィルは常に青々とした芝生に疑問を持ったと言っていたわ……そうよね、手入れする人間がいないのに同じ状態って言われてみれば不思議だわ。……わたくしは注意力が足りないのではないかしら)
だから実の父親に体よく追い出されたのだろうか。
同じような物を見て、同じように育てられたはずなのに。
リラジェンマは人を慮れないし些細な疑問点を見過ごすしうっかり秘密を漏らしてしまうような迂闊な人間だし。
だから。
「リーラ。なに落ち込んでいるの?」
ウィルフレードの甘い声が耳を擽る。
「……いいえ。落ち込んでなどいないわ」
彼は人の心の機微に敏感だ。
少し後ろ向きになったリラジェンマの心にすぐ気がつき声をかけてくれる。
王女として生まれ育ち、次代を継ぐ王太女として教育を受けた彼女は、その心の内を表面に出さないよう訓練を受けていたにも関わらず。
(ウィルは観察眼とかすべてがわたくしより上なのだわ……自分の未熟さを認めるのって悔しいのね)
「ふぅん? ま、君がそう言うのならいいけど。さ、この部屋だよ」
ウィルフレードに促され入室したのは、だれかの書斎といった趣の部屋だった。
豪華さよりも機能性を重視した内装。広すぎず狭すぎず、置いてある家具は落ち着いた色合いの一目で一流と判る品物ばかり。壁紙やカーテンの色合いから男性の部屋のようだとリラジェンマは感じた。
(もしかしたらウィルの執務室かしら)
「あったあった。これだ」
ウィルフレードはそう言いながら、リラジェンマの見ている前で、本棚を動かし壁紙の柄で巧妙に隠されていた隠し扉を開け、中から厚い書籍を持ち出してきた。
ウィルフレードが抱えなければ運べないような大きな書籍は、厚み、重量ともにかなりありそうで、革で装丁された表紙がすこし剥げ風合いも落ち歴史を感じさせる。
ウナグロッサの王宮にもこんな風に歴史を感じる書籍が何点か存在した。保管庫に保存されていたそれは、帝国時代の古代文字で書かれていて読めない代物が多かったのだが。
(なんだかこれも、もの凄く価値のありそうな重要書籍なのでは? わざわざ隠すように保管していたし。……帝国時代の歴史書か何かかしら)
「それは何? 歴史書?」
「国王宣誓書だよ」
「――は?」
それはまた、重要書類である。『書類』というより既に一冊の本の装丁になっている。
もしかしたら、グランデヌエベ王国歴代国王の宣誓書があるのかもしれない。全部で二十枚くらいはあるだろうか。
「戴冠式の時、精霊と民の前で“余は第十六代の王を拝命した”って宣誓して、あ、そう宣誓したのは僕の父上だけどね。それでこれに署名していた。父上に続いて母上も。今見ると、一枚の厚みがあるから全体的に厚い本みたいだよね」
「あぁ。はい」
リラジェンマもうっすらと覚えている。まだ幼い頃、母が女王戴冠式をした。それは国王だった祖父が亡くなりその喪が明けたあとのこと。王宮前の広場でそんなことがあった。始祖霊たちが精霊とともに顕現してとてもうつくしかった。
……ような気がする。いかんせん、リラジェンマはそのころ5歳かそこらだったから記憶が曖昧だ。
とはいえ。
その国王宣誓書をなぜ見させられているのだろうか。
「国王が宣誓すると同時に王太子も宣誓されて名前を書くでしょ。あぁ、ほらほら、ここ。僕が名前を書いたところ」
ページをめくっていたウィルフレードが指し示すところを見れば、確かに彼の名前が記されている。子どもがサインしたとは思えないほど丁寧でうつくしい筆跡であった。
彼の名前の上には、現国王とその王妃のサインも並んでいる。
サインは現代語で書かれているから読めるが、そのほかのところは古代文字で書かれていて読めない。恐らく、国王宣誓書という書式があり、該当者が記名する仕組みであろう。
(……わたくしもサインしたのかしら)
自分のときはどうだったのかよく覚えていない。
うつくしく着飾り王冠を頭に頂いた母の姿はよく覚えている。その隣で正装した父の姿も。国民が広場に集まり歓声をあげて祝福してくれた。精霊たちが舞い、花がまかれた。
(ん? 精霊たちが舞っていた? 変な記憶ね。わたくし、精霊なんて見たことないはず……よね?)
あいにくと記憶は断片的で、自分が王太女としてサインをしたのかよく覚えていない。当時の記憶も曖昧である。
そもそもウナグロッサ王国で同じ書式が活用されているとも限らない。
「これ、魔法がかかっているんだ。知っていたかい?」
「魔法?」
ウィルフレードは、とっておきの秘密を教える子どものような無邪気な瞳でリラジェンマの顔を覗き込む。
「うん。帝国時代の失われた魔法のひとつだから、どういう理屈なのか未だ解明されていないけれどね。戴冠式で国王と同時に王太子も次期王としてサインすると、次のページが生まれる不思議な書物なんだ。実際、僕もサインしたあとページが増えるところをこの目で見たしね」
そう言われ現国王の宣誓書の次のページを捲ってみれば。
同じような書面があり、古代語で何か書かれていて国王と王太子がサインすべき個所は空欄になっている。
ひとつ前のページを捲ってみれば、現国王の名前が同じ筆跡で王太子の欄に記されている。
王朝が続く限り、ページが無限に増える魔法の書らしい。
「しかもね、一度記名されるとあとから違う人物が名前を書いてもダメなんだ」
「……どういうこと?」
「小さい頃にね、こっそり弟とこれを見つけてイタズラしたことがあったんだ。王太子の欄にね、弟に自分の名前を書かせてみた」
「は?」
「あの頃の弟は、まだ僕の言うことを素直に信じる可愛い奴でねぇ。僕の名前と並べて書いてみてって言ったら素直に書いてくれたんだ。そうしたらどうだ! 書いたそばから消えていったんだよ? 驚くべきことだと思わないかい?」
(また随分とツッコミどころの多い話題だわ)
「ウィルが幾つのときのお話? 公文書にイタズラ書きするなんてとんでもないことだわ。それに魔法? これに魔法がかかっているの?」
「うん。ほら、リラも名前を書いてみて! 僕の名前の下に書いてごらん」
そう言って羽ペンを手渡され、インクも用意される。
ニコニコと機嫌のよさそうなウィルフレードと、国王宣誓書の書面を何度も見比べる。
(言われたとおり一度名前を書いて、魔法がちゃんと作動するのか確かめるべきなのかしら)
「これ、魔法がちゃんと効かなかったらどうなるの?」
「そりゃあもちろん、君がこの国の次代を担う人になるね」
「は?」