33.「会えなかった事実に感謝するよ」……そうね
リラジェンマは自分の右手でウィルフレードの左手を握ったまま、ずんずん進む。
今日は迎賓館の庭園を最初から目指したため、歩きやすい編み上げのブーツを履いている。靴擦れなどにならず長時間歩くことができる。
「リラ。どこに向かっているのか聞いてもいい?」
少し後ろからウィルフレードの笑い混じりの声がする。
「内緒の話をしたいから第一神殿がいいわ」
このときリラジェンマは、あくまでも真面目に話をしたいからウィルフレードに提案したのだが。
「内緒話で第一神殿? いいね! あの夜を思い出すよ! あぁ、リラが可愛らしく僕に縋り付いて泣いてくれたあの素晴らしい夜のことを‼」
ウィルフレードがうっとりとした声を出すから余計な記憶が呼び覚まされた。
第一神殿から母国ウナグロッサへ向けて祭祀を行った晩。リラジェンマは母だった精霊と出会い、彼女の真意に触れ号泣した。
ウィルフレードの胸に縋って。
いつの間にか向きを変え、ウィルフレードの胸に縋り付いていると気がついたとき、リラジェンマは混乱状態の極みに至った。
神殿の芝生に座り、ウィルフレードの膝の上!
しかも自分から縋り付いて抱き着いて!
ウィルフレードの体温をしっかりと感じる距離、というか密着して!
彼も自分をしっかりと抱きしめているではないか‼
星空の下、なんという破廉恥な‼ 自分は決して恥知らずな人間ではないというのに‼‼
思い出すだけで頭を抱え込んで蹲りたくなる記憶。
それを後からあれやこれやと(しかもウィルフレード本人に!)言及されるのは業腹なのだ。
「ウィル! それは思い出したらいけない記憶だわ‼」
「えー? どうしてー?」
「どうしてもよ!」
頬を真っ赤に染めプリプリと怒りながらずんずん進むリラジェンマ。
くすくすと笑いながらその後に続くウィルフレード。
ふたり、しっかりと手を繋ぎながら。
王太子夫妻のこの様子、外宮の中庭で繰り広げられていたので、誰の目にも止まっている。声は届かずとも真っ赤な顔の王太子妃と、上機嫌にこにこ笑顔の王太子の様子はそれなりの憶測とともに皆の(リラジェンマに付き従いすぐ後ろに控えていた侍女やウィルフレードの専属護衛ヘルマン・ゴンサーレス、通りすがりの官吏や王城勤めの使用人まで)記憶に残る。
ちなみに、見守る彼らの目はとても温かい。
「ところでリラ。本当に第一神殿に行きたいのならそっちの方角じゃないよ?」
くすくすと笑いながらウィルフレードが言う。
こればかりは仕方がない。リラジェンマにとって『大神殿』は城の外にあったのだ。“神殿”に向かおうとすれば城外に出ようとしてしまうのだ。
だがグランデヌエベの『第一神殿』は内宮の一番奥まった一般人の入り込まない場所にある。
リラジェンマは反対方向に歩いてしまっていた。
「勘違いは誰にもあることだわ」
自分は決して方向音痴なわけではない。そう言いたいリラジェンマである。
「そうだね。……あぁ、助かる。じゃあ、すぐ向かうよ」
ウィルフレードはリラジェンマにではない、他の誰かに向かって“あぁ、助かる”と言った。そしてすぐにリラジェンマの腰を抱き抱えて――
一陣の風が彼らの周りをぐるりと取り囲んだ。
「――はい、到着」
リラジェンマが自分の周りに突如吹き上がった風に驚き瞬きをした瞬間、場所が変わっていた。
彼女は第一神殿の芝生の上に立っていた。
周囲はぐるりと立ち並ぶ石柱。
正面には黒々と聳え立つ八角の鉄柱。
「――はぁ?」
「また長い時間歩いて靴擦れにでもなったら、僕が耐えられないからね」
すぐ側に立つウィルフレードは得意満面に説明する。
「……もしかして、これが『瞬間移動』?」
「そうだよ。随分短い距離だけどね。おじいさまが『第一神殿ならすぐ運べるぞ』って言ってくれたから、お願いしちゃった」
「――はあ?」
(お願いしちゃった、ですって?)
「移動場所が第一神殿だったし、僕らの力は手つかずにしてくれたみたいだ。精霊たちの力しか使ってないって」
確かに、眩暈も気力が奪われるという事態にもなっていない。
ウィルフレードがどんな風に『精霊の加護をふんだんに』受けていたのかも分かった。
しかし。
「おじいさまって、十五代国王陛下のウィルのおじいさま? 佑霊になられたおじいさま? いくら能力が使えるからって、そんなホイホイ使ったら駄目じゃない!」
「え」
突然怒りだしたリラジェンマにウィルフレードは面食らう。
「ウィル! そんなに精霊の力を簡単に使ったら駄目だわ! わたくしたちが目の前から突然消えたから、きっと護衛のゴンサーレスたちは心配しているわ! 今頃みんな大騒ぎしているわよ! どうする気⁈」
腰に手を当て下から睨みつけるリラジェンマに、ウィルフレードは一歩後ずさる。はっきり言って迫力負けしている。
「あー。だっておじいさまが」
ウィルフレードが一歩退いた分、リラジェンマが前に詰める。
「おじいさまのせいにしちゃダメ! 孫可愛がりしたいだけなんだから、貴方がきっぱり断らなければダメでしょ! ちゃんとした大人なのよ!」
リラジェンマの迫力に押され、一歩また一歩と後ずさる。
「あー。うん、そうだね」
まさか、こんなに怒られるとは思っていなかったウィルフレードは戸惑うばかりだ。
「おじいさまもっ! そこらにいらっしゃるのでしょう⁈ 孫が可愛いからって甘やかすとろくな人間になりませんわよ⁉ 自重なさいませっ!」
リラジェンマの追求の矛先はウィルフレードだけではなく、佑霊にまで及んだ。宙に向かいはっきりと言ってのける彼女は、びっくりするほど逞しい。
「ウィル! 佑霊や精霊たちはなんと言ってますの⁈ 本当のことを教えて下さいな。わたくしに嘘は通じませんよ?」
両手を腰に当てたまま、にっこりと微笑むリラジェンマ。
そんな彼女に思わず見惚れてしまったウィルフレードの耳に佑霊が囁いた。
「……え? ちょ、待ってください⁉」
「ウィル? 佑霊は、おじいさまはなんとおっしゃっているの?」
リラジェンマの翠の瞳がキラキラとうつくしく輝き、それは有無を言わせない謎の圧力を秘めていた。
「あー。……リラの言うことはもっともだから……自重するって」
ウィルフレードの渋々といった答えに、リラジェンマはとてもよい笑顔を見せた。
「ご理解いただき嬉しく思いますわ。精霊の力は非常事態で使うものだとわたくしは思います。なんてことのない日常生活の中で使うモノではありません」
ただでさえ、自身に特殊能力があるのだ。これ以上精霊の力など使うのはよろしくない。
「あー。……リラは無意識に必要以上の力を使わないようにって言いたいんだね。……君の愚妹にかけたあの宣言のように」
やはりウィルフレードは聡い。
リラジェンマが気に病んでいることなどお見通しらしい。
あの時。
異母妹ベリンダとした面会で、リラジェンマは自分の名にかけてウーナの名を剥奪すると宣言した。
同時に何かしらの力が発動したのを――目には視えなかったが――確認している。
「ウナグロッサの王宮にはウーナ王家の人間を守るための守護の陣が敷かれているの。それがあの子を阻んだのだわ」
「ウーナを剥奪されたから、侵入できなくなったのか……王城で働く者はそういう立場の人間だと認識されているから出入りできるということかい?」
「そうね。少なくともわたくしは、王城内で働いている人間はすべて把握していたもの。母もそうだったわ」
とはいえ、国王代理が安易に人を辞めさせたり雇い入れたりするせいで、余計な手間になっていたのだが。
「なるほど。『ウーナ』の名を持つ者が入場を許可すれば入れる、ということだな。……国王代理の許可があったから愛妾とその娘も入れた、と」
ウィルフレードの言葉にふと疑問を抱いたことを思い出したリラジェンマは、それを確認しようと口を開いた。
「ウィルは生まれてすぐにセカンドネームを貰っているの?」
「? うん、そうだよ。父上がつけた。それが?」
思いがけないことを聞かれたウィルフレードは首を傾げながら問い返す。
「それってヌエベ王家だけの決まりだって聞いたわ。他の貴族にはセカンドネームをつける習慣はないって。
ウーナ王家は違うの。思い返せば、王家直系の血を引く者にセカンドネームはないの。わたくしのようにね。でも父のように外部から結婚等で王家に入る人間にセカンドネームをつけるの」
過去の歴代王と王妃の名前を思い返せば、そういう決まり事のうえに名づけられていたのだろう。
「なるほど。それが正しい仕来りならば、愚妹はセカンドネームを付けられなければならなかった。それもなく長い間ウーナを名乗っていた不届き者という認識を佑霊……いや、始祖霊にされていたのか」
ベリンダは不届き者として認識されながらも、王家が認めた者(この場合は国王代理)が引き入れた娘だったから静観されていた。
だがベリンダはウナグロッサを出国した。
リラジェンマも一度国境越えをしたから体感しているが、ウナグロッサで与えられていた始祖霊の加護が取り払われるのだ。
与えられていた物を失い、更に正統な後継者から名を剥奪されたベリンダは再び入城することは叶わなかった。
「落雷にあったと言っていたな。精霊の怒りに触れるような何かをした、あるいは言った……それでも愚妹は命を落とすには至らなかった。僕が思うに、雷は愚妹に纏わりついていた悪霊を祓ったのだと思う」
「悪霊を祓った?」
「すごい数の悪霊に懐かれていたからね。たぶん、時間的に僕らが祭祀を行ったあとにウナグロッサに帰国したはずだ。あの数の悪霊を祓うのにそれくらいの荒業でないと出来なかったのだろう」
ウィルフレードが深刻な顔をしているのは、悪霊が集まったときの悪臭を知っているからだろう。
それがどの程度の悪臭なのかリラジェンマには解らないが、解らなくて良かったと思ってしまう。
「もしかして……アマディ夫人が亡くなったのもそのせい?」
ふと気がついて声を出せば、ウィルフレードは首を傾げる。
「アマディ夫人?」
「父の愛妾のことよ」
「あぁ。屋内にいたのに落雷にあって命を落としたという、あの」
ウィルフレードは得心したと言いたげに手を打つ。
「彼女はわたくしに対してとくに何かしたわけではないわ。
ただ、……わたくしが知る事実は母の事故があった後、一人の馬丁が不審死をしたということ。母の護衛だった騎士が近衛騎士団長になったということ。
そして、アマディ夫人が『精霊の怒り』を受けたという事実ね」
静かに語るリラジェンマに対し、ウィルフレードの方が顔色を変えた。
証拠はない。すべては推測であるしアマディ夫人本人も亡くなっている以上どうにもできないが、聡いウィルフレードは誰が悪巧みをしたのか察したらしい。
「なるほど。それは……。
あの愚妹の実母だろ? そうとう悪霊に懐かれていただろう。……そのせいで天罰が下った。そういうことだな。君の父君も、もしかしたらそうとう悪霊に懐かれていたのかもしれない」
リラジェンマの実父は昔は優秀な人間だったらしい。だからこそ当時の国王陛下に見こまれ次期女王の王配にと請われた。
そんな人間が悪霊に懐かれるとは……。
リラジェンマはため息を禁じ得ない。
「ウィルが会っていたら、また精霊酔いをおこすほど影響を受けたかもね」
リラジェンマがわざとおどけて言えば、ウィルフレードは苦笑いをした。
「会えなかった事実に感謝するよ」
初めてこの第一神殿に来た日のように、ウィルフレードとふたり並んで芝生の上に座り空を見上げながら会話を交わす。
鉄柱に寄り掛かり、だれも来ない静かな場所でぼんやりと見上げる空は、リラジェンマを優しく見下ろしている。
ふと視線を遠くに飛ばせば、石柱より遥か後方に護衛として立つゴンサーレスの姿が見えた。リラジェンマが第一神殿へ行こうと誘っていたのが聞こえていたのだろう。
あの護衛の彼には心底同情してしまうリラジェンマである。
「ところで、リラ。僕と君が初めて手を繋いで一緒に夫婦の寝室を使った夜……いや、正確には昏倒した夜だけど……ひとつ夢を見たんだ……聞いてくれるかい?」
ウィルフレードの言葉にリラジェンマもそういえばと思い出した。
夢を見ていると自覚している夢だ。
見知らぬはずなのに懐かしいと感じる人に会っていた。その顔をはっきりと覚えてはいないが、特徴的な口元だけはよく覚えている。
ウィルフレードやベネディクト王子、国王陛下がよくやる右の口の端だけをあげて笑う、あの口元だったと思う。
もしかしたらウィルフレードのおじいさまかもしれない。
「わたくしも夢を見たわ。たぶん、あの子のこと頼んだよって言っていたから佑霊だったと思う。ウィルも夢に出てきたわよ。光るなにか……精霊だったのかしら、それと話していたわね。一と足すと桁が変わるから何かを変えちゃいなさいって言われていたわね」
リラジェンマの言葉にウィルフレードは破顔した。
「なんだ。同じ夢を見ていたのかな。僕の前に現れた精霊は……たぶん、ウナグロッサの始祖霊だろう。リラと同じ翠の瞳だったから。随分抽象的なことを言われたけど」
「抽象的?」
「“一と足すと桁が変わるから。歴史、変えちゃいなさい”って」
「歴史? どういうこと?」
始祖霊からの助言、なのだろうか。
だが何を言いたいのか分からず首を傾げてしまう。
「僕もどういうことなのか、随分考えたんだけど……つまり、一と九を足せば十になるってことかな、と」
1+9=10
とても簡単で初歩的な算数であるが、桁が変わると歴史も変わるとは?
首を傾げるリラジェンマにウィルフレードは、またあの笑い方をした。
「一はつまり、ウナグロッサのこと。九はグランデヌエベ。
足して桁が変わる……ということはつまり、桁違いになる……別のレベルになる、ということかなって。
歴史、変えちゃいなさいっていうのは……我が国とウナグロッサを足して違う国にして、新たな歴史を作れと唆されたのかな、と」
足して違う国にして?
それはつまり。
「ウナグロッサを併合する、ということ?」
(こぼれ話)
リラ曰く「それは思い出したらいけない記憶だわ‼」の件。
実は、お付きの人間が一番やきもきした事件です。
深夜に第一神殿で王太子夫妻が芝生の上でイチャイチャしているように見えて(リラ大号泣中)、お互い力の交換をしていたので、疲労困憊で身動きがとれませんでした。
芝生の周りで見ていた護衛たちは「殿下たちはいつまであのままでいらっしゃるのか……」とやきもきしつつ見守ります。
王太子夫妻が何を話しているのか(結界があるせいで)聞こえません。でも姿は見える。
ウィルも疲労困憊していたので彼女をお姫様抱っこして運ぶ余裕がなく。
つまり、「早くそこから出てきてください」な侍従と「うん、ごめん今動けない」のウィルが目と目で会話してまして。
星空の下、だいぶ長い時間いちゃいちゃしてました。
王太子夫妻付きの侍従、侍女、護衛たちが鈴なりになって芝生広場の周りをぐるりと待機していました。
リラにとっては忘れてしまいたい事件だったので本編ではスルーしました。




