25.再対面。ベリンダ
ウナグロッサ王国第二王女ベリンダ・ウーナとの会談が設けられたのは迎賓館の庭園であった。
庭園の片隅に設置されている四阿に警護やお茶の準備をさせる。
正式な書記官を同席させない非公式な会談で、『アレを必要以上に移動させるな! 外でないと無理っ』というウィルフレードの頑なな態度によりその場に決定した。
(外でないと無理……って、“臭い”と言っていたことと関係あるのかも)
疑問に思う点がいくつかあるが、『委細、第一神殿で』と言われているのでリラジェンマはこの場で尋ねたりしない。
「迎賓館の庭園も見事なものね。庭師が丹精しているさまが目に浮かぶようだわ」
ティーカップを手にリラジェンマは周囲に目を向けた。
色とりどりの花が咲き乱れ、裏手にはこぢんまりとした森が佇み、吹き渡る風がそよそよと頬を撫でる。
(あの森……あそこに突入したのね、ベリンダは)
昼間ならともかく、真夜中に。無謀であるとしかいえない。
「そうだね。ここに滞在する客人をもてなすよう努めるのが彼らの役目とはいえ、腕は確かな者ばかりだから“王太子妃殿下の目を楽しませた”と告げたら喜んでくれるだろう」
にっこり笑顔のウィルフレードが返事をする。
今日の彼は落ち着いたいつもの王太子殿下である。
それに反比例するように、徐々にではあるが周囲を警護する近衛騎士たちのイライラと落ち着かない雰囲気が微かに伝わり始める。
ウナグロッサの王女との会談予定時刻はもう過ぎた。
だいぶ待たされている状況で、このままではただの『王太子夫妻の優雅なお茶の時間』になってしまうのだが。
「僕としてはリラとの時間を堪能したいから、このままがいいなぁ」
「そうすると……、いつまでもアレが滞在するわね」
「うん、さっさと終えたい。空気が濁る」
妙にキリっとした表情で言うウィルフレードに、そこまで酷いのかと、半笑いになりそうなリラジェンマである。
そこへバスコ・バラデスが顔を出した。
「殿下。国境検問所から鷹が飛びました。ウナグロッサの国王から王女がこちらに来ていないかと質問状を持った特使が来ているそうです」
「今頃気がついたのか。マヌケ狸め、気付くのが遅い」
「殿下、お口が悪いですぞ」
リラジェンマの顔色を窺いつつ、バラデスが渋面の彼の主に注意する。ウィルフレードが悪しざまに罵ったのはリラジェンマの実父であるから、当然の反応といえる。
だが。
「アレは、昔はそれなりに有能だったらしいけど、今ではマヌケ狸親父に成り下がりましたね」
リラジェンマは“気にするな”という気持ちを込めてウナグロッサ国民を揶揄する『タヌキ』という単語を口にした。
澄ました顔でことも無げに言うリラジェンマにバラデスは頭を下げる。
「本日中に帰すからそこで待ってろと伝えておけ」
ウィルフレードが右の口の端だけを持ち上げた笑みを見せながら指示をすれば、バラデスもまた同じような笑みを作ったあと畏まって低頭した。
リラジェンマたちの周囲を警護する近衛騎士の苛立ちがピリピリと肌に突き刺さるようになった頃、やっとベリンダが姿を見せた。
遠目に見てもわかるはっきりとした金色の衣装を着て、ゴテゴテと煌びやかなお飾りを身に着けている。
(なに? あれ。昼間にあの派手なネックレス……遠くからでも分るあの肩の出たドレス……ありえないわー。あれ、夜会向きのお飾りじゃない?)
途中、立ち止まると後ろから傘を差しかけている侍女になにか怒っている。明瞭には聞き取れないが、ぎゃんぎゃんと喚く音声は届く。
(侍女になにか文句を言っているわ……えぇー? 傍若無人過ぎではなくて? なんなの、あの子)
ベリンダとともに越境してきたウナグロッサの騎士たちは相変わらず大人しく部屋に籠っている。つまり、彼女を守護する者はいない。傅く者も他国の人間。にも関わらず、自国にいるような傲慢さで振る舞うベリンダの神経が本気で理解できない。
(暗殺とか、夢にも思っていないのでしょうね……まぁ、そんな立場でもなかったから)
ベリンダのあの態度が、すべてを踏まえ警戒心を持ちながらの行動だというのなら、いっそ素晴らしいと褒め称えるのだが。
テーブルの下でリラジェンマの右手をぎゅっと握ったウィルフレードがポツリと呟いた。
「あぁいう傲慢な人間、僕はキライだ」
「人間と思わなければ、腹も立ちますまい」
「言うね。……だがもっともだ」
グランデヌエベ王国、王太子夫妻がそんな会話をひっそりと終えるころ、満面の笑みを浮かべたベリンダ・ウーナが四阿にやっと到着した。
「お待たせしましたか? お衣装がたくさんあって悩んでしまいました。ごめんあそばせ」
そう言いながら四阿に入ってきたベリンダは、そのうつくしい顔を一瞬こわばらせた。だが気を取り直したように笑顔を作り直すと目の前にあった椅子に腰をおろした。
(え? 礼もしないの? あなた、ウィルに初めて会うのではなくて? 自己紹介していないわよ? しかも勧められてもいないのに座るの?)
非常識さオンパレードな異母妹の態度に我が目を疑っていたリラジェンマであったが、ふと視線をウィルフレードに向けたとき、それ以上にギョッとした。
(えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ? なに、この顔⁈ 女性に対して、いいえ、対人としてあり得ないわっ。こんな嫌悪丸出しの表情、なに? なんなの⁈)
普段の王太子ウィルフレードは、眉目秀麗と言っていい白皙の美青年である。輝く金髪と黄水晶の瞳をもつ王太子殿下で、彼の態度、行動、醸し出す雰囲気すべて非の打ち所がない王族の中の王族といった男なのだが。
今は。
珍妙なまでに表情を歪め、嫌悪を通り越し憎悪の眼差しを正面にいる相手に向けている。視線で人殺しができるなら、今ここで見詰められているベリンダは死んでいるだろうと思うほど、険しく拒絶を示している。
その内心を悟られないよう穏やかな笑みを浮かべているのが王族としての常なのだが、彼はそのすべてを放棄し、感情の赴くままの表情を晒している。
(だから、書記官を同席させなかったのね!)
このような態度、一国の王太子としてあり得ない。それを公式文書に残されては堪らない。
歪めた恐ろしい顔で獲物を威嚇する犬の方がまだましな状態だと思うほど、ウィルフレードのその顔は初めて見る種類の表情だった。
だが、リラジェンマの右手に伝わる彼の左手が急激に冷たくなったのを感じ、彼女は気を引き締めた。
(気分が悪くなっているのを、これでも我慢しているのね)
これは早急にこの場を解散させたい。
(というか、ウィルのこの顔を見てこの場に居続けられるベリンダの神経を疑うわっ!)
リラジェンマは口を開いた。
「ウナグロッサの。誰の許しを得て着席した? 王太子殿下の御前です、名乗らずの無礼者よ。そなた、本当にウナグロッサの王女なのか?」
彼女がそう言った途端、ベリンダはうっすらと微笑んだ。だが直後、憐れな泣き顔に変化した。
「おねえさま、ひどいっ! どうしてすぐそんな侮辱するようなことばかり言うのですかっ⁈」
白魚のようなほっそりした手で顔を覆うと、大袈裟なまでに泣き声をあげた。
(わたくしも問いたいわ。どうしてすぐそんなに被害者になろうとするのかしら)
ただ事実確認をしただけにすぎないのに、とリラジェンマは思う。
(幼いころから愛らしい容姿で他者の同情を買い庇護を願う。今までそれで成功して生きてきたから、それを続けているのね)
だが、大人の女性としてコレでは駄目だろう。
まともな会話が出来ない。しかも世間一般の令嬢がもつ礼儀作法が身に付いていないなんて、王女以前の話だ。
(このような者をウナグロッサの後継だなんて認められないわ)
沸々と怒りが湧いてくる。
「礼儀も弁えない無礼者。疾くと塒へお帰り。だがわたくし、リラジェンマ・ウーナの名において、貴様の名を剥奪する。今後一切『ウーナ』を語るな。汚らわしいっ」
そう言った瞬間、ウィルフレードと繋いでいた手を中心に、何かが波紋状に広がったのを感じた。
驚いたような表情のウィルフレードと視線が合う。
(今のは、なに?)
(なんだ? 今の衝撃破は)
だが、視線を交わしたのは一瞬。
リラジェンマの一喝を聞いたベリンダが、わなわなと震えながら悲鳴のような声をあげた。
「け、けがらわしい? ……そんな、そんなこと、言われなきゃならないの? おねえさま、ヒドイっ!」
覆っていた手から顔をあげたベリンダは、視線をウィルフレードに向けて、またしてもギョッとした表情になった。
(ん? ウィル、こんどはどんな顔でこの子を見て、る……⁈)
鼻を摘まむ。
この動作をするとき、人は何を考えてするだろう。おおよそ何か臭いものが傍にあって、その匂いを嗅ぎたくないときにする仕草ではなかろうか。
それを対人で、目を見ながらやればその相手をこのうえなく馬鹿にした動作となるのではなかろうか。
ウィルフレードは、今、それをしていた。
表情を歪めたまま、左手はリラジェンマの手を固く握り、右手で自分の鼻を摘まみ。
(お前、臭いぞって態度で示しているの、ね……)
一瞬、これは意趣返しなのかと思った。
彼はリラジェンマが母国で受けた仕打ちを知っている。だからこそ、こんなありえない態度をとっているのかと思ったのだが。
(違うわ。本当に本気で嫌悪しているのだわ)
みるみるうちに顔色が悪くなり、冷や汗をかき始めている。
いつもは白皙の美青年といっても遜色のない顔をあり得ない程歪ませベリンダを睨み続けている。
「な、なによ、なんなのよっ! どうしてそんな顔でわたしを見るのよっ!」
ベリンダは悲鳴のような声をあげて抗議した。それも当然だろう。彼女を見て、こんなにあからさまに嫌がる人間に初めて会ったのだから。
しかも“臭い”と揶揄されるとは!
(女性にしたら駄目なやつよ、ウィル……あぁ、わたくしが人間だと思うなと言ったから?)
ウィルフレードのこの態度は、自分の発した言葉のせいかもしれないと思うと少なからず責任を感じるリラジェンマである。
「ウナグロッサの。王太子殿下はそなたと話すことは何もないと態度で示している。何やら世迷言をほざき、我が国に入国したようだが、これで理解しただろう」
「おねえさま」
「そなたと話すことは何もない。帰れ」
ベリンダの涙に濡れる空色の瞳をじっと睨みつけた。リラジェンマが威厳を持ってじっと見つめ続けると、ベリンダは段々顔色を変え震え始めた。
「ひどい……ほんとうに、ひどい、こんなことって……」
演技ではない、本物の涙を目に浮かべるさまは憐れを誘うが、リラジェンマにそれは通じない。
ゆっくりと席から立ち上がり、冷たく光る翠の瞳で異母妹を睥睨した。
彼女をここまでじっくり見下ろすのは初めてだった。
「一昨日のように騎士たちに運ばれたいならそうする。だが自分の足で立ち去れ。少しでも人としての矜持があるというのなら」
これは最後の慈悲。
だが、リラジェンマにとってはそうでもベリンダにとっては違ったらしい。
「ひどいっ……こんな侮辱、あり得ないっ! お、おとうさまに言いつけてやる!」
そう言い残すと、ベリンダは座っていた椅子を蹴倒し四阿を抜け出て走りだした。向かう先が迎賓館方面だったことに少しだけホッとする。
(また庭で迷子になったら面倒ごとが増えるだけだもの)
「ピア、イバルリ、レブロン。即急にアレをウナグロッサへ送り返しなさい。それなりに丁重に」
「ソレナリニ……承知っ!」「御意」「御心の侭に」
側に控えていた近衛騎士三名に指示を与えると、彼らは即座に行動に移した。揃ってベリンダのあとを追い掛けた彼らの後ろ姿に安堵の溜息をつく。
四阿の中が二人だけになった。
「リラ……」
リラジェンマの手を冷たい手で握り続けているウィルフレードが小さな声で彼女を呼ぶ。
振り返って彼を見れば、椅子の背にぐったりと凭れ涙目にまでなっている。
「何も言えなくて、ごめんね」
冷や汗なのか、ウィルフレードの金髪がしっとりと濡れている。
疲労困憊、といった様子で力なく笑った彼はどれだけの力で自分の鼻を摘まんでいたのだろう。その高い鼻が赤くなっている。
リラジェンマは思わずウィルフレードの頭をその胸に抱え込んでいた。
「ウィルが何か言っていたら、国際問題にまで発展したかも。だから今日のところはこれでいいと思うわ」
王太子は何も言っていない。
今日あったことは非公式で記録には残らず、ウナグロッサ側がなにか文句をいったところで姉妹喧嘩の延長だと言い逃れることができるだろう。
とはいえ、その『姉』をグランデヌエベ王国王太子妃として扱うとなると……、ウナグロッサとしても面倒ごとになるのは目に見えているのだが。
(真っ当な国際感覚があるのなら、“ただの姉妹喧嘩”で治めた方がラクだと思うのだけど、あの国王代理はどう出るのかしらね)
自分の顎の下にある柔らかい毛並み……いや、ウィルフレードの金髪を左手で優しく撫でながらそんなことを考えていたリラジェンマの耳に、ウィルフレードの呟きが届いた。
「……至福……」
(ん?)
リラジェンマの胸の谷間に顔を預け、うっとりと頬を染めたウィルフレードの耳を思いきり引っ張ってしまったのは仕方のないことだ。
リラジェンマは自分にそう言い聞かせた。




