23.「リラがここに居てくれるだけで」……仕方なく、です
(???? いま“臭かった”と言った?)
ウィルフレードの漏らした言葉が意外過ぎて反応出来ずにいると、彼は頭を掻きむしりつつ膝から崩れ落ちた。
「なんだ? あの女。本当にリラと血の繋がりがあるのか? なんだあの汚臭! 吐くかと思ったぞ」
「おしゅう?」
「リラは感じないのか……あぁ、ちくしょう、だれにも伝わらないとはイライラする……」
本当に本気で気分を害したらしいウィルフレードの、その顔色の悪さにびっくりする。
「えぇ? 明日アレと会わねばならんのか? 嘘だろ? 拷問だっ」
ウィルフレードのこの調子はいったいなんなのだろう?
人前だというのに膝をつき、取り乱している。それに顔色も悪い。
(これ、なに?)
(ワタクシめにも、さっぱりわかりません)
疑問符ばかりが脳内を圧倒するが、ウィルフレードの側近であるバスコ・バラデスに視線を投げて問うても、彼も困惑しきった表情で首を振りリラジェンマを見るのみだ。
「えぇと、ウィル? ちゃんと説明して? いったいどうしたの?」
蹲り頭を抱えるウィルフレードの前でリラジェンマも同じように跪いた。
彼の肩に手を置き、その顔を覗き込もうとすれば。
「あ……」
ゆっくり顔をあげたウィルフレードがリラジェンマの瞳を見つめた。
酷く具合が悪そうに見えた顔色が徐々に元通りに……いや、頬に赤みがさし嬉しそうにリラジェンマの顔を見つめる。
いつの間にか、その黄水晶の瞳がウルウルと涙ぐみ始め。
「リラ……リラ……リラっ!」
「!」
しゃがんだ体勢でいるリラジェンマに、ウィルフレードが感極まったように突然抱き着いたから堪らない。
彼の抱き着く勢いのまま、床に押し倒されてしまった。
幸いウィルフレードの大きな手がリラジェンマの後頭部を支えていたお陰で、床に強打されるような事態は避けられた。
だが、室内は「殿下っ!お静まりくださいっ!」という大声で埋め尽くされた。
なにせ近衛騎士たちが周りには大勢いるのだ。
「殿下。小官の目の前で婦女子に対する乱暴、見過ごすわけには参りませんぞ」
カバジェ団長に首根っこを掴まれリラジェンマから引きはがされたウィルフレードは
「あぁ……うん、ごめんねぇ」
と力なく微笑んだ。
(えっと……どうしちゃったのかしら)
ウィルフレードの行動や反応はすべてリラジェンマの理解の範疇外で、いつもいつも翻弄されるばかりであった。
だが今日のこれはいつも以上に想定の斜め上だ。
「ウィル。ちゃんと説明して欲しいわ。“汚臭”ってベリンダに感じたの? 吐きそうになるくらい辛いものだったの?」
「リーラー」
泣きそうに顔を歪めながらリラジェンマに手を伸ばしたウィルフレードであったが、相変わらず首根っこをカバジェ団長に掴まれ続けているせいで身動き出来ずにいる。
彼女を求める手だけが伸ばされ弱々しく揺れる。
仕方がないので、リラジェンマが彼の手を握った。
(なんというか……幼い子どもみたいな仕草、反応……どうしたというの?)
リラジェンマの手を握ったことで、少しだけ安堵した表情になったウィルフレードであったが、小さな声でぶつぶつと呟いている。
「アレは嫌だ。会いたくない。臭い。キモチワルイ」
どこか迷子になった子どものようであり、夢遊病患者のようでもあるそれは、いつものウィルフレードらしさ――すべてを超越したかのような飄々とした雰囲気――がどこにもなかった。
(ウィルの持つ特殊能力のせいで、こんな風になるのかしら)
そう思った途端、リラジェンマの脳裏に知らない男の声が反響した。
《感覚共有。範囲:城内》
リラジェンマとウィルフレードの繋いだ手を中心に、目に見えないなにかが波紋のように広がったのが分かった。
(え? 今の、だれの声? 初めて聴く男の人の声だったけど……耳からじゃなくて、いきなり頭の中に響いたのだけど)
「リ……ラ」
目の前にあるウィルフレードが苦痛に顔を歪めた。彼にもう片方の手を伸ばそうとして、リラジェンマは急激な眩暈と血が下がる感覚を覚えた。
(え? 貧血? どうして、急に……)
視界が狭まり、あっという間に意識が閉ざされる。
「ウィルフレード殿下! リラジェンマ妃殿下!」
カバジェ団長を始めとする、近衛騎士たちの自分を呼ぶ声をどこか遠くに感じながら。
◇
リラジェンマは『自分は夢を見ているのだ』という自覚のある夢の中にいた。
何故なら、目の前には見知らぬ人がいる。見知らぬ人のはずなのに、やけに懐かしい心地がする。
とはいえ、はっきりと顔が見えているわけでもなく。
その人が――男の人? 口元だけが印象的だ――微笑みながら言った。
『一の姫よ。あの子のこと、頼んだよ』
待ってください、あの子とはだれのことでしょうか。
『一と足すと桁が変わるでしょ。いいわよ。……、変えちゃいなさいよ』
後ろから、別の声が――女の人?――聴こえたから振り向いた。
そこにいたのはウィルフレード。彼の前に白く光る『何か』があった。その光から声が聴こえた。
『ふたりなら、大丈夫。思うがままに』
ウィルフレードがこちらを見た。黄水晶の瞳が揺れる。
『……リラ』
甘く優しい声で、ウィルフレードが自分を呼んだ――
◇
(ん? なんだか騒がしいわね)
リラジェンマの意識が戻ったとき、周囲はなにやら慌ただしい人の気配が充満していた。
(いつもの侍女たちはわたくしの睡眠の邪魔にならないよう動くのに……変ね……ん? わたくし、いつ眠ったのかしら)
意識は目覚めたが目が開かない。
身体が動かない。昨夜はなにをした? そこまで考えて一気に記憶が蘇った。
(舞踏会! ベリンダが来て! ウィル!)
やっと目が開いたが、身体全体が酷く重い気がする。少々、頭痛もする。視界はいつものリラジェンマの寝台からの……いや違う。微妙に違う。
寝台に寝ている、のは確かである。天蓋とそこからカーテンが垂らされ寝台の周りを囲ういつもの風景。同じ材質、同じ作り。けれどなにかが違う。
なにが違うのか暫く考えた。
(わかったわ。いつもの寝台よりも広さが格段に違うのね)
いつもリラジェンマが使用している寝台よりも、幅が広いのだ。
(つまり、違う部屋で寝ているということ……どこよ、ここ)
何気なく視線を右に向けたとき、リラジェンマはピキンと音が立つように固まった。
そこにウィルフレードの秀麗な横顔があったから。
(ぅええええええ⁈ ウィル⁈ えぇ⁇ なぜ一緒の寝台にいるのっ⁇⁈)
声も出せずに驚き固まったリラジェンマの気配に気がついたのか、ウィルフレードもパチリと目を開けた。
そして顔をリラジェンマの方へ向け視線が合ったとたん、花が舞い散るような可愛い笑みを浮かべた。
(なっっっっにっっっ⁇⁈ この可愛い顔っ!)
その笑顔はリラジェンマを圧倒した。リラに会えて嬉しい、それだけで幸せ、ここに居てくれてありがとう、嬉しい嬉しい嬉しい、幸せ幸せ幸せと、ウィルフレードの心情がこれでもかと溢れ出て、息苦しいほどだ。
このように圧倒的な、もしくは暑苦しいまでの好意をリラジェンマはかつて受けたことがない。
(“可愛い”ってなに考えてるのよわたくしは! ウィルは年上男性なのよっ⁈)
頭の片隅にはちゃんと冷静な自分もいる。なのに意識のほとんどをウィルフレードが可愛い愛しいと思う気持ちに席巻される。
(目をっ、目を逸らさないとっ)
飲み込まれてしまう。
そう危惧するのに、どうしてもウィルフレードの顔から目を逸らせなかった。
「リラ、へいき? 頭、痛いとか、ない?」
ウィルフレードがちょっと掠れた小さな声で心配そうに囁いた。途端に、重苦しかった何かがふっと抜けた。
「だい、じょうぶ。ウィル、は?」
リラジェンマも声をかけたが、自分で思っていたよりも小さな声になってしまった。
「ん。僕も……と言いたいけど、腕も上がらない」
「あ……わたくしも」
重苦しいなにかが抜けたように感じたが、それとは違う疲労感に苛まれる。身体を起こそうと試みるが力が入らないのだ。
身動きもままならないふたりを救ったのは、カーテンの隙間から顔を出したハンナだった。
寝台でぼそぼそと話しをするふたりに気がついたらしい。
「おふたりがお目覚めになりましたーーーー!!!」
喜色満面のハンナが大々的に人を呼び、部屋の中が一気に賑やかになった。
宮殿お抱えの典医が呼ばれ、何事も無いがふたりは極度の疲労状態であるという診断が下された。
昨夜の突然のこん睡状態に慌てましたよと語る老齢の典医は、消化がよく滋養のつく物を摂るようにハンナに指示を与え退出した。
身体を起こすのも一苦労したリラジェンマとウィルフレードは、沢山のクッションを背に身体を起こし、ハンナから昨夜のあらましの説明を受けた。
昨夜、王太子夫妻がふたり揃って意識不明になったせいで、近衛騎士団詰め所はとんでもない騒ぎになったらしい。
典医を呼んだが寝ているだけだという診断が下された。だが、なにより急に意識不明になったことと、ふたりが固く手を握り合っていることが気がかりで、引き離せなかった。
仕方なく騎士団の力自慢の手を借り、手を繋いだままのふたりを王太子宮の夫婦の寝室に運び込んだ。衣裳を脱がせ夜着に着せ替えてもふたりともピクリとも起きないので、仕方がないとそのまま一緒に寝かせたらしい。
(寝台……広いはずね。ここ、夫婦の部屋だわ)
おふたりが固く手を握り合って、どうにもこうにも離れなかったから仕方なくこうなりましたとハンナは説明してくれた。
そう言われて自分たちの手を見ると、やっぱり繋いだままだった。離したくともどうにも力が入らない。
「あー。うん、ごめんね。このままでいさせて」
喋ることさえ億劫そうにウィルフレードが言う。
リラジェンマの右手は今もウィルフレードに繋がれている。
「ハンナ、今はもうお昼も過ぎた頃かしら」
どうにもこうにも、身動きのままならない身体に辟易としつつハンナに呼びかける。
「リラ。お願いだから自分の部屋に帰るなんて言わないで」
クッションにぐったりと凭れたままのウィルフレードが懇願の瞳を向ける。
「リラがここに居てくれるだけで、僕はより早く回復できそうな気がするんだ」
お願いお願いとその黄水晶の瞳が訴えてくるのを無視できず不承不承頷けば、心底嬉しそうな笑顔を見せるから悪い気はしない。リラジェンマだって、すぐ傍にウィルフレードが居てくれた方が安心できる……ような気がする。
(何故かしら……ウィルの頭に犬の耳が視える気がする……幻? 本質のソレとも違うわ……しっぽはキツネのそれだけど)
お互い自由に動くのは首から上だけなので、お喋り以外することがない。大きな声が出ないそれは必然的に内緒話になってしまう。
「第一神殿でちゃんと話すけど、リラを巻き込んだ。ごめん」
第一神殿でなければ話せない“ごめん”の内容は、おそらくきっと、精霊と佑霊関係の話だろう。
あの時のウィルフレードの取り乱しようと、リラジェンマの急な貧血。二人揃っての昏倒。その前に頭の中に直接響いた知らぬ人の声。
「ちゃんと説明してくれれば、いいわ」
「ありがとう。やっぱりキミは清浄だ」
(んん? 今の会話、普通よね? わたくし、異常じゃないわよね?)
「正常って……普通に返事しているだけよ」
「うん。キミはそれでいい」
ウィルフレードの柔らかい笑みを見れば、拘るのも大人気ない気がして黙った。
(確かに、ベリンダみたいに話が通じない人間もいるものね)
そこまで考えて、やっと異母妹の存在を思い出した。
彼女に『明日会おう』などと約束した記憶がある。だが寝込んでしまっている現状では会談など到底無理だし、お見舞いと称して王太子宮に侵入されるのも全力で拒絶したい。
ウィルフレードもリラジェンマの意見に全面的に賛同してくれた。
ハンナを通してバスコ・バラデスに第二王女の接待をするよう命じる。彼ならば王太子夫妻が体調不良になったなどと言わず、巧いこと気を逸らしてくれるだろう。
アレとの会談は体調が万全になってからだ。
「ところで。王妃陛下は、お許しくださいますかね?」
「え? なにを?」
一通りの指示を与え、もう少しお休みくださいと人払いされた寝室で、眠りに意識を半分引きずられながらリラジェンマは呟いた。
「夫婦の寝室は、結婚式を終えるまで使用禁止だと……言われてます」
「あー。……いや、不可抗力だから。緊急事態発生にともなう人命救助、みたいなもの……だから」
ウィルフレードもうつらうつらしながら返事をした。
「人命救助、ですか」
「です」
「なら、仕方ないですね」
「です……」
(ハンナが仕方なくって何度も言っていたから、おかあさまは既にご存じでしょうけど)
クッションに埋もれながらウトウトとしていたウィルフレードが眠りに落ちる直前、ぽつりと呟いた。
「はやく、……ちゃんと、……使いたい……」
リラジェンマも眠りに落ちる寸前で、「なにを」と問い返せないまま意識を手放した。
そういえば、夢の中で誰かに会ったという話をしなかったなと思いながら。




