第二部 第二章 7 ーー アネモネ ーー
八十七話目なんだけど、アネモネ、私は懐かしむこともできないのかな……。
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背中に受けた声が誰なのかわかっているのに……。
望んでいたのに……。
急に恐怖が身を包んでしまい、反応が鈍ってしまう。
「……アネモネ?」
震える声を必至に整えながら振り返ると、リビングの入り口付近に人影を捉えた。
アネモネを。
アネモネは壁に凭れるように立ち、腕を組んでいた。
それまでとは違い、全身を黒い服に包み、黒のブーツを履いていた。
二人で盗んだ大剣を背中に背負って。
ちょっと憎らしくもある。
これまで大剣の重さに苦労していたのに、今は平然としていることに。
あれは嘘だったって言うの?
ただ、前髪の一部を三つ編みにしているのは変わらない。
もう会うこともできず、遠退くだけだとどこかで覚悟をしていたので、少し安堵した。
「まさか、本当に来るとは思わなかった」
アネモネは嘆くような声をもらし、渇いた笑みをこぼした。
「私がここに来るって知っていたの?」
「確信じゃないけど、強い予感はしてた」
なんで?
なんで背中に這う緊張が解けないの。
アネモネと別れてまだ三十日も経っていないはずなのに、アネモネが冷たく見えてしまう。
不意に脇腹を触ってしまう。
アネモネに刺された場所を。
怯えてる?
「そのメガネ、拾っていたんだ」
手にしていたメガネを強く握ったのを、アネモネは見逃さない。
指摘されて胸の辺りまで上げた。
「そのまま捨ててくれてよかったのに」
メガネを眺めていると、アネモネの冷たい声が降り注ぐ。
レンズに反射した自分の情けない姿がより惨めになった。
「捨てられるわけないでしょっ」
顔を上げず、惨めな自分に向かって怒鳴るのが精一杯の抵抗であった。
体が震えそうななか、呆れた様子のアネモネの吐息が聞こえる。
「ねぇ、アネモネ……」
「ーー何?」
「戻ってきてよ。また一緒に旅しようよ」
ようやく顔を上げ、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出すことができた。
重たい空気が邪魔をして掠れてしまう。
私の願いに、アネモネは満面の笑みを献上してくれた。
刹那、綻んでいた頬が強張り、安堵は一気に砕かれた。
アネモネは頬を緩ませたまま、かぶりを振った。
「言ったでしょ。私とリナとじゃ目的が違うの。一緒には行けない」
「……だったら。だったらなんでここに来たのよ、なんで……」
「そのナイフを置きに来たのよ。そうしたらリナが来る気がしたから。最後の挨拶にね」
「最後って、何よ……」
強がってみるけれど、アネモネに通用せず流されてしまう。
「多分、私はこれからも鍵を開いていく。でもそれは危険を伴うもの。リナ、あなたにはそんな危険になってほしくないの」
そこでアネモネの表情が変わる。
私を心配するように。
「なんなの。危険なんて。そんなのここを出たときに覚悟をしていたでしょ」
どこかバカにされているみたいで、声を上げてしまう。
「ーーそう。私たちはここで決めたんだよね。でも、鍵を開けるのは、その覚悟もただの思いすごしだと気づかされたのよ」
アネモネは不意に天井を眺め、寂しげに呟いた。
それはどこか以前のアネモネの雰囲気に戻った気がした。
本当に私を心配してくれているみたいに。
「あなた、あのとき何を見たの?」
「別に。ただ、甘くないってことだけよ」
嘘。
絶対にアネモネは何かを隠している。
「リナ、お願い。もう希望を抱くのは止めて。この街で先生の手伝いをしていれば、この先きっと苦しむことはないと思うから」
先にアネモネが改まると、組んでいた腕を解き、体の正面を向けた。
「何そんなこと急に言うのよ。決めたじゃん。私らはアンクルスを探すって。そんなの諦めるわけないでしょ」
声をつい荒げてしまう。そんなことを急に言われても、聞き入れるわけない。
「私がここに来たのは、リナ、あなたを止めるためなの」
「私を止める?」
「リナ、これは冗談でもなんでもない。警告よ。このままあなたが旅を続ければ、きっと後悔する。絶対に苦しめられる。私にはわかる。だから、今すぐ旅を止めて」
「後悔って何よ」
「私にはわかるの」
意図が掴めず抗っていると、アネモネは声を荒げ、一蹴する。
それはアネモネじゃなかった。
私の知るアネモネは、いつも冗談を言い、人がどれだけ悩んでいても、茶化して楽しんでいた。
よくも悪くも、その明るさがアネモネの取り柄。
私もその明るさに助けられていた。
でも、目の前にいるアネモネは氷みたいに冷たく、触れることすら拒みそうである。
悔しさでメガネを握る手に力がこもる。
ここに出るのも久しぶりね。
でもリナ。私は別に責めてなんてないよ。