第六章 5 ーー 距離 ーー
六十二話目。
…………。
5
なんだろ。眠たくないのに、意識が途切れそうになっている。瞬きをしたいのに、できない。
「ーーリナッ、しっかりしなさいっ。しっかりしてっ」
誰? アネモネなの?
なんだろう。懐かしくもあり、苦しくもある。
あれ? 私って倒れていたんだ。なんでだろ、脇の辺りが痛い。
「大丈夫よ、リナッ、大丈夫だからっ」
誰かの顔が見える。
誰?
なんか苦しそうだけど。
「……アネモネなの?」
目が充血してる。そんな悲しい顔しないでよ。あんたには笑ってほしいんだからさ。
口元を震わせる顔が霞んでいく。
私が苦しいときにも笑ってくれていたから、私も頑張れたのに。
そんな顔しないでよ。
あんたの泣きそうな顔を見ていると、胸を締めつけられそうで痛いから……。
ねぇ、笑って。
あんたには笑っていてほしいんだからさ。
鍵と呼ばれていた大剣を盗んだときもそうだった。
ーー 楽しいね、リナ。
きっとこれから、私たちは大罪人として追われる立場になることは覚悟していた。
きっと辛いこととも対面しなければいけないことも理解していた。
でも、アネモネが無邪気に接してくれることで、気持ちは楽になっていた。
だから……。
だから、笑ってよ。
「リナッ、しっかりしてっ。ここで止まっていいの? あなたたち、目的があるんでしょっ。だったらっ」
何を言っているの? あなたたちちって、私たちでしょ?
耳に響く声が霞んでいた視界を少し晴らしてくれる。
必死に呼びかけてくる声。大丈夫だって。
私を心配してくれると、変に笑ってしまう。
「ねぇっ、キョウッ、こっちに来てっ」
キョウ?
なんで?
………。
あ、そっか。私、刺されたんだっけ。
アネモネに。
必死に呼びかけてくれるのはアネモネじゃない。
声を荒げていたのは、エリカであることに気づいた。
何してんだろ。よく見れば、髪の色が違うじゃん。
エリカの額に光るものがあった。汗をかくほど必死になっているの。
ってか、人見知りじゃなかったっけ。
ちゃんと喋れてるじゃん。普通に喋れるんだ。
それとも、それだけ私が危ないの?
そんなに傷は深いんだ。
なんで?
なんで、アネモネは私を刺したの?
どこにいるんだろう、アネモネ。
さっき、大剣を持っていた。
私でも重たく感じていたのに、軽々しく。
そこにアネモネはいなかった。
ねぇ、どこに行ったの? ねぇ……。
「……どこにいるの?」
弱々しい声が空気に砕かれたとき、目が覚めた。
飛び込んできたのは、木目調の天井。
自分で帰った覚えはない。けれど、ベッドに寝ている。
ここはどこだろう。殺風景な部屋でしかない。
窓から陽光が射し込んで、部屋を照らしている。
寂しいはずなのに、暖かい。
「ーーっ」
歯を食いしばってしまう。脇腹が疼き、背中にかけて痛みが雷みたいに走った。
微かに湧いた期待感を打ち消すみたいに。
アネモネに刺された傷が嘲笑っていた。
目頭が熱くなっていくのに、体が震えていくのに、不思議と冷静でいられた。
誰かがこの部屋に連れて来たのか、脇を触れば包帯が巻いて、治療をしてある。
一瞬、影にまとった人影が脳裏を掠めた。
体が重い。
一体、どれだけの時間を眠っていたのだろう。
腕がすぐに上がってくれない。体が麻痺していて、感覚を狂わせている。
最後にご飯を食べたのっていつだったっけ。もう忘れちゃった。
それだけ長い間、眠っていたってこと……。
でも、動かなければ何も始まらない。
途方もなく手が、ベッドの横にあるテーブルに伸ばした。
天板にある何かに指が触れる。
無造作に掴んで、顔の前に移した。
今、食べたい物ってなんだろうって迷っていた気持ちが、深い暗闇に突き落とされていった。
アネモネのメガネ。
微かに覚えている。
アネモネが黒マントのそばに歩み寄っていたとき、捨てたのを。
遠ざかる背中に、私が「似合っている」と褒めると、嬉しそうに綻んだ姿が重なった。
あれは幻でしかなかった。
体が震えていくのを必死に耐えた。
それでもメガネを持つ手の震えは止まってくれない。
ごまかすのに下唇を噛み締めた。
目蓋を閉じると、目尻の辺りに温かいものがスッと流れた。
目蓋の奥に二人のアネモネの姿が浮かぶ。
屈託ない子供みたいな笑顔を弾けさせるアネモネ。
冷たく、氷みたいに触れることを拒む蔑んだアネモネ。
「……姉さんってなんなのよ」
これまで姉さんなんて呼ばなかったのに。
友達感覚でいられるのは、嬉しかったのに。
そんな距離を作らないでほしかったのに。
姉さんって、なんなのよ、アネモネ……。




