第六章 1 ーー 戸惑い ーー
五十八話目。
六章に入ったけれど、何が起きたの?
第六章
1
何が起きた?
体が硬直してしまっている。
誰も答えてくれない。
動きたいのに体が動いてくれない。
途方に暮れ、倒れていたリナを呆然と眺めていたとき、僕の横を影が横切る。
エリカだ。
それまで僕の後ろでじっと固まっていたエリカが俊敏に動き、倒れたリナに駆け寄りしゃがみ込むと、上着を脱いだ。
「大丈夫、しっかりしなさいっ」
エリカの叫喚が我を取り戻してくれた。
けれど、それは目の前の惨劇を鮮明にさせるだけ。
信じがたいけれど、リナは刺されていた。脇腹の辺りが血に染まっている。
そこにエリカが自分の上着を当て、止血しようと押さえていた。
「……アネモ…… ネ…… なんで?」
リナの途切れた声が宙に舞う。
アネモネは動揺することなく倒れるリナの横で佇み、黒マントを眺めている。
「私の目的がちょっと違うってこと」
アネモネは冷たい口調で吐き捨てると、手にしていたナイフを乱暴に投げ捨てた。
そしておもむろに振り返ると、石に刺さっていた大剣に手を添え、息する間もなく大剣をスッと抜くと、軽々しく横に大きく振った。
そのままグリップ回転させて地面に立てると、今度は黒マントと向かい直した。
「なんだい、その茶番劇は? そんなものを僕に見せて何がしたいの?」
黒マントは臆することなく、両手を左右に大きく広げた。
「あなた、“ワタリドリ”よね。私はあなたを待っていたの」
何を言っているのかわからなかった。
初めて聞く言葉を発するアネモネ。
それでも堂々としており、逆に一瞬、黒マントがたじろいでいるように見えた。
「私をあなたたちの元に連れて行きなさい」
アネモネは怯むことなく続ける。
対して、これまで余裕を見せていた黒マントは警戒するように、腕を組んだ。
アネモネの表情は見えない。けれど、手前で倒れているリナ、傷を押さえているエリカは目を剥いている。
傷に対してではなく、アネモネに対して。
アネモネが相当険しい表情をしているのは読めた。
「連れて行け? 何をふざけたことを言っているんだ、お前。そもそも、なんで僕らを“ワタリドリ”って。いや、君らには可能性はあるだろうけど、でも信じられない」
「信じる、信じないは問題ではないわ。私を連れて行きなさい、ミサゴ」
そのとき、みんなの視線が一点に集まっていく。
今、なんて?
「なんで、僕の名前を?」
黒マントの声がこもる。
「知っているのよ。あなたの名前も、“ワタリドリ”ってことも」
「なんで…… お前の目的はなんなんだ」
「私はこの星のことを考えている」
「ふざけるなっ。星のことって、それはあの方……」
確実に黒マントの様子がおかしい。声が上擦っている。
「私はこうなることが見えていたの。あなたの願いは女神の願い、“アイナ”の意志を継ぐことでしょ」
瞬間、表情は見えていないにしても、黒マントの完全な動揺が見て取れた。
組んでいた腕を解き、だらしなく垂れ下がらせる。
「私は“アイナ”よ」
力強くアネモネは言い切った。
「アイナの意志を貫くため、私を連れて行きなさい」
反論する隙も与えず、大剣を振り回し、剣先を黒マントに向けた。
「……そんなことはどうだっていいだろっ」
ようやくここで声が発せられた。
今になって冷静に辺りが見えてしまう。
黒マントと睨み合うアネモネ。
アネモネのそばで倒れ込むリナ、懸命に止血しようとするエリカ。
「そんなことより、早くこいつを手当てしないといけなーー」
「ーーわかった」
リナのことを急かそうとしたとき、黒マントが静かに答える。
「まだ完全には信用していない。けれど、興味があるからね。いいよ」
と、黒マントは道を譲るように頭を下げた。
また言葉が詰まってしまう。
「……アネモ…… ネ……」
途切れそうなリナの声がアネモネに向けられる。
それでもアネモネは反応しない。
「この“鍵”を奪ったのは、間違った人間がこれを持たないようにするため」
リナの声に背いて話すアネモネ。不意にメガネに手をやると、メガネを外し、その場に捨てた。
そして、静かに歩き出した。
湖の中央へと。
沈むはずの湖を歩いていく。黒マントと同じく宙に浮かびながら。
湖を二、三歩歩いたところでアネモネは足を止める。
不思議と安堵した。
リナの方へと戻るんだと。
ただの冗談なんだと。
「……姉さん、あなたと私とでは目的が違うの。一緒にはいられない」
太い糸が切れた感覚があった。大事なものが切れた空しさが胸を押し潰していく。
振り返ったアネモネに言葉が詰まる。
アネモネの目は赤く光っていた。
石のように冷たい赤い目に驚愕する僕をよそに、アネモネは黒マントのそばに辿り着く。
瞬きも忘れていた瞬間、二人の姿は消えてしまった。
言葉すらなく。
どういうことだよ、これ……。




