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忘却のテンペスト  作者: ひろゆき


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330/352

 第五部  第八章  1  ーー  遠く続く凪  ーー

 三百三十話目。

           第五部


           第八章



            1



 音が聞こえた。

 何もない音が。


 誰かに肩を触れられた気になり、ふと目を開けた。

 重苦しく、淀んだ雲が目の前に広がっている。


 寝ていたのか?

 なんで?


 自分に問いただすけど、誰も答えてなんてくれない。


 意識のなかにセリンの寂しげに目を背ける姿が浮かんだ。


 そうだ。


 僕はセリンに殺されるのもいいと思っていた。


 それでリナが助かるのならば。


「ーーリナッ」


 突発的に体を起こしたけれど、すぐに顔を抱えてしまう。

 衝撃によってもたらされた頭痛に耐え切れず。


 なら、僕は殺されたのか?


 意識が朦朧とするなか、体の異変に手を眺めてしまう。


「……濡れてる?」


 顔の前に下ろした手を眺めていると、自分の手が濡れていて、顔を上げる。


「ーーっ」


 視界が捉えた光景に絶句した。


 光が届くすべての先に、水が広がっていた。


 途方もなく広い泉。


 もしくは浅瀬の海面に座り込んでいるような錯覚に陥った。

 それほどまでに、視線が届く範囲すべてが水に浸っていた。

 水面は手の平が浸るほど浅瀬がずっと続いているようだ。


「ここは、どこだ?」


 波一つない凪の水面に、困惑の声がもれる。


「目が覚めたみたいだな」


 立つことすら脅えてしまう、広大な水面に呆然としていると、唐突に誰に背中から声をかけられた。

 驚愕して振り返ると、一人の男の姿を捉えた。

 少し離れた場所に、一つだけ水面から小さな岩が飛び出ており、そこに足を組んで座る男がいた。

 座っていても長身と伺える長い足。

 頬杖を突く顔は浅黒く、堀が深い。

 伸びた髪を後ろで束ね、無精髭を生やす姿からして、異様な風格を醸し出していた。


「ここに具現化するほど…… 君もかなり想いを残しているようだな」

 

 顔に合った低い声が胸に突き抜け、息を呑んでしまう。


「あの、ここは一体……」


 それでも脅えている間もなく、ゆっくりと立ち上がり聞いてしまう。


「ほぉ。意外にも肝はすわっているようだ。それだけの境遇をくぐり抜けてきているようだ。ここを見て平然としていられるのだから」

「そんな、僕は別にーー」


 つい声を荒げそうになると、男は手を出して制した。


「いや、悪い。別にけなしたくて言ったわけではない。俺も驚いているだけだ。で、ここはどこだ、という話だったな。ここを一言で言うなら、「狭間」だ」

「ーー狭間?」

「隠す必要もないだろ。君は「テンペスト」に襲われたんだ」


 ……テンペスト。


 微かに記憶の影が晴れていく。

 そうだ。セリンと向かい合うなか、空には今にも堕ちてきそうな漆黒の空が佇んでいた。

 僕はセリンに殺されたんじゃなくて、テンペストに襲われた?


 胸に手を当ててしまう。


 意外にも鼓動は落ち着いている。

 不思議と動揺もしていない。


「それじゃ、ここってアンクルス?」

「ほぉ、それも理解してくれているとは。こちらとしても、説明が省けて助かる。そうだ。俗に言う“アンクルス”だな」


 恐る恐る答えると、男はクスッと笑った。


 アンクルス……。


 本当にこんなところがあるなんて…… いや、そもそもテンペストに呑まれて、助かるなんて……。


「助かったのはなんで? という顔だな」

「…………」


 どうも、心を見透かされているみたいだ。

 すると、男は何気に目線を上げた。

 釣られて視線を上げると、


「ーーっ」


 さっき浮かんでいた雲がゆっくりと流れていき、空を捉えたとき、息を詰まらせてしまう。

 雲が晴れた先に見えたのは大地だった。

 空にいくつもの大地が風船みたいに浮かんでいる。


「……なんだよ、あれ」


 あり得ない光景だけでなかった。

 大地の地層の岩肌が晒され、それらがすべて上下反転していた。

 大地から生えていた木々。建てられていた街並みがすべて反転し、僕らがいる水面に向かって伸びていた。


「あれはテンペストに呑まれた大地だ。そして、その中央にある、大きな大地、あそこが「始まりの地」とでも言おうか」


 浮かび上がる一際大きな大地があり、それを眺めて男は言う。

 逆さになる大地は荒廃した荒野になっていて、岩肌だけで、草木などはなかった。


「戦争が起きた大地。テンペストが呑み込んだのだ」

 …………。

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