第五部 第八章 1 ーー 遠く続く凪 ーー
三百三十話目。
第五部
第八章
1
音が聞こえた。
何もない音が。
誰かに肩を触れられた気になり、ふと目を開けた。
重苦しく、淀んだ雲が目の前に広がっている。
寝ていたのか?
なんで?
自分に問いただすけど、誰も答えてなんてくれない。
意識のなかにセリンの寂しげに目を背ける姿が浮かんだ。
そうだ。
僕はセリンに殺されるのもいいと思っていた。
それでリナが助かるのならば。
「ーーリナッ」
突発的に体を起こしたけれど、すぐに顔を抱えてしまう。
衝撃によってもたらされた頭痛に耐え切れず。
なら、僕は殺されたのか?
意識が朦朧とするなか、体の異変に手を眺めてしまう。
「……濡れてる?」
顔の前に下ろした手を眺めていると、自分の手が濡れていて、顔を上げる。
「ーーっ」
視界が捉えた光景に絶句した。
光が届くすべての先に、水が広がっていた。
途方もなく広い泉。
もしくは浅瀬の海面に座り込んでいるような錯覚に陥った。
それほどまでに、視線が届く範囲すべてが水に浸っていた。
水面は手の平が浸るほど浅瀬がずっと続いているようだ。
「ここは、どこだ?」
波一つない凪の水面に、困惑の声がもれる。
「目が覚めたみたいだな」
立つことすら脅えてしまう、広大な水面に呆然としていると、唐突に誰に背中から声をかけられた。
驚愕して振り返ると、一人の男の姿を捉えた。
少し離れた場所に、一つだけ水面から小さな岩が飛び出ており、そこに足を組んで座る男がいた。
座っていても長身と伺える長い足。
頬杖を突く顔は浅黒く、堀が深い。
伸びた髪を後ろで束ね、無精髭を生やす姿からして、異様な風格を醸し出していた。
「ここに具現化するほど…… 君もかなり想いを残しているようだな」
顔に合った低い声が胸に突き抜け、息を呑んでしまう。
「あの、ここは一体……」
それでも脅えている間もなく、ゆっくりと立ち上がり聞いてしまう。
「ほぉ。意外にも肝はすわっているようだ。それだけの境遇をくぐり抜けてきているようだ。ここを見て平然としていられるのだから」
「そんな、僕は別にーー」
つい声を荒げそうになると、男は手を出して制した。
「いや、悪い。別にけなしたくて言ったわけではない。俺も驚いているだけだ。で、ここはどこだ、という話だったな。ここを一言で言うなら、「狭間」だ」
「ーー狭間?」
「隠す必要もないだろ。君は「テンペスト」に襲われたんだ」
……テンペスト。
微かに記憶の影が晴れていく。
そうだ。セリンと向かい合うなか、空には今にも堕ちてきそうな漆黒の空が佇んでいた。
僕はセリンに殺されたんじゃなくて、テンペストに襲われた?
胸に手を当ててしまう。
意外にも鼓動は落ち着いている。
不思議と動揺もしていない。
「それじゃ、ここってアンクルス?」
「ほぉ、それも理解してくれているとは。こちらとしても、説明が省けて助かる。そうだ。俗に言う“アンクルス”だな」
恐る恐る答えると、男はクスッと笑った。
アンクルス……。
本当にこんなところがあるなんて…… いや、そもそもテンペストに呑まれて、助かるなんて……。
「助かったのはなんで? という顔だな」
「…………」
どうも、心を見透かされているみたいだ。
すると、男は何気に目線を上げた。
釣られて視線を上げると、
「ーーっ」
さっき浮かんでいた雲がゆっくりと流れていき、空を捉えたとき、息を詰まらせてしまう。
雲が晴れた先に見えたのは大地だった。
空にいくつもの大地が風船みたいに浮かんでいる。
「……なんだよ、あれ」
あり得ない光景だけでなかった。
大地の地層の岩肌が晒され、それらがすべて上下反転していた。
大地から生えていた木々。建てられていた街並みがすべて反転し、僕らがいる水面に向かって伸びていた。
「あれはテンペストに呑まれた大地だ。そして、その中央にある、大きな大地、あそこが「始まりの地」とでも言おうか」
浮かび上がる一際大きな大地があり、それを眺めて男は言う。
逆さになる大地は荒廃した荒野になっていて、岩肌だけで、草木などはなかった。
「戦争が起きた大地。テンペストが呑み込んだのだ」
…………。




