第五部 第三章 6 ーー 漆黒の雲 ーー
二百九十一話目。
この章はアネモネの視点よね。
なんか、いつもと違う気がする。
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ナルスを出て数時間が経とうとしていた。
飲食店で騒ぎを起こした後、リナはすぐに街を出ようと促した。
きっと怒っていて限界が近かったのだろう。
僕自身、以前よりもどこか街の息苦しさに居心地の悪さを否めず、すぐに逃げ出したかった。
ーー街に残る?
提案したとき、リナの頬を引きつらせ、眉をヒクヒクとさせた顔を今でも忘れない。
怒りに全身が熱を帯びていて、針でも突けば破裂しそうなほど頬を赤く膨張させていた。
一つ間違えれば、その矛先が僕に向けられ、怒りや体の熱が冷えるまで殴られていたかもしれない。
でも殴られるのを覚悟して引き下がらなかった。
まぁ、二、三発はと奥歯を噛んで力を入れていたけれど、渋々リナは受け入れた。
「ーーで、結果的に三日は無駄だったんじゃない」
「だから悪かったって言ってるだろ。ナルスにいれば、ヒヤマさんに会えるなって思ったからさ」
そう。
元々、ナルスではヒヤマさんに会って詳しく話をしたかったから、しばらく滞在することを望んでいた。
実際、リナは渋っていたけれど、三日だけ、と約束していた。
結果としては……。
もう、ナルスにいない。
「ほんと無駄な時間」
リナの声が風に混じって肌に刺さる。
僕を責める目は、メガネ越しに見ていても楽しんで、いや呆れているようにすぼめていた。
ハイハイ、と僕は嘆きながら頷くだけ。
街にいても落ち着かなかったせいか、自然と休憩の回数は増え、今も開けた場所で焚き火をして体を休めていた。
余計なことを言うと、リナの拳が飛んできそうなので、揺れる火をじっくりと眺めていた。
「でも、ナルスもちょっと危ないわね」
「危ない?」
急にしとやかになって呟くリナ。
急な落ち着きに耳を傾け、コーヒーの入ったカップを渡した。
「だってそうでしょ。あの様子だと、近いうちに祭りをやりそうよ。生け贄を捧げてね」
カップ受け取り、両手に掴みながら、揺れるコーヒーを眺めて呟くリナ。
メガネを曇らせる姿を眺めながら、そうだな、と答えるしかない。
確実にナルスの様子は以前と変わっていた。
僕らが騒ぎを起こした後も、街では祭りに対しての待望論みたいなものが強まっていた。
ざわめきが広がり、僕らを見る目が冷たくなかでも、脅えが消えることはなかった。
「やっぱ、祭壇を壊しておくべきだったのかな」
自嘲気味に呟くと、リナは大きく溜め息を吐いた。
「止めてよね。あんたが言うと、冗談に聞こえないんだから。ほんと信じられないわ。前に本気でそんなことをしたなんて」
「だから、あのときは特別だったんだよ」
呆れて頭を抱えるリナに、苦笑いを献上してやった。
「それにそれも無駄なんじゃないかな。なんだろ、ナルス全体が黒い何かに覆われて、変な雰囲気が漂っているような気がするんだよね」
「変な雰囲気か」
「まぁ、ただの気のせいーー」
コーヒーを一口飲もうとしていたリナが不意に止まると、急に辺りをキョロキョロと見渡した。
急に眉間にシワを寄せ、険しい表情で警戒し始めるリナ。
どうした? と聞いても、耳に手を当てて何か集中し始めた。
「……何か聞こえた気がしたの。叫び声のような、なんか物々しい声が」
声をひそめるリナに、僕にも不安が浸食してくる。
確かリナは音に敏感だったはず。
「“蒼”の連中? でもリナらの容疑は晴れた…… まさかイシヅチって奴の?」
「ううん。そういう殺気みたいじゃなくて、悲鳴のような……」
首を傾げながら立ち上がるリナ。
困惑しながら焚き火の周りを歩き回ると、不意に足を止め、
「ねぇ、キョウ、あっちってナルスだよね」
震えそうな声を絞り出すリナ。
どうも様子がおかしく、僕も立ち上がると、リナはある方向を指差して立ち竦んでいた。
怪訝に指先を追うと、目を疑って息を詰まらせた。
リナが指した先は、ナルスがある方角。
その上空に異様なまでに漆黒の雲が佇んでいた。
普通の雨雲とは違う、禍々しい黒。街すべてを呑み込んでしまいそうな雲は、どこか異質な生き物にさえ見え、雲を駆け巡る稲光は離れていてもはっきりと見えた。
空気を切り裂く光はまるで息をこぼすように。
黒い雲は渦を巻くように地上にすぼまっていく。
街を呑み込みそうな光景に、足元が震えそうになる。
体が気持ちより先に警告している。
僕は“あれ”を知っている。
「……もしかして、あれテンペスト?」
うごめく黒雲を目の当たりにしてしまうと、つい憤ってしまう。
こいつはいつから人を苦しめればいいんだ、と。
……ふざけるな。
いつから……。
いいじゃん。
ちょっとでも、出番があったんだし。




