第四部 第六章 11 ーー 幻の姿 ーー
二百六十話目。
争わなきゃ、いけないの?
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ごつごつとした岩の壁をくり抜いて設置されたような牢屋。
そこに鉄格子越しに一人の女が壁に凭れる形で座り、こちらを向いている。
長い黒髪を後ろで束ねたスラリと女で、少し垂れた目が特徴的な、綺麗な人であった。
ーー やっぱりあなたは優しいのね。あなたに会えてよかったわ。
ーー 辛いことを言わないでくれ。まだキツく当たってくれた方が割り切れるだけいい。
ーー それでも、こうして私を“人”として扱ってくれるあなたには感謝してるのよ。
ーー ……止めてくれ。
ーー いいのよ。この国の人にしてみれば、私は罪人なのだから。
ーー だが、俺にはお前を捕らえるだけで戦争が終わるとは思えない。
ーー 正論ね。きっと私はいずれ処刑されるでしょう。もしも、もしもだけどね、私の死がきっかけでいい方向に世界が傾くのなら、それはそれで本望よ。
ーー 自己犠牲とでも言うのか。
ーー そ。私って偉いでしょ。
ーー 茶化すな。褒められたものではないぞ。それに悔しい話だが、レイナの言うことに傾く者は少ないかもしれない……。
ーー 戦争は終わらないと?
ーー 可能性としてな。
ーー 寂しいわね。人の心って……。
ーー 弱いんだよ、人ってのは。だから間違ったことをしたとしても気づけないんだな……。
ーー でも、あなたは気づいてくれる。それは大きなことだって思うわよ。それはきっとアイナだって。
ーー アイナってお前の妹のか? 彼女もある意味、被害者なんだな、この戦争の。
ーー そうね。あの子にばかり辛いことを押しつけるようで苦しいわね、ほんと……。
何を話しているんだ?
問いかけたくても、声が喉を通ってくれない。
綺麗な女の人が喋っているけれど、話している内容がどうも頭に引っかかってしまう。
アイナ。
こな名前が出るのなら、“ワタリドリ”に関わる人物の幻か、と疑ってしまうけれど、どうも解せない。
見知らぬ女が喋っていたのは男。
もしこの女が罪人であるならば、その看守的な立場なんだろう。
きっと昔の僕とエリカみたいな。
だが、その男を知っていた。
鉄格子の横の壁に凭れ、腕を組み、時折首を上げたり下げたりする人物。
「……ヒヤマさん、なのか?」
「レイナ……」
困惑に途切れた声がした瞬間、辺りが再び光に包まれてしまい、牢屋の光景が光に奪われていく。
声から逃げるようにして。
無音のまましぼんでいき、アメ玉ほどになると、最後は灯火が散るように消えた。
眼前にリナとアネモネの姿がある。
二人も幻を見て驚愕していたのか、大剣はリナを捉えておらず、アネモネは重力に負け、地面に落とす。
リナが助かっていることに安堵するが、リナはアネモネに戸惑いをぶつけていた。
アネモネが発した名前を気にしつつ、僕は視線を後ろに向ける。
幻が消える寸前、声が聞こえた方向、ハッカイへと。
幻として現れた男は、ナルスで会った男、ヒヤマであった。
「あんた、ヒヤマさんを知っているのか?」
ハッカイにも幻が見えていたのか、目を剥いている。
きっと幻に驚いているのだろうが、それにしては驚きすぎな気もする。
確かに違和感はあるのだけれど。
ようやく気づいたのか、ハッカイは僕らに戸惑いの眼差しを向ける。
「お前、なぜヒヤマさんを知っている?」
意図が掴めない。
そんなのはナルスに行けば会えるはずじゃないか。
「いや、だって前にナルスに行ったときに、会ったことがあったから」
平凡な言い方でしかないけれど、それ以上でも、それ以下でもない。
確かに、幻で見た姿は少し若く見えたけれど。
「ナル…… ナルディアだろうが。そんなことは絶対にないはずだ」
頑なにヒヤマのことを否定しようとするハッカイを訝しげに思い、眉をひそめてしまう。
「なんで、そこまで否定するんだよ」
「ヒヤマさんはナルディアにいたんだ。ナルスの昔の名称だ。私がまだ子供のころに。もう何十年も昔だぞ。今のナルスにいるなんて、あり得ないはずだ」
「どういうことなんだ、アネモネ」
呆然とするハッカイから体を反転させ、アネモネに聞いた。
この状況を説明できそうなのは、彼女しかいなかった。
振り向いたとき、アネモネは膝を着いてしゃがみ込んだ。
天を仰ぐように、空を呆然と眺めている。
「……レイナ、なんで?」
……レイナ?
そういえばさっきも呟いていた。
名前が怪訝になり、眉をひそめてしまう。
もしかして、あのヒヤマさんと一緒に出てきた女が……?
「アネモーー」
「ーーなんでなのよっ」
崩れ落ちるアネモネに、我に返ったリナが近寄ろうとしたとき、急にアネモネは発狂した。
地面に手を着き、嘆くようにして。
「なんで邪魔するのよっ」
「邪魔って私はそんな……」
「なんで邪魔するのよ、アイナッ。こんなの…… こんなの見せて……」
「……アネ…… モネ?」
突然のことに体をビクつかせるリナ。
恐る恐る近寄ろうとすると、アネモネは顔を上げる。
鬼気迫る形相で睨みつけるアネモネなのだが、やはり大きな目は涙で充血していた。
落ちていた大剣を拾い上げ、再びリナに構える。
ゆっくりとかぶりを振る。
「……リナ、もう無理なの。もう……」
「何が無理なの、何がーー」
瞬きをすることすらなかったのに、その隙を突くように、アネモネの姿が一瞬にして姿を消した。
リナの言葉を拒むようにして。
「何が無理なのよ……」
今度はリナが膝から崩れ落ちてしまう。
起き上がる気力すら失ったのか、動こうとしない。
何も言葉をかけられなかった。
幻…… なんだよな、これ……。




