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忘却のテンペスト  作者: ひろゆき


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 第四部  第一章  3  ーー  強まる焦りに痛み  ーー

 二百九話目。

   そろそろじっとしているのも暇になってくるわね。

            3



「ちょっ、あんた何やってるのっ。止めなって。無茶しないでっ」


 湿気が多く、じめっとした空気が肌に貼りつくなか、リナの発狂が空気を震わせていた。


「止めなって、キョウッ」


 ーードンッ。


 リナの制止が轟くなか、鈍い音が空間に広がる。


 ドンッ。

 ドンッ。


 鈍い音が重なるほどに、僕の顔が歪む。音が響くごとに肩に痛みが走った。


「あんた、いい加減にしなっ。それ以上すれば、本当にケガだけじゃ済まないって」


 僕は動きを止めてその場にしゃがみ込んだ。

 深く溜め息をこぼしながら、右肩を眺めてしまう。

 着ていた服が汚れて黒ずんでいる。

 さっきからずっと疼いて悲鳴を挙げている。

 腫れているのか静まってくれない。


「まったく。そんなに鉄格子にタックルしていれば、痛んで当然でしょ。ちょっとは学習しなさいよ。子供だって諦めるわよ。二、三回も続ければ無理だって」


 呆れた様子で説教してくるリナ。

 ぐうの音も出ず、晴れた右肩を眺めるだけ。

 もう何度目になるかは覚えていない。気づけば、右肩の感覚は麻痺していたのだけれど、気にすることはなかった。

 それだけ何度も鉄格子にぶつかっていた。

 全体重をかけてぶつかれば、壊せるんじゃないか、なんて無謀な期待を持って……。


 結果は……。


 右肩の痛みが答えであった。

 こんなところで休んでいる暇なんてない。こんなところじゃ熟睡すらできない。

 それよりもエリカを助けに行かなければ。多少の痛みなんて気にしている暇は本当にないんだから。


「もう無理しないで。先生とちゃんと話ができたら、これぐらいの鉄格子、蹴り飛ばしてあげるから」


 蹴り飛ばすって、できるのかよ。ったく…… それならもっと早くしてくれよ。事情はわからなくもないけど。


「けど、時間がない気がするんだ。なんか、時間が……」


 胸に竦む不安を上手く説明できず、言い淀んでしまう。


「……エリカのことよね」


 リナの静かな指摘は、右肩の痛みを強めた。


「酷な言い方だけど、今の私らには何もできないわ。セリンって奴の元にいることはわかっていても、そこに辿り着く手段を私らは持っていないんだから」


 わかってる。

 わかっていても、改めて言葉にされると、鋭い棘となって胸を貫き、奥歯を噛んでしまう。


「……それに、もしかすれば、そこにアネモネだっている可能性まもあるんだから」


 リナの声から力が抜けていくのがわかった。彼女にだって焦りはある。


 ……だから。


 痛みに頬を歪ませながらも、ゆっくりと腰を上げた。

 ふらつく体で足に力を込めた。右がダメなら、今度は左で。

 左肩を前に出して息を整える。


「……だから、急がないといけないんだ。そうでないと、二人とも……」

「それ以上、暴れるのは勘弁していただけないでしょうか?」


 唇を噛み、鉄格子に突進しようとした間際、聞き覚えのない男の声が廊下に響き渡った。

 敵意のない、穏やかでゆったりとした声は、踏み出そうとした足を止めた。


「……誰?」


 警戒を深めるリナの声に紛れ、廊下を叩く高い足音が近づいてくる。

 淡い灯火によって、伸びていた影が揺れながら近づいてくると、僕の牢屋の前に、一人の男が現れた。

 背が高く細身の男。

 短髪の黒髪は整えられ、色白ではあるが、鼻の高い顔立ちをしていた。

 どこか禍々しさは感じられず、音のない落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 敵意のなさは、「先生」に近かったのかもしれないが、吊り上がった目尻から、小さな出来事一つで豹変しそうな空気も漂っていた。

 それにリナの話からして、ここにいることは“蒼”の一員。白いシャツを着ていて、青い服を着ていなくても、気を許すわけにはいかない。

 自然と身をかばうように、後ろの壁に後ずさりした。


「そう警戒しないでいただきたい。私は何もあなたたちに危害を与えに来たわけではありません」


 僕の動きに反応してか、男は両手を見せて制した。

 だからって気を許すわけもなく、下がっていた背中が壁にぶつかる。


「あんた誰?」


 目に見えない奇妙な威圧に黙っていると、リナが問う。

 そこで男は改まって背を伸ばし、


「失礼。私はワシュウと申します。お恥ずかしながら、“蒼”において隊長の一角を担っています」


 そうだ。  

   じっとなんてしていられない。

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