第三部 第七章 1 ーー 指される行き先 ーー
百九十話目。
……って、エリカじゃなくて、私でいいの?
第三部
第七章
1
現実が曲がっていく。
狂気に満ちた禍々しい視線が渦巻くなか、遠くに立っていた黒マントの人物。
そいつはおもむろに左手を上げて、横を指差していた。
……ムーリフ。
聞こえるはずのない声が鼓膜に触れる。
何が言いたい。
何を伝えたい。
無言の問いかけが宙に舞ったとき、目の前が漆黒に染まっていった。
光が射し込んだとき、視界が捉えたのは、索漠としたどこかの部屋の天井。
なんだ?
状況が掴めず、腕を動かそうとしたとき、右肩に痛みが走った。
頬を歪め、痛みを紛らわせて肩を触ったとき、右肩に包帯が巻かれ、さらにベッドに横になっていることに気づいた。
どこかの部屋か、と安堵が訪れる間際、
「ーーエリカッ」
発狂と同時に体を起こした。
同時に右肩に痛みが走り、また右肩を押さえた。
痛みに体を丸めながら、部屋を見渡してしまう。
部屋はベッドの横に丸い小さなテーブルと倚子があるだけの、簡素な部屋であった。
右肩の傷が疼くたびに、朦朧としていた意識が鮮明になっていき、状況が次第に掴めていった。
エリカをローズにさらわれた。
その衝撃がすべてであった。
肩の傷なんて二の次である。
こんなところで休んでいる暇なんてない。
慌ててベッドから起き上がろうとしたとき、部屋の扉をノックされた。
はい、と返事する余裕なんかない。
それよりも早く立たないと。
「ーーって、キョウッ」
扉が開くと、驚きの隠せないリナの声が響いた。
慌ててリナは部屋に入り、手にしていた飲み物をテーブルに置くと、体を支えてくれた。
そこで無理にでも立ち上がろうとするのだけど、それをリナは押さえる。
「ちょっと落ち着きなさい。キョウ」
「落ち着けるかっ。エリカが、エリカがさらわれたんだぞっ」
「だから、落ち着けって言ってるのっ」
そんな暇はなく、腕を掴むリナに抵抗していると、いきなりリナは僕の首を右手で掴んだ。
「ーー落ち着きなさいっ」
細く白い手に、血管が浮き上がり、その細さに似つかない力が爪とともに首にめり込んでいく。
こ、殺される……っ。
そうだった。こいつは見た目とはかけ離れた怪力女。
「どう? 落ち着いた?」
力とは正反対の満面の笑みを献上され、目眩に襲われそうななか、小さく何度も頷いた。
ようやく手が放れ、首を擦るけれど、咳が止まらない。
「ま、落ち着けって言う方が難しいわね。あの状況だったら」
「エリカはっ」
咳を堪えながらも、聞いてしまう。
しかし、リナは倚子に座り、うつむいて首を振る。
何も言われなくても、理解できることに僕も顔を伏せた。
「時間もないから、簡単に状況を言っておくわね」
気まずさからなのか、リナは顔を背け、声に覇気はなかった。
「エリカとローズが消えた後、あなたは気を失って倒れたのよ。気が張り詰めていたのでしょうね。それで急いで宿に運んで治療したってとこ。
……町も何人もの人が襲われていて、病院は一杯だったからここでね」
そうだったのか、と傷口の包帯に触れた。
「それにムカつくけれど、あのナイフには本当に毒は塗られてなかったみたい。だから、これだけで済んだってことね。ほんと、あいつバカにしてるわ……」
首筋を強く掻き、憤るリナ。
そこで気持ちを鎮めるように息を吐いた。
「それで、あなたの傷が治まるまではここでじっとーー」
「そんなことできるわけないだろっ」
ここにしばらく居座るような口調に、つい声を荒げてしまう。
すると、リナは僕を制して呆れた。
「そんな気はないってのは私にもわかってるわよ。あんたが目覚めたらすぐにでも出発する気でいたから」
表情が晴れるけど、すぐに険しくなってしまう。
「でも、あいつはアネモネを」
肝心なことが頭を掠め、声に出るけれど、リナはまたかぶりを振る。
「それは恐らく無理でしょうね。私たちはアネモネと連絡を取る手段がないから。前みたいに、運よく会えたとしても、難しいでしょうし」
もどかしさに三つ編みをいじるリナ。
「だからって、私たちがアネモネと連絡を取るまでローズが待っているような、信用できる奴じゃないわ。もしかすれば、それをわかってて、言ったのかもしれない。困る私たちを楽しむために」
「酷いな」
「それだったら、強行して向かった方が早い気がするから」
「でも、向かうにしても……」
包帯に当てていた左手に力が入る。
「実はね、あいつらが消える間際だったんだけど、あいつが言ったのよ」
「ムーリフにいる」
ポツリとこぼしたのは僕だった。
突然放たれた町の名に、リナは顔を上げ、目を丸くした。
「なんで知ってるの? 気を失っていたんじゃ」
ーー まずはムーリフで待ってるわ。もし来られたならね。
「あいつ、私の聴覚が敏感だってわかってて、小声で言ったのよ。聞こえていたなら、来なさいっておちょくってね。ほんと癇に障る奴…… でも、なんでわかったの?」
「ーーそれは……」
それは夢での出来事。
捉えていたのはエルナで祭りを行おうとしていた直前の光景。
でも、少し矛盾があった。
記憶にその黒マントは存在していなかった。
そいつは夢のなかでだけ出現していた。
セリンではない。
それだけはわかる。
そして、そいつは僕に何かを投げかけていた。
指差して「ムーリフ」と。
あれは僕にエリカのいばしょを訴えていたのか。
夢のことを伝えると、唖然としていたリナ。
それでも揺るがず眺めていると、リナはメガネのつるに手を触れる。
「……冗談ではなさそうね……」
当然、と頷くと、リナは唇を噛み、顎に手を当てて唸ってしまう。
「だったら、急いだ方がいいわね」
どこか独り言みたいに呟くリナ。
「そういえば、さっきも時間がないって言っていたけど、なんで?」
聞くと、おもむろに立ち上がり、部屋の窓側に進み、外を眺めるリナ。
「実はさっきね、新たにあの連中を見かけたのよ」
「まだ連中が残ってる?」
「いえ。ローズの部下じゃないでしょうね。そいつらは横暴な態度をしないで、住民らには真摯に接していたから」
「どういうことだ?」
「多分、私が見たのは先行している偵察でしょうね。本隊は後からこっちに来るでしょう」
「ーーだったら」
「ーーそう。だから、できるならここも早く出て行く必要があるのよね」
窓の外を警戒し、振り向いたリナの表情はまた険しくなっている。
「そんなにそいつらも危ないのか?」
「そいつらは、一人の隊長によって統制がきっちり取れてる。それは暴力に任せる態度より厄介だと思う」
話を聞いていると、息を呑まずにはいられない。
「その隊長って?」
「ーーアカギよ」
頼むよ、リナ。
今回より、七章目に入るけれど、まさかこんなことになるなんてな……。




