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忘却のテンペスト  作者: ひろゆき


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 第三部  第六章  10  ーー  ここにはいない  ーー

 百八十八話目。

     ……キョウ。

            9



 瞬きが重く感じてしまうのは、いつぶりだろうか。

 あのときもそうだったんだ、よね……。


 目を開いたとき、飛び込んできたのは殺風景な天井。

 レンガを積み重ねられた小さな部屋。

 照明のない薄暗い部屋の片隅に膝を抱えて座り込んでいた。

 どれだけ見ても、変化のない変化のない天井に嫌気が差してしまう。

 逃げるように視線を落としても、部屋の正面にあるのは鉄格子。

 私は今、牢屋に閉じ込められていた。

 あのときと何も変わっていない。

 私は無力でしかなく、抗う勇気もない。

 ううん。一つだけ違うことはある。

 あのとき、鉄格子の先にいたキョウはいない。


 ローズに拘束され、連れて来られたのはどこかの町の牢屋。

 もうどれぐらいの時間がすぎているのか、わからないほどに閉じ込められている。

 瞬きをして、何度も鉄格子の先を眺めていた。


 それでも、そこにキョウは……。


 自分に存在意義なんてない。

 みんなから嫌われている。

 これまでの私に対する接し方で、そんなことを感じていた。

 だからこそ、私に話しかけてくる人なんていないんだと、受け止めていた。

 もちろん、それでいいと諦めていた。

 だから、不可抗力であったとしても、私に話しかけてくれたことは嬉しかった。


 そのキョウはここにいない。


 鉄格子の外の灯りがこちらにもれているけれど、ここはやはり以前のエルナの牢屋と変わりがなかった。

 気持ちが以前の歪んだものに戻っていく。

 もうダメなのかな、今度こそ……。

 私は必要ないんだって。

 助けて、とも言えない。


 もう少し待ってくれよ。ご飯まではさ。

 今日は虫の機嫌が悪そうだな。

 悪いね、今僕も食べる物を持っていないんだ。


 膝に頭をうずくまらせていると、甦ってくるキョウの声に、体の震えが治まってくれなかった。

 心を落ち着かせてくれる声はもうない。


「……キョウ」


 必死に絞り出した声は、小さな部屋に散ってしまう。


 やっぱり変わらない。

 私は判断を待っているだけ。


「ーーそんなに怖がらないで」


 閉じていた目蓋を開いた。

 深く閉ざされた空間に紛れ込んだ光みたいな声。

 キョウの声ではない、女の人の声。 

 リナの声でもない。

 もちろん、アネモネの声でもなかった。

 それでも震えを鎮めてくれるように、心の奥に浸透する声は暖かかった。

 じんわりと不安が弱まっていくみたいに。

 誰ともわからない声に導かれ、顔を上げた。

 それでも、飛び込んでくるのは殺風景な牢屋でしかない。


「大丈夫、大丈夫よ」


 聞こえる声を辿ると、そこには石レンガの壁があるだけ。

 壁に手を触れても、冷たさが手の平に広がるだけ。


「怖がることはないわ」


 誰もいないけれど、声は確実に聞こえていた。

 手に触れた壁の奥、隣の牢屋から。

 隣に誰かいるの?

 聞くことはできない。

 怖かったから。

 誰とも話したくなかった。

 変に人見知りが発動していた。

 なんで、こんなときに……。

 こんなことに敏感にならなくていいのに。これじゃ、余計に誰とも話せなくなってしまう。

 またキョウに怒られる……。

 本当は誰かと話がしたいのに、喉の奥に詰まってしまう。


「……怖い?」


 壁に触れ、うつむきながら足元を眺めていると、女の声は染み込んでくる。

 喋るのは怖いはずなのに、心が震えることはなかった。

 違う。

 密閉された部屋にじっとしていると、気持ちが震え、凍えそうだった。

 狂いそうになって、恐怖に息がゆっくりと口からもれていく。


「……怖い」


 キョウがいないなかでは喋りたくないのに、自然と声を発することができた。

 狂いそうになる本音を。

 手をギュッと握ってしまう。


「……そうよね、怖いよね」


 背中を丸め、縮まっていく体に注がれる声。

 不思議だった。

 この女の人の声を聞いていると、安心感に包まれていくようだ。

 背中から誰かに抱きかかえられているみたいに。


「……あなた、誰?」


 自分でも驚いてしまった。

 一人のときに自分から声を発してしまうなんて。


「私? そうね。気にしないで。ただの寂しがり屋な女って思ってて」


 ……寂しがり屋……。


 謙遜しているのか、名前を教えてくれない。でもそれ以上踏み込むまでの勇気はなかった。


「ごめんね。どうも、隣に誰かがいるって気がしたから、話しかけてしまったの。驚かせてしまってごめんね」

「ううん。私も怖かったから……」

「ーーそう。ありがとね。じゃぁ、寂しがり屋の独り言だと思って聞いてくれる?」


 体を包んでくれる声に、黙って頷いた。


「もう下を向かないで。うん、きっと怖いよね。こんなところに閉じ込められて。でもね、下を向かないで。ずっと下を向いたままでいれば、もっと辛くなってしまいそうだから」


 下唇を噛んでしまった。

 女性の言う通り、顔をうつむかせていたために。


「だからね。どれだけ辛くても、前を向いて。身勝手だって怒るかもしれないけれど、前を向いていれば、きっと、きっと大丈夫だから。ね」

「前を向く……」

「ねぇ、あなたは今、何かしたいことある?」

「したいこと?」

「うん、そう。何かしたいことを望めば、気持ちも前向きになれると思うから」


 私がしたいこと……。


 胸にそっと手を当てた。


「ねぇ、あなたは何かしたいこと、求めることってあるの?」


 心にざわめきが起きるなか、思わず聞いてしまう。


「私? そうね……」


 そこで女性の声が詰まる。


「そうね。私は妹を助けたいかな……」

「……妹?」


 何かあったんですか? 

 聞ける勇気もなく、また聞いてはいけない雰囲気が壁の奥から伝わってくる。

 でも、こんな場所にいても、誰かの心配するってことは、それだけ大切な人なんだ……。

 だったら、私は……。


「私は…… キョウに会いたい……」


 唇を噛んだ。

 キョウに……。

 …………。

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