第二部 第七章 6 ーー 目覚め ーー
百三十二話目。
ーーキョウッ。
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……によろしく。
どこかからか、優しい声が染み込んでくる。
優しいけれど、どことなく寂しくて、脆そうな危なげな声が心へと。
「……誰?」
無視なんかしてちゃいけない。
胸の奥がそう訴えてきて、力なく問いかけた。
返事はなく、声を追いかけようと目蓋を開いた。
漆黒に染められていた視界が白い靄を広げて開けていく。
そこに薄らとこちらに覗き込む人影を捉えた。
さっきの女の子?
「ーーキョウッ」
声に出せないで問いかけたとき、自分の名前を呼ばれ、瞬きをしてしまう。
次第に靄が晴れていき、人影の輪郭がしっかりと浮かび上がっていく。
「……エリカ?」
「ーーキョウ」
飛び込んできたのはエリカの姿。
目を見開き、必死に僕の名前を叫びながら、こちらをじっと見ている。
戸惑いで瞬きをしていると、エリカは唇を固く閉じ、目を充血させていく。
今にも泣き出しそうに体を震わせながら。
「……どうしたんだよ、いっ…ーー」
刹那、エリカは急に寝そべる僕に抱きついてきた。
「ーーえ? は? なんだよ、え?」
困惑して声が詰まってしまう。
大体、ここはどこなんだ? 僕は何を……。
「……やっと目が覚めたのね」
今の状況がまったく理解できずにいると、リナの声が入ってくる。
視線を横に移すと、腰に手を当て、悠然と立つリナが僕を見下ろして呆れていた。
「……リナ?」
「ったく、どれだけ人を心配させんのよ」
「……毒にやられてた?」
何も覚えていなかった。
これまでに起きたことを、リナから聞いたのだけれど、それらはどれも信じることができない。
どこか自分のことではなく、誰かのことを俯瞰的に眺めているような感覚で聞いてしまった。
どうりで起こした体がだるいはずだ。
助かったことに安堵する反面、自分が情けなくなってしまう。
自覚がなかったから。
ローズにそんな攻撃を受けたことに。
考えられるのは、カストでローズとすれ違ったあの一瞬。
まったく痛みもなかったのだけど、忘街傷に立っているときからの記憶がないことが情けなかった。
「……あの剣?」
僕が浸かっていた泉の中央に、リナが背負っていた大剣が水面に突き立てられていることに気づいた。
「あぁ、あれ。うん。使ったのよ」
大剣を眺め、平然と話すリナ。
「使ったって、え?」
「ねぇ、テネフ山でのこと、覚えてる? あのときと同じことをしたのよ。ここの人たちの言葉を借りれば、鍵を開いたの」
テネフ山……。
リナの指摘に胸が痛んだ。
忘れるはずがないし、忘れられない。
それはリナも同じなのか、大剣を寂しそうに眺めている。
「じゃぁ、アネモネが?」
リナは黙って首を振る。
「アネモネはいないわ。でも、髪の長い赤いドレスを着た女の子、覚えてる? あの子が現れた」
赤いドレスの女の子…… 忘れるはずがなく、頷いた。
「あの子がアイナらしいわ。私らもそこは詳しくわかんないけれど、でも結果的にあの子に助けられたの」
また頭が混乱していた。
上手く状況を理解し、話を繋げるにはピースが多すぎる。
脳裏で乱雑に散らかっていた。
「そういえば、ここは?」
ふと根本的な疑問がこぼれた。
「あ、そうか。そういえば、私らも詳しくは知らないんだ」
すると、リナの間の抜けた返事が空間に木霊した。
一体どれだけ眠っていたんだ、と自分を罵りたくなった。
洞窟を抜け、眼前に広がる村の光景に息を詰まらせた。
そして、村の奥にそびえる木々の姿に騒然となった。
「ここにいる人たちは、生け贄から逃れた人ってことなのか?」
「全員が、というわけではないみたいだけどね」
不思議な光景に思えた。
ある意味、ここで暮らして人たちはみな、被害者なのかもしれない。
けれど、すれ違う人や、村人同士で喋っている姿を眺めていると、普通の町の光景と遜色なく暮らしている。
「でも、どうやってここに集まったんだ?」
「……ワタリドリに連れられて来たみたい」
村の光景に目を奪われていたけれど、“ワタリドリ”と聞いて足が竦んでしまう。
「それって、セリン?」
否応にも期待が高まってしまい、声が上擦ってしまうが、エリカとリナの浮かない表情に不安が邪魔をした。
「セリンじゃなくて、ハクガンって人がここに集めていたみたい」
寂しさを滲ませるエリカの声が僕を現実へと引き戻す。
そう簡単に再会は許してくれないらしい。
「でも、ここでは生け贄にされずに生き延びることができるってことか……」
ふと感慨深くなり、唇を噛んでしまう。
「なぁ、ここって僕らが求める一つの形なのかな」
生け贄に取られることのない村。
命を奪われる恐れのない形に羨ましくなってしまう。
「ーー違う」
高ぶっていく気持ちを、エリカが一瞬で崩していく。
「村の人は、元の町の住民が自分たちを連れて帰ろうとしているじゃないかって怯えてる。それは結局テンペストに怯えていると一緒。これまでの町と変わらない……」
なんの不安もなく、穏やかにすごしている村人の姿に、エリカの寂しげで、それでいて強い言葉が重なった。
村の活気が動揺する心を宥めようとすると、リナが途方もない方向を向いた。
「ーーどうした?」
問いかける横で、リナは耳に手を添え、音に集中する。
「ーーごめん。私ちょっと」
「ーーおいっ」
刹那、詳しい話もせず、リナは急に地面を蹴る。
一目散に高い木々がある方へと駆けて行った。
なんか、この場所に出ると、久しぶりな気がする。
懐かしいのかな。




