第二部 第七章 4 ーー 鍵を開いて ーー
百三十話目。
助けてほしい。
それだけ。
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まさか、こうも早くこの大剣を使うとは思ってもいなかった。
陽光が差し込む洞窟の空間。
泉の手前では、未だキョウが寝そべっている。
まだ回復しておらず、先ほどよりもやはり顔色は悪く、息が荒れている。
すぐさまエリカはキョウに寄り添った。
大丈夫、きっと大丈夫。
右手に大剣を握りながら、強く言い聞かせ、泉に足を入れる。
くるぶしより少し上ぐらいの浅い泉。
思いのほか冷たくはなかった。
泉の中央より手前にその窪みはあった。
大剣の刃と同じ大きさの穴が。
一度振り返り、エリカに合図を送ると、エリカは小さく頷いた。
うん、と頷き返し、窪みと向かい直す。
大剣を逆手に握り直し、
「……行くよ」
窪みに大剣を突き刺した。
ーーーー
穏やかだった水面に次第に波が生まれていく。
さざ波が大剣から発せられていくなか、大剣から光が放たれていく。
小さな光が大剣の柄から強まり包んでいく。
それは次第に広がり、私の体を包むと、光は空間全体を包んでいった。
真っ白な空間に視界が浸食されていくと、目蓋を閉じた。
どこか懐かしくもある感触。
体が浮かぶような安心感。
この前はこんな穏やかな気持ちでいられただろうか、と問いかけたとき、目蓋を開いた。
胸が熱くなっていた。
心が興奮していく。
それまで空間は青々とした草が生えていたところに、真っ白な花が咲き誇っていた。
これまで一輪も咲いていなかったところに。
上手くいった、と信じたかった。
すぐさま振り返り、エリカの様子を伺った。
すると、怯えた目でかぶりを振る。
ダメだった?
絶望が背中に触れそうななか、エリカのそばに駆け寄った。
息が詰まってしまう。
エリカの膝に抱えられているキョウに、変化はない。
依然として青ざめていて意識がない。
「ねぇ、ダメだったの?」
エリカの震える声が胸を詰まらせる。
なんで? と誰に問うわけでもなく、辺りを見渡した。
さっきまでなかった白い花が咲き誇っている。
綺麗な花びらが憎らしくもある。
ふざけないで、と文句が出そうになると、言葉に詰まった。
大剣が刺されたままの、泉の中央付近に、一人の女性の姿が背中を向けて立っていた。
どこかで見たことのある背中。
長い黒髪がなびいている。
その人は、私の状況を一変させた人物かもしれない。
あのとき現れたから、変わってしまったのかもしれない。
憎らしい人物なのに、心が晴れていく。
どこか懐かしさに苛まれてしまって。
名前なんて知らなかった。
それなのに、今ならわかる気がしてしまう。
「ーーあなたがアイナ?」
私が問いかけると、少女は振り返った。
赤いドレスを着た少女。やはりあのときの少女。
「あなたがアイナなの?」
もう一度尋ねると、少女は儚く眉を下げて笑った。
なぜかアイナの頷きを見ると疑問が消え去り、胸が熱くなる。
アイナはゆっくりと辺りを見渡し、陽光の入る空を見上げた。
陽光に照らされた姿は、女の私からしても妖艶に見え、息を呑む。
ゆっくりとアイナは視線を落とし、こちらを見据えた。
「あなたたちは、鍵を開いて何を求めるの?」
透き通る声が身に染み込んできた。
私たちに問いかけてるの?
この場には私らしかおらず、疑うことはないのだけれど、幻に思えるアイナの声に戸惑ってしまう。
あなたは幻でしょ、と抗う気にはなれない。
「キョウを助けてっ」
答えるべきか躊躇している間にエリカが答えた。
キョウを助けたいきもちからか、声が上擦っている。
「本当にそれだけ?」
エリカの返事にアイナがこちらを見る。
それだけ……?
確かに今はそうだと言える。けれど、念を押されると揺らいでしまう。
アンクルスはどうなの、と責められているみたいで。
「お願い、助けてっ」
静寂した空間に、エリカの懇願が響いたとき、私の迷いは消えた。
そう、今はそれだけ。
「……そうよ」
力強く頷くと、アイナは目を細める。
ただ表情はどこか儚げで、寂しさを漂わせている。
壊れそうな脆さに、「どうしたの?」と問いかけようとしたとき、アイナはおもむろにこちらに歩を進める。
ゆっくりと落ち着いた立ち振る舞いで近づいてくると、キョウのそばでしゃがみ込み、キョウの頬にそっと手を添えた。
しばらくキョウの顔を眺めた後、すっと顔を近づける。
キスでもすりつもり?
と場違いなことを考えていると、アイナの口元がキョウの耳辺りに近づく。
「……ーーく」
何かをキョウに伝えたのはわかったけれど、聞き取ることはできない。
何を言ったのか疑念に感じていると、アイナはおもむろに立ち上がり、泉の中央へと戻っていく。
またどこかに行くんだ、と奇妙な勘が働いていたとき、大剣の前で止まった。
振り返るとまだ横たわっているキョウを眺め、
「彼は悩んでいるのかもしれない」
「ーーえっ?」
「でも、その悩みは晴れるわ」
屈託ない笑みを浮かべるアイナ。
どういうこと?
と問う間もなく、アイナの体は淡い光に包まれていく。光がアイナの全身を包み込むと、砂が散るようにしてアイナの体は消えていった。
アイナ……。




