第二部 第五章 3 ーー タカクマの話 ーー
百十四話目。
なんだろ?
見えないところで、嫌なことが進んでいる気がする。
3
もう話を聞いていられなかった。
俺の憤慨は虚しく散ってしまう。
いたたまれなくなり、その場を去った。
「隊長、どうなさいます?」
「わからんっ」
「ーーっ、失礼」
廊下を歩きながら問うハッカイに、つい強く当たり、壁を殴ってしまう。
ふと足が止まり、萎縮するハッカイを捉え、頭を抱えた。
「……すまない。少し動揺してしまった」
「いえ。当然のことです。今は我々にできることを進めておきましょう」
かぶりを振るハッカイに、高ぶっていた気持ちが鎮まっていく。
落ち着け。
今は焦る方が負けだ。
深く息を吐き捨てるなか、自分自身を宥めて叱咤した。
「ーー隊長っ」
そんなときである。
廊下をけたたましく駆け、甲高い声を響かせてアオバが寄ってきた。
肩を揺らして息を荒げる様子からして、緊急を要する事態であるのは直感させられる。
顔を上げたアオバの表情は、やはりどこか青ざめていた。
「助かった者がいる?」
「えぇ。それでローズ様が不在と知ると、隊長に伝えたいことがあるようです」
「ーー俺にか?」
きっと問題は山積みではあるが、ハッカイに任せて医療室へと向かった。
医療室の扉を叩き、部屋に入ると、ベッドと棚があるだけの簡素な部屋に、一人の男がいた。
「君かい。俺に話があるっていうのは?」
男は若かった。
俺と大した差はなく、顔を合わすとすぐに頭を下げる。
規則正しい人物だと理解した。
きっと温厚な人物でもあるだろう。
「君は確か、タカクマ、だったかな?」
「はい。そうです」
タカクマと名乗る兵士は、脇腹を負傷しているのか、上半身は裸で包帯を巻いていた。
「それで、俺に話したいってことは? 確か君はタレスのある地区を偵察していたんじゃ?」
彼はローズの部隊の兵であり、詳しいことは聞いていなかったので、その程度しか把握していなかった。
タカクマは思い詰めた様子で、唇を噛んだ。
「実は、タレスはテンペストに襲われました」
テンペスト……。
隊が目的を実行するに当たり、ある意味最大の障壁であるだろう。
こればかりは人の手で抑え込むことは不可能に等しい。
壁に凭れ、為す術なく唸るしかない。
「あぁ。それは情報は伝わっている。よく君は助かったな。ほかの仲間はどうした?」
そこでタカクマは顔を伏せた。
そして力なくかぶりを振った。
「実は我々は運よく街を離れました。そのときテンペストを知り、仲間だった二人はタレスに戻り、そこではぐれてしまいました。それからは会っていません」
「……そうか。それは災難だったな」
仲間を失ったか。
それならば、心も参って当然、と言葉を失う。
「仲間を失ったのは残念だ。君もしっかりと体を休めーー」
「いえ。それを伝えたいわけではないのです」
壁から背を離そうとすると、タカクマは止め、真剣な眼差しを向けてきた。
どこか鬼気迫る表情は不安を煽られ、眉をひそめた。
「何かあったのか?」
問いかけにタカクマは黙ったまま頷く。
「それで、私はあることがありまして、幻高森のそばを走っていたのです」
「ーーあること?」
「ーーで、そのときに変な幻を見たんです」
「ーー幻?」
はい、と頷くタカクマ。
なぜ幻高森のそばにいたのかは別とし、思い詰めるタカクマに首を傾げてしまう。
「まず、幻高森のそばに報告されていない忘街傷を発見しました。私は奇妙に思えたとき、表れたのは兵士の姿でした」
「ーー兵士? しかし、あの辺りに派遣された兵士はいないはずじゃーー」
「いえ。それが少し違ったんです。それらの兵士はどこか争いをしている様子でした」
「争い?」
「そうです。みな馬に乗り、剣を抜いていました。そして、鬼気迫る様子で襲いかかってきたんです」
「襲ってきた? いや、まさか。大体、幻高森に兵は派遣されていないし、そもそも、なぜ仲間である君を襲わなければいけない?」
「ーーえぇ。だから、幻だったんです」
どうも、話が噛み合わない。
タカクマの話に疑念が強まってしまい、額を押さえた。
「咄嗟に馬を走らせました。でも、迫っていた兵士は追いかけてきて…… そして追い越して行ったんです。そうしたら、兵士に対峙した方向から、奇妙な影が現れたんです。
兵士と影に挟まれ、逃げる場所を失ったとき、兵士と影がまるで争いをしているようでした」
誰がそんなことを信じられる?
兵士と影が争う?
壁に凭れ、腕を組みながら首を傾げてしまう。
動揺を隠し、平静を装うのだけれど、気持ちは落ち着いてくれない。
ーーふざけるな。
と叫び否定をすれば楽なのに、タカクマの疑いのない態度がより心を惑わせた。
「……戦っていたんです。兵士は確実に影と。そして次々に……」
そこでタカクマは口を閉ざし、顔を背けた。その先に何を言おうとしていたのかは、タカクマの様子からして察することはできる。
だが、それはただの幻では?
「幻高森には、疑わしい噂もある。もしかすれば、そらと関わりがあったり、テンペストが関わっていたりするんじゃないのか?」
核心を突くことを避け、濁しておいた。
どうもタカクマにしてみれば、深刻に受け取っているようで、頭を抱えている。
もしかすれば、幻は精神的にダメージを受けているみたいだ。
それでも、やはり疑念が一つ残っている。
それをここで問うべきかどうか……。
同じ悩みであるならば、もっと楽なことで悩みたかったものだ。
夕飯は肉にするか、魚にするか、と。
そんな楽な選択肢は現れてくれず、息を吐いてしまう。
「安心するといい。きっとそれは幻高森の影響を受けた幻だろう、やはり。だが、俺には一つ、解せないことがある」
そこで人差し指を立て強調すると、タカクマは顔を上げる。
「兵士たちが幻であるならば、君のその傷はどう負ったのだ?」
「ーーそれは……」
転んで受けた、という酔狂な話を鵜呑みにするほどバカではない。
腰の傷は誰かに襲われなければない傷。
そして、それを隠そうとする姿勢は看過できない。
実際、タカクマはうつむき、口を閉ざしている。
何かを隠しているのは明確である。
はたして、幻のことを話すべきだったのか、それとも隠していることを本来は伝えようとしていたのか……。
追求するべきか悩んでいたときである。
医療室の扉を叩かれたのは。
返事をすると、一人の兵士が扉を開けた。
「アカギ隊長、今よろしいですか?」
何かが起きたのか、俺を呼びに来たらしい。
「アオバさんのところへお願いします」
「あぁ。わかっーー いや、後で行くとアオバに言っておいてくれ」
タカクマとの話を切り上げ、医療室を出ようとしたが、呼びに来た兵を制し、体を止めた。
はい、と兵は医療室を後にした。
扉が閉められると、不意に頭を掻いてしまう。
部屋を振り返り、タカクマの表情を前にして。
それまで感情を押し殺すように、起伏がなかったタカクマが硬直している。
扉をじっと眺め、目を見開いて。
「何があったんだい?」
どこか怯えるタカクマを刺激しないよう抑揚を抑え聞いた。
それでもしばらく固まっていた。
何度も呼び続けて、ようやくタカクマは瞬きをする余裕が戻った。
まるで悪魔でも見たみたいに怯え、どこか滑稽に思えてしまい、状況とは裏腹に頬が緩んでしまう。
「タカクマ?」
それでもすぐにまた固まるので、強く呼ぶと、ようやく顔を向けた。
「ーー何かあったのか?」
「あ、はい」
と、息を止めていたように空気を吸い込んだ。
「……さっき言いましたよね。兵士の姿を見たって。そして、兵士は何人も殺されていたんです……」
語られたのは幻の続き。
やはりな、と口元を手で隠した。
納得するなかでタカクマの声が詰まる。
不審さに顔を伺うと、タカクマは扉の方をじっと眺めている。
またしても怯えた眼差しで。
意識を落ち着かせるように、一度大きく息を呑み、
「その兵士のなかにいたんです」
「いた? 誰が?」
「今、隊長を呼びに来た兵士が……」
震える手をゆっくり上げ、扉を指した。
指先に岩でも持っているように。
「幻のなかで、今の兵士が殺されるのを見たんです」
だが、今の兵士は……。
そうだな。
こればっかりは、どうにもできないからな。




