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忘却のテンペスト  作者: ひろゆき


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 第二部  第四章  9 ーー 地図にない ーー

 百六話目。

   こいつ、どうする? 

     捨てる?

            7



 正直なところ、馬車を操るのは初めて。

 荷台の前に座り、手綱を掴むけれども、緊張でより肩に力が入ってしまう。

 なんとか緊張は馬には伝わらず、大人しく走ってくれている。

 慣れないなかでも、慎重に穏やかに走らせるのを心がけよう。

 テンペストに襲われたタレスから離れたせいだろうか。雨はいつしか止んでいる。

 それでも空の機嫌はまだ悪く、薄暗い雲が佇んでいる。

 近くにある町を求め、馬車をはしらせていると、三十分が経っていた。


「……ウッ……」


 後ろの荷台では、重い空気が漂うなか、唸り声が聞こえた。


「目が覚めた?」


 背中でリナの安堵した声が弾けた。

 荷台の中心ではタカクマが寝そべっている。

 あの騒動の後、リナとエリカによって応急処置をしていたのだが、途中で意識を失っていた。

 結局、僕は情けないままで、すっと動くことはできなかった。

 治療のほとんどを女の子二人で任せっきりになっていた。

 本当に情けない。

 そして、近く町へ急いでいた。

 馬を止め、振り返った。

 寝そべっていたタカクマは微かに首を動かし、両脇に座っていたリナとエリカを見た後、


「……本当にバカだな」


 宙に舞った言葉が風に散っていく。

 自然と僕ら三人は笑みがこぼれた。


「……どこへ行く気だ?」

「とりあえずベネトの街に行くつもり。あそこにはこっちの地方では大きな街みたいだしな」

「ベネトか。なら気をつけるんだな。あそこなら、仲間がよく立ち寄っている可能性もある。でかい街だから情報収集にな」

「それは覚悟の上よ」

「見つかりそうなら、病院に捨てる」

「捨てるって…… おいおい」

 エリカの断言にタカクマは鼻で笑う。

 いや、こいつの場合、冗談ではなく本気だぞ。


「それに、あそこに行くには幻高森のそばを通るからな。それにも気をつけないと」

「幻高森? 何それ?」


 初めて聞く名であった。


「……僕らもよくわからないんだ、それは。やけに背の高い木が茂った場所で、近くで見上げれば、空を隠れるほど木が高いんだ」


 どれほどの木なのか想像がつかないでいると、タカクマは一度深く息を吐いた。

 まだ喋るのも辛いらしい。


「わかった。もう休んでーー」


 馬を走らせようとすると、タカクマは手を上げ、


「ベネトのなかでは、その森がテンペストを生んでいるって怯えている人もいるらしい」

「テンペストって、嘘だろ」

「ただの迷信だ。木が高くて空が見難いのと、その辺りは天気が崩れやすいから、そんな噂が出ただけだ」


 噂であっても、聞き直すことはできず、顎を擦ってしまった。

 でもだからって、逃げるわけにもいかない。今はテンペストを恐れて遠回りできるほどの余裕はないし。

 ちょっと…… 好奇心もあった。

 幻高森、どんなものなのかが。

 わかった、と頷き、再び馬を走らせた。




 一旦天気は回復したと思えたのだけれど、しばらく馬を走らせていると、また機嫌が悪くなったらしい。

 今度は小雨も降り出していた。


「また、降ってきたわね。ったく、早く街に着くといいんだけど」


 そう文句を言わないでくれ。これでも慣れない手綱を操って精一杯なんだから。

 背中に受けるリナのぼやきにうなだれそうになる。

 すると、ゴソゴソと荷台で音がし、一瞬振り返ると、タカクマが体を起こそうとしていた。


「ちょっ、無理しないでよ」


 タカクマの体を支えるリナ。

 肩肘を突いて辺りを見渡していた。


「天気が崩れてきたのは、街が近いってことだろう。それに、ほらあれ」


 と、小さく右側を指し、みんながそれを見ると、またゆっくりと寝そべった。

 指された先を見ると、黒い塊が右の先に佇んでいた。

 深い緑色の塊が空に昇るように座っている。


「あれが幻高森だ」


 横になったタカクマが空を眺めて呟く。


「……なんか変な感じがする」

「変な感じって?」

「……やっぱりテンペストみたいな」


 幻高森らしき塊を眺め、エリカが不安を積もらせていく。

 確かに気のせいか、天候もより悪くなっていた。

 なんだろう。森自体が不安の渦に招いているように見えてしまう。

 できるだけこの場から離れなければ、と胸が騒ぐように。


「……あれ、何?」


 できるだけ目を背けていたとき、リナが幻高森の方を指差し、身を乗り出す。


「……嘘。あれってもしかして忘街傷?」


 リナの指摘に眉をひそめた。

 そんな情報は聞いたことがない。

 元々、地図に忘街傷に記されていないことが多い。だからこそ、気にも留めなかったのだが……。


「……忘街傷?」


 寝そべっていたタカクマが身を起こし、リナが指差す方向を訝しげに眺めた。


「……そんな、いや、こんな情報は…… 悪い。少し近づいてくれないか」


 タカクマは声を曇らせる。

 やはりおかしいらしい。

 触れてはいけない物に触れてしまいそうで、手綱を持つ手が震えそうになる。

 まだ恐怖心があり、手綱を持つ手が震えそうである。


「……大丈夫なのか?」

「多分、大丈夫でしょ」


 体の動きに反して弱気が口を突いてしまうが、リナは背中を押す。

 ただ、気になるのはエリカ。

 奇妙な忘街傷を見つけてから口を閉ざしている。

 振り向くと、エリカは幻高森をじっと睨んでいる。

 エリカを不審に感じながら、馬車を近づけた。

 情けないけれど、忘街傷に乗り込むほどの勇気は僕にはなかった。

 リナも急かさないのは、僕と気持ちは同じと信じたかった。

 これまで何度か忘街傷に遭遇している。

 だから驚きは少なかった。これまでと似た光景が広がっていたから。

 石柱の間から誰か人影が出てくる方がまだ恐怖を和らげていたかもしれない。

 けれど、情報のない忘街傷となると、余計に恐怖を漂わす存在となっていた。

 もう少し自分が動じない者ならば、と嫌気が差してはしまう。

 手綱を握った手が震えそうになる。

 今すぐ逃げ出そうとして。


「……まさか、こんなところに忘街傷があるとは…… 急に現れたか? いや、それはないか……」


 タカクマにしても信じがたい場所らしく、体の痛みに耐えながら、辺りを睨んでいた。


「この幻高森と何か関係でも?」

「さぁ。この森はどこか神聖化されるところがあるから、誰もーー」

「ーー逃げてっ」


 刹那、急にエリカが叫喚する。


「ーーっ」

「キョウッ、早くっ」


 急かされるように、手綱を引いた。

 


 逃げた。

 僕らはここから懸命に逃げた。

 そんな物騒なこと言うな。

    今はそれどころじゃないんだし。

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