第二部 第四章 6 ーー 遠雷 ーー
百三話目。
何かが……。
5
雲行きが怪しくなっていくのを、肌で受けていた。
ポツリ、ポツリと小雨が降り出しており、風とともに頬に触れ体温を容赦なく奪い、力が抜けていく。
エリカではないが、曇天が裾を広げていくのを眺めていると、恐怖すら抱いてしまう。
せめて雨だけは回避したいものだけど、今はそのようなことも口にできない。
僕らは捕まった。
恐らく抵抗すれば、上手く逃げられたかもしれない。
でも住民を楯にされてしまい、男らに素直に従うことにした。
手と足は縄で縛られ、自由を奪われたまま、僕らは荷車に乗せられていた。
屋根のない粗雑な荷車。どこかに護送するのであれば、もう少し上等な荷車を用意してほしかった。
薄い板の壁に凭れ、馬の走りで荷車が激しく弾む。
きっと荒れた大地を走っているのだろう。
もっと丁寧に馬を走らせろ、と馬車を操る男の背中に罵倒したい。
どこかへ向かうならば、それも悪くなかった。
まぁ、天気は悪いけれど。
とりあえず行く末を運に任せて視線を動かすと、隣にはエリカ。
向かいにはリナが大人しく座っていた。
当然ではあるが、リナの二本のナイフは奪われ、馬車を操る男が持っている。
二人も手足を縛られ大人しくしている。それでもふとリナと目が合ったとき、男らに気づかれないように両手を胸元まで上げた。
そこで小さく手首を当てて、何かを訴えてくる。
頬を引き攣らせ、視線を忙しなく泳がせて。
男らを警戒しているのだ。
馬車を挟む形で、二人の男が馬に乗って並走していたから。
僕は小さくかぶりを振る。
今はまだ違う、と。
おそらくリナにしてみれば、手首を縛る縄を簡単に引き千切れると訴えていた。
しかし、今はまだ様子を伺うべきだ、と。
呆れ顔を浮かべるリナ。
でも、僕は揺るがなかった。そこでリナは渋々手首を下ろした。
「ねぇ、私たちをどこへ連れて行く気?」
手持ち草になったリナは、唐突に男に尋ねた。
男らは答えることはせず、リナは「ふんっ」と男の背中に舌を出した。
憤慨するリナの姿はどこか滑稽で、つい頬が綻んでいると、
「何か、危ない」
ふとエリカは呟き、遠くの空を眺めた。
「あれ…… テンペスト」
彷徨っていた視線が一点に定まったとき、エリカは小さく呟き、
「ーーダメッ」
急に叫喚し、荷台から身を乗り出して遠くを眺めた。
「ちょっ、エリカ危ないっ」
両手が塞がり、自由が利かないなか、無茶をするエリカ。慌てて腕を掴むけれど、構わずエリカは身を乗り出す。
「何やってんだ、お前らっ」
騒ぎに気づいた男の一人が叫び、馬を操る男も馬を止めた。
「あそこ、テンペストが……」
男の制止を気にせず言うエリカ。
周りを気にしないエリカにつられ、真剣に眺める方向に顔を移した。
「……なんなんだよ、あれ?」
並走していた一人が声を振るわせた。
広大な大地に、黒い太い柱が姿を現していた。
どこから現れたのか、黒い柱は天に登り、黒雲うごめく空に吸い込まれていた。
時折、雷だろうか、黒い柱を駆け上るように、稲光が昇っていく。
風はなく、静かなはずだった。
だが、稲光が走る柱を眺めていると、狡猾な獣が大きく咆哮しているように見え、背筋が凍りそうになる。
「……あそこってーー」
刹那、黒柱から発生しているのか、急に強風が大地を駆ける。
獣の威嚇みたいな強風に、急に馬が暴れ出し、男たちは慌てて手綱を引いて落ち着かせる。
馬も黒柱に怯えているのか……。
「あそこって、確か……」
「……タレスよね」
怯えた声が、黒柱が現れた場所を特定させる。
目を剥いた。
まだ信じられない。
少し前まで、自分たちがいた場所が得体の知れない物体に支配されていることに。
「……何が起きたんだ?」
「テンペストが襲った」
事態を把握できない男が呟くと、荷台で立ち上がったエリカがしっかりとした声で断言した。
厳しい表情で黒柱を睨んで。
「テンペスト? ふざけるな、そんなことが急に」
「いいえ。あれはテンペスト」
動揺して反抗する男に、エリカは強調する。揺るがない態度に男から血の気が引いていく。
急に……? いや、待て……。
急じゃない。前触れはあったかもしれない。
タレスに近づいていたとき、エリカは言っていた。奇妙な感覚があると。
それは新しい町に来ての緊張からではなく、やはりテンペストを肌で感じていたからなんだ。
「あなたの勘、本当だったのね」
エリカの横顔を眺め、感心するリナ。それでも驚愕から顔は青ざめている。
「そんなこと、信じられるかっ。あれはただの嵐だっ」
馬に乗っていた男が恐怖を掻き消すように一蹴する。
空気を切り裂く声に、胸が締めつけられる。
信じたくない気持ちはわかる。だがーー
「おい、行くぞっ。何があったか確かめるんだ」
男はもう一人の馬に乗った男に命じる。
戸惑いから、呆然としていた男はハッとして、短く返事をする。
まだ落ち着かない馬を操り、二人はタレスに体の正面を向ける。
「おい、よせっ。今はそれどころじゃないっ」
すぐにでも馬を走らせようとする男らを、馬車を引いていた男が引き留める。
「何を言っているっ。この辺りはいずれ、俺たちの領土になるんだぞ」
「そうだ。それにいくら森が近いからって、テンペストがそう起きるなんて信じられるかっ。確かめてくるっ」
だが、男らは制止を振り切り、馬を走らせてしまった。
「……バカヤロウ……」
荷台から降り、遠離っていく馬の姿を目で追いながら、男の憤慨が虚しく響いた。
本当にバカだよ……。
「……今みたいね」
何かが……。
嫌な予感しかないよな、やっぱ。




