2章-4
日が落ちて明かりの少ない町が一層暗くなった頃、突然家の窓が叩かれた。
何事かと瞳だけ音の方に向けると、そこには昼に見たのと同じ黒い服を着た少女が立っている。
瞳が合うと苦笑して、指だけで玄関を指した。
これは、俺がまだこの町に住んでいたとき、彼女がよく使っていたサインだ。
『外に出てきて』
そんなメッセージが込められている。
俺は言われるままに玄関に向かった。
扉を開けると、その前に彼女は立っている。
肩までだった青色の髪は少し伸びて、どことなく女らしさが上がっている。
小さく細められた瞳は、俺の姿を頭の天辺からつま先までジッと見つめた。
やあ、と昔と変わらないあいさつで彼女が笑う。
それでも、その笑顔はどこかやっぱりぎこちない。
「久しぶりだね、エリオ君」
言われた言葉に軽く頷く。同
じように笑顔を作っているつもりだけど、きっと俺も彼女と同じくらい……いや、それ以上にぎこちないかもしれない。
「ああ、久しぶりだな。ユイナ」
ユイナはまた少しだけ瞳を細めて俺の隣に並ぶ。
背、伸びたねなんて他愛もないことを呟きながらも、その瞳はもう俺を映してはいない。
ジッと彼女が見つめるのは、誰もいなくなった自分の家だった。
正確には、彼女の父親が寝ていた場所を見つめているのだろう。
彼女の瞳はどこか痛々しい気がして、俺は直視出来ずに視線を逸らした。
でも、その視線に映った彼女の手が、きつく握られ震えていることに気が付く。
それが、悲しみのせいで震えているのか、強く握りすぎて震えているのか分からない。
ただ、やっぱり気丈に振舞おうとしている彼女は逆にどこもかしこも痛々しい。
「おじさん、亡くなったんだな」
俺の言葉にピクリとユイナの肩が揺れる。
うん、と返ってきた言葉は弱々しい。
「……なにもかも、全部なくなっちゃった」
その言葉がなにを指しているのかは聞かなくても分かった。
この町の風習には、町のみんなで死者の魂が安らかに眠れるように祈る代わりに、死者が生前使っていた物を貰っていくというものがある。
一応、死者の物を生者が使うことでその人の魂の一部はこの町に留まるとか、そんな名目だった気がする。
でも、正直なところそんなのただのこじつけだ。
結局のところタスケアイの精神と同じ。
死んだ人が使わないであろう物をみんなで頂こうという魂胆なのだ。
こんなの死者を労わるどころか愚弄してるんじゃないだろうかと幼いころはいつも思っていたけど、それが風習だと言われてしまえば逆らえもしない。
彼女も、そうだったんだろう。
きっと生前おじさんが使っていた物は根こそぎ持って行かれてしまったのだ。
遺品らしい遺品も残りはしない。
死体も、物も、全部なくなってしまったのだ。
「ユイ……」
「でもね、いいんだ」
俺の言葉を遮ってユイナはそう呟く。
声は相変わらず弱々しい。
「お父さんいつも言ってたの。どれだけ苦しくても、辛くても人に親切にしてあげなさいって。そうすればいつか、その親切は巡りに巡って、本当に大変なときユイナを守ってくれるからって。だから、いいの」
たとえ、物がなくなっても、なにも残らなくても、それでもいいんだと。
そう繰り返される言葉はまるで自分に言い聞かせる様で、小刻みに揺れる小さな肩が痛々しかった。
「エリオ君はさ」
突然、自分の名前が上がる。
瞳を向ければ、彼女が困ったように笑った。
「お父さんの魂を狩りに来たんでしょ?」
静かな声が、音の消えた静寂の中に響く。
「死神になったんだよね。おばさんへの支給が今年に入ってからも続いてたしエリオ君帰って来なかったから受かったんだってみんな言ってたから知ってるんだ。お仕事なのは分かってる。無理言ってる自覚もあるんだけどね」
微笑んだ彼女の頬に、そっと光る滴が落ちた。
ずっと気丈に振舞おうとしていた彼女の瞳からついに涙が零れ落ちる。
一つ、二つと、頬を伝って地面に飲み込まれた。
ズキン、と胸が大きな痛みを放った。無意識に、拳を握りしめていた。
「一晩でいいの。お父さんの魂と一緒に居させてもらえないかな」
無理に作った笑顔はもう笑顔と呼ぶにはちぐはぐだ。それでも、彼女はその表情を崩そうとはしない。
「もうなにも残ってないから。魂しか残ってないから。一晩だけでいいから、しっかりお父さんとお別れしたいの」
なんて言うべきなんだろうか。
考えて、一度だけ瞳を閉じる。
いろいろなことに思考を走らせて、それでも出たのは簡単な言葉だった。
「俺は、ここの担当じゃないよ」
そもそも、死神は自分と縁のある地には配属されない。
万が一身内や親しい人が魂になってしまった時、ためらってしまう可能性があるからだ。
「だから、俺はユイナのおじさんの魂を狩ったりしないよ」
今度こそ、ユイナの瞳から止めどなく涙がこぼれた。
ありがとう、と小さな声がお礼を言って、自分の家へと戻っていく。
扉に入るまで見送ろうかと立っていると、不意に彼女が足を止めた。
「エリオ君も魂見えるんだよね」
彼女の指が、今度は自分の家の扉を指す。
「エリオ君も来る?今日、家に入れなかったから」
一瞬浮かんだ罵声に身構えるが、その言葉たちを頭を振って追い払った。
ああ、と小さくそう呟いて、最後のあいさつにと部屋の中に入る。
電気もついていない部屋は冷たくて、部屋いっぱいに寂しさがしみ込んでいるかの様に思えた。
タンスの引き出しは残らず引っ掻き回されたのか全部空いていて、自分の記憶より家具も少ない気がする。
……葬式後っていうよりも強盗に入られた後みたいだ。
言葉には出さなかったけど、そう思わずにはいられない。
それ程までに、彼女の家からは物が消えていた。
彼女の後をついていきながら辺りに視線を走らせていると、不意に部屋の温度が低くなっているのに気が付く。
反射で足を止めると、案の定彼女も足を止めていた。
部屋の一番端。
なにもないその場所に、黒い影が静かに佇んでいる。
授業で何度も見た。
魂。死者の体から抜け落ち、現世に佇む存在。
「お父さん、エリオ君だよ」
紹介されて、慌てて頭を下げた。
それでも、もちろん俺はここにいる魂がもう抜け殻でしかないことは知っている。
魂は記憶や意志を持たない。
ただそこに佇み、死神に狩られるのを待つ存在だ。
だから、ここにいるのはおじさんであっておじさんじゃない。
それでも、わざわざそんなことを言う必要も感じなくて俺は敢えてなにも言わなかった。
電気もついていない部屋で、彼女はそっと魂の前に腰かけた。
俺も彼女に腕を引かれてその隣に座る。
目の前に狩るべき対象の魂があるのは変な感じだ。
一瞬、この前見た暴走化した魂の狩りの光景が浮かんだけど、そうなるのは二週間後だと自分に言い聞かせた。
足もとから這い上がってきた恐怖を何とか押しのける。
不意に、肩に熱と重みを感じた。
視線だけそっちに向けると、ユイナの頭が乗っている。
じっと見つめた瞳は魂だけを映しているようで、ぼんやりとした瞳で、彼女は俺も見ないまま呟いた。
「死神さんは、いつ頃お父さんの魂を狩っちゃうんだろう。まだ、ここにお父さんはいるのに」
俺は僅かに瞳を眇める。
回収魂リストは既に出来ているだろう。
遅くても明日中には担当の死神が狩りにくるはずだ。
どこか憔悴しているユイナになんて言葉をかけていいのかも分からないまま、ただ隣に座ったまま魂を見つめる。
ユイナがお父さんと呼ぼうとも、あれはもうただの抜け殻だ。感情すら持ち合わせてはいない。
「あのな、ユイナ」
何を言うべきか迷いながら、それでも静かに言葉を紡ぐ。
「どうして死神は魂を狩るんだと思う?」
唐突な質問にユイナは魂に向けていた視線をそっと俺に向けた。
ぶつかった視線は回答を求めていて、俺は小さく眉を下げる。
「現世に取り残された魂を輪廻の輪の中に乗せてあげるためなんだ」
アリシアに教えてもらった座学を思い出す。
何故か、三人で席を並べて勉強していた時が随分と昔のことの様な気がした。
「死神に狩られた魂は真っ白になって、新しい生を受けることが出来る。そうすることで本当の意味で人の魂は受け継がれていくんだ。消えるんじゃなくて、次に繋がっていく。死神の仕事は、その橋渡しをすることなんだ」
死者の魂を自らの手で葬って、その人の次の生が良いものであることを願って輪廻の輪に乗せる。空っぽになってしまった魂を真っ白にして、新しい人生を歩ませる。
「……おじさんは良い人だったから、きっと次の生は幸せになれるよ」
本当は、良い人が良い生を受けるなんて規則は存在しない。
それでも、少なくとも俺はそうあって欲しいといつも願っている。
気休めの様な言葉だったけど、どうして優しくしてもらえるのか俺にも分からなかったけど、それでも、おじさんたちの行為が俺たち親子を救っていたのは事実だった。
あの状況で誰かを救えたおじさんが、また幸せになって欲しいと願うのはきっと当然のことだと思う。
床に置いていた手のひらに熱が重なる。
そっと握られた指に込められた力は控えめだったけど、触れた場所は熱いくらいの温度を放っていた気がした。
「そうかな」
閉じられた瞳から音もなく涙が落ちる。
「……そうだといいな」
ユイナの呟きは、そのまま静寂の中に飲み込まれていく。
俺たちはそれから一言も喋らないまま暗い部屋の中でお互いの温度だけを感じ続けた。
音もない静寂の中、ただ、壁に佇む黒い塊だけが、そっと揺れた。
*
ぼんやりと歩いた道には橙の光が溢れていた。
眩しい朝焼けにそっと瞳を細めて、手のひらを翳して光を遮る。
休暇が明けるのは明日だし急ぐ必要もなかったけど、朝早く帰ることに決めた。
ユイナは夜が明ける前には眠ったようで、きっと今も変わらず眠っているだろう。
寮に戻って前日の睡眠不足を取り戻すかの様に瞳を閉じた。
昨日は結局眠れなくて、朝を待って家を出たのだ。
なんとなく張り付いた彼女の顔が離れなくて、強引に眠ってしまうことにする。
瞳を閉じて、闇の中に自分の体を沈めていく感覚。
いつも、寝れないときはこうして無理に眠ったものだ。
静かな部屋で意識を沈める。
数分と待たずに、俺はいつの間にか深い眠りについていた。




