序章
辺りはシンと静まり返っていて、小さな物音一つしなかった。
自分の呼吸音すら相手に聞こえそうで、できる限り呼吸を抑える。
上がりきった心音は直接鼓膜を揺らすようで、変に体に力が入った。
大きな岩の陰に隠れたままその瞬間を待つ。
相手も動かないのは、きっと同じ様にタイミングを計っているのだろう。
ジワジワと照りつけてくる太陽が容赦なく体力を奪っていく。
硬直したまま、もう結構な時間が経っていた。
きっと、勝敗を決めるのは一瞬。
握りしめた拳に力を込める。
意識を集中してその拳に炎を宿した。
ゴウ、と炎が燃えて、僅かに起こった風が前髪を揺らす。
流れた汗が地面に落ちて、土の中に消えていく。
先に動いたのは相手の方だった。
ジャリ、と土を踏む音。
このタイミングだ、と自分も岩から離れて飛び出した。
それと同時に轟音が響いて、自分がさっきまでいたはずの岩が崩れる。
地面に着地すると同時に大きく横に飛んで体勢を整える。
岩が吹き飛んだということは、相手がその場所にいるということだ。
次はこっちの番だと、振り返って動きが止まった。
そこにいるはずの人影が見当たらない。
「……え」
消えた? と思った時だった。
フッと自分の体に影が落ちる。
一瞬で暗くなった視界に驚いて顔を上げた時には遅かった。
空高く飛び上がった男は、まっすぐ自分に向かって落ちてくる。
不敵な光を含んだ翡翠の瞳が見えた。
それと同時に男が笑うのが分かる。
気が付いた時には目の前に男がいて、振り上げられた拳を避ける術はない。
後ろに跳ぶ余裕すら残されていなかった。
やられる…っ。
反射で、両腕で顔の前にガードを作る。
衝撃に備えて体に力を込めた。
「そこまで」
その声がすると同時に風を纏っていた男の拳が止まる。
拳はこちらに触れる直前で、声が掛かるのが後一秒でも遅かったら直撃を食らっていただろう。
男が拳を下げる。
脱力して地面に倒れこんだ俺に気が付いて、そっと手が差し伸べられた。
少し長めの赤毛の髪が風に揺れる。
目の前に立った男は翡翠の瞳を細めてどこまでも爽やかに笑った。
「また俺の勝ちだな、エリオ。昼はお前の奢りな」
差し出された手を握り返す。
「そんな約束してないだろ、アレックス」
お前に負ける度に奢ってたら破産する、と付け足せば、そうだっけ? とアレックスはイタズラに笑って俺の体を引き上げた。




