いじめられっ子中学生と入れ替わった社畜サラリーマンがいじめっ子たちに仕返ししたらこうなった。
冷たい液体が首筋にかかる。えりの隙間から背中のほうにまで流れていくのがわかる。牛乳の生臭いにおいが鼻について気分が悪い。
「お前、母子家庭だからロクにメシ食わせてもらえないんだろ? かわいそうだから俺の牛乳、恵んでやるよ」
「あ、それだったら俺も」
「俺もー」
白い液体がボタボタと流れていき、顎先までしたたり落ちる。
ちらり、と周囲を見渡すと、野次馬根性剥き出しでニヤニヤしながらこちらを見て写真を撮っている派手な女子グループ、自分に矛先が向かないよう怖がっているのか、教室の隅で見て見ぬふりを決め込むオタク軍団、「かわいそうだ」と小声で言いながらけっして自分では助けようとしない優等生たち──。いろいろな人間が目に入った。ああ、気持ちが悪い。中学生という若さながら、いや、若さがゆえだろうか。人はここまで残酷になれるのかと思うと、反吐が出そうだ。
「なあ、なんとか言ったら? いつもみたいにブルブル震えて『ごめんなさい』って言えよ」
「お前、自分が迷惑かけてるってわかってんの? ちゃんと自覚ある?」
「こいつまだ自覚してないんじゃないの。自分に存在価値ないってこと」
ドン、と肩を強く押されてバランスを崩し、尻餅をつく。
「なあ、さっさと消えろよ。お前の存在全部がうざいんだよ。迷惑なんだよ。今すぐにいなくなってくんね? このクズ!」
図体の大きな色黒の少年が、上から腹を蹴り飛ばしてきた。げほ、と思わず咳が出る。たしかバスケ部の都大会エースだとか言っていたっけ。中学生には見えないほどガタイがよく、小柄な自分とはずいぶん差があるようだ。
「……」
「……」
「……何黙ってんだよ」
「……」
苛立ちをはらんだ声色。
遠くのほうから耳に入るひそひそ声。
額にだらりとにじむ、牛乳の冷たさ。
ああ、もう、すべてが──。
「おい、なんとか言っ」
すべてが、気持ち悪い。
ドカッ!!
瞬間、目の前の椅子を、思い切り、蹴り飛ばす。
椅子の金属が床に反響し、思いのほか大きな音がした。
「……」
「……え?」
濡れた髪をかきあげて見上げると、いじめっ子軍団たちは、目を丸くして固まっている。
「あー、痛かった」
「……」
「……」
「あ?」
すっと立ち上がり、ポケットからハンカチを取り出す。濡れたブレザーを脱ぎ、バサリと一度はたいてから、水滴をふいた。
呆気にとられている彼らを横目に、口を開く。
「君、もうちょっと気をつけてやらないとマジで傷害罪になるとこだぞ。まあ俺は別に君が少年院に行こうが知ったこっちゃないが」
あまりに平然としているので、面食らったらしい。少年たちは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「ははっ、こいつ、頭おかしくなったんじゃねえの?」
「おい、てめえ何調子のってんだ?」
いつもどおりの反応がないことに苛ついたのか、リーダー格の色黒の少年はぐいっと胸ぐらをつかんできた。
「俺らに喧嘩売ったらどうなるかわかってるよな?」
「……」
「……おい、なんとか言えよ!」
「……」
気がつけば、クラスは昼休みだというのにシーンと静まり返っていた。クスクスと笑いながら様子を見ていた女子たちも、大人しくしていたオタクたちも、優等生グループも、みんないつもと空気が違うことに気がついたようだ。
「……お前、ふざけてんじゃ」
「そうだな、何か俺に言えるとすれば──よくできました、かな」
「は!?」
「何バカなこと言ってんだ、こいつ……」
さっと少年の手を首元から振り払う。
「だから、うまいこと白状してくれてサンキュー、って言ったんだよ」
雰囲気がざわりと変わる。え、どういうこと? 小声でひそひそと話している。教室に緊張感が漂う。ああ、つい笑みがこぼれてしまうな──。くくく、と喉の奥から声がこぼれてしまう。だめだ、我慢できない。いくら悪趣味と言われようと、俺はこういうやつらを徹底的につぶす瞬間が大好きなんだ。
ポケットに手を入れ、小さな機械をすっと取り出す。それを見た瞬間、やつらの顔がみるみるうちに青ざめていくのがわかった。
「そ、それって……」
「いやー、それにしてもいい台詞だったぜ。あんなの誰がどう聞いても『いじめ』だからな」
そう言いながら、カチッとレコーダーのボタンを押した。
〈なあ、さっさと消えろよ。お前の存在全部がうざいんだよ。迷惑なんだよ。今すぐにいなくなってくんね? このクズ!〉
「うんうん、よく録れてますねえ。誰がどう聞いても小宮くん、君の声だよなあ」
「お……お前……」
「こ、小宮、これってさすがにやばいんじゃ……」小宮と取り巻きの少年たちは、こぶしを強く握り締めて呆然としている。
「おや? 今度は君たちがブルブル震える番? いやー、おかしいなあ。この程度のことでびびるなんて、君たちそんな覚悟でいじめしてたの?」
空気が変わっていくのがわかる。固まっている小宮たちをすり抜け、ゆっくりと歩き、教壇の前に立つ。ここまで来ればもうあとはプレゼンするだけだ。キーン、コーン、とベルの音が聞こえる。昼休み終了の合図だ。ちょうどいい、最高のタイミングじゃないか。
「えー、緊急放送、緊急放送。私立霧ノ宮中学校のみなさーん」
ポケットに入れていたポータブルの小型拡声器を取り出し、マイクを口に当ててフロア中に聞こえるように叫んだ。
「大事なお知らせです。二年B組では、悪質ないじめが横行しています。まあみなさんも知らんぷりしているだけで、重々ご理解されているとは思いますが」
ざわざわした声が聞こえる。他のクラスから、徐々に人が集まってくる。
「いじめられたのは何を隠そうこの僕、小川優人です。嘘だという方はどうぞこの声をお聞きください」俺は拡声器にレコーダーを当て、そのままさきほどの録音した音声を流した。
「おっ、おいっ、やめろっ!!」
フロア中に大音量で流れる自分の声に耐えられなくなったのか、小宮が教壇まで殴りかかってきたが、ひらりと交わした。足をすべらせた小宮は教壇に頭を打ち付け、ゴン、という小気味いい音がする。
そうこうしている間に、どんどん人が集まってきた。固まっているクラスメイトたち。何あれ、やばくない? と覗き見る隣のクラスの女子生徒。
「おい、お前ら! 何やってるんだ!」バタバタと担任が走ってくる。これ以上にないナイスタイミングだ。嬉しくてつい口角が上がってしまう。
「小川! 勝手なことをするな! もう授業が始まる時間だぞ!」
「あれ? もう授業の時間でしたっけ?」
「とぼけるな! だいたい、いじめだなんて、いたずらにしても悪質だぞ! そのレコーダーと拡声器はなんだ。どうせ適当にでっちあげたんだろう? 没収させてもらうぞ」
担任の渡辺はそう言うなり俺が持っている機械を奪おうと手を伸ばしてきたが、ひょいとかわす。ここまできて食い下がれるか。
俺は拡声器のボリュームをマックスにして、叫んだ。
「とぼけてんのは渡辺先生、あなたのほうですよ。僕のほうからいくら訴えてもあんたが何も対策してくれないから、こうして実力行使に出たんじゃないですか」
「な、何を……」
「先生、デマだと言うならどうぞご覧ください。僕のこの髪! このシャツ! なんならにおいを嗅いでもいいですよ。これ何だと思います? そう! 牛乳です。牛乳をぶっかけられ、『お前は迷惑だ、消えろ』とまで言われた。腹も蹴られてブレザーには靴のあとが残っている。これでまだ『このクラスにいじめはない』とおっしゃるつもりで?」
「お、お前……いつからそんな……」
「いつからそんなやり返すようなやつになったのかと? 前の小川優人だったら大人しくて自分のキャリアに響くような都合の悪いことは何も言ってこなかったのにと、そうおっしゃりたいんですか?」
担任はまるで風船のように顔を真っ赤にし、小刻みに震えている。自分が今まで逃げ続けてきたこと、後悔するんだな。
俺は勢いをつけて、教壇の上に飛び乗った。クラスを見下ろし、ひとりひとりに目を合わせる。
「いいかお前ら、よく聞いとけ」
すう、と息を吸い込む。腹から声を出して──。
「俺はな、自分の権力ふりかざして人を支配下に置いて──他人を下げることで相対的に自分のランクを上げようとするような浅ましいやつ、心の底から大っ嫌いなんだよ。あとな、そういうやつらと同じ土俵に立つなとか、そんなことで怒るのは時間の無駄だとか、そういう『大人になれ』的な考え方も同じくらい大っ嫌いなんだよ。なんで一方的にやられてるほうが我慢して、いじめたほうはお咎めなしでのうのうと楽しく生きてられるんだ? おかしいだろ。いくら大人気ないと言われようが、冷静さを欠いていると言われようが──俺は絶対に、何があっても、徹底的に仕返しするからな」
気がつけば、様子を見に大量の生徒たちが集まってきている。一呼吸置いて、全員の顔を見渡す。宣戦布告だ。
「この学校のスクールカースト、おれが全部撲滅させてやる。派閥だのいじめだのヒエラルキーだの、そんなくだらねえもん全部ぶっ潰す。俺に喧嘩売ったやつら、全員、覚悟しとけよ!」