芝居屋稼業
江戸の師走は例年通り慌しかった。行き交う人々の足取りは普段よりも幾分速く、それぞれの目的地へと急いでいる。ちらほらと小雪も降り始め、そのせわしなさは増すばかりだ。そんな中、ただ一人そこに打ち付けられたように動かない侍がいた。ぼさぼさの頭には結んだだけの髷が乗り、ふけなのか雪なのか、点々と白いものが散らばっている。寒そうに袂に両の手を隠し、口をへの字に曲げて、とある店の看板を見上げていた。看板にはただ大きく「質」の一字。その浪人はかれこれ一時ほど、その格好のままで立ち尽くしていた。
「やむをえんか……」
力なくそう呟くと、意を決した浪人は質屋の暖簾をくぐった。店内に入っても「いらっしゃい」の声は聞こえない。店の奥からは、店主が不審そうな目つきでさえない客をうかがっていた。大きな眼鏡を極端にずらして上目づかいに見る様は、まるで客自体を値踏みするかのようだ。引き返したい衝動を抑えて、浪人は店主に用件を切り出した。
「この脇差を質入れしたい。いくら貸してもらえるだろうか」
そう言うと、腰から小刀を外して受け付けの机に置いた。すると、店主は何も言わず立ち上がり、横にあるついたてを動かした。その奥の壁には、何本もの脇差が無造作に立てかけてあった。どちらも無言のまましばらくの間があったが、要領を得ないと思った店主がようやく口を開いた。
「このご時勢でございますから、どのお侍様もご入用なのでしょう。皆様脇差を置いていかれます」
つまりは、脇差は間に合っているから質入れはお断りします、ということだ。店主は、商売人らしくやんわりと断ったつもりだったが、今回は相手が悪かった。店主の遠まわしな断りなど全く理解できないこの浪人は、神妙な面持ちで店主の顔を見入っていた。いくら貸してくれるのか、に対しての回答をひたすら待っているのだ。
店主は対応を変えることを決めた。大きく息を吐いて座りなおした店主は、世間知らずを丸出しにする浪人に、わかりやすく言った。
「手前共も質屋の看板を掲げておりますから、ご依頼があれば品物をお預かりいたします。しかし、ご覧の通り脇差は数多く質に入っておりまして、お侍様の脇差を預かるにしても、せいぜい五十文ほどしかお貸しできません。それでもよろしいでしょうか」
これ以上ないほどわかりやすく説明された浪人だったが、店主の言葉を真に受けることはできなかった。五十文と言えば、熱燗とちょいとした肴を頼めば消えてしまう額だ。到底納得できるものではない。
「そこらの脇差と同じと思ってもらっては困る。これは我が家に代々伝わる業物で……」
「お侍様、申し訳ございませんが、どう勉強させていただいても五十文より多くはお貸しできません」
言葉をさえぎられてまで念を押されれば、いかに勘の悪い浪人でも話すだけ無駄だとわかった。鑑定の玄人といえど所詮は商売人、刀の良し悪しなどわかるはずがない、と見切りをつけた浪人は、憮然としたまま脇差を腰に戻して店から出ようとした。
「ただ……」
踵を返した浪人の背中に、店主の粘っこい声がまとわりついた。浪人が立ち止まったことを確認すると、店主は話を続けた。
「どのお侍様も脇差の質入れを御所望になるのですが、さすがに本差を入れようとはなさいません。そちらの長い方ならば、もっと多くお貸しできるのですが……」
その言葉を受けて、浪人はゆっくりと振り返った。その目つきは、湧き上がる怒りを抑えるように鋭く据わっていた。
「本差を、刀を売れと言うのか」
そう呟くと、浪人は肩をいからせて店主に詰め寄った。
しばらくの後、浪人は相変わらず慌しい江戸の町を力なく歩いていた。ため息を一つ吐いて袂に手を収めると、そこには二つの小判があった。二枚を何度かこすり合わせた後、もう一度ため息をついた。
「売ってしまった。武士の魂を、たった二両で……」
あの後、店主に食って掛かった浪人ではあったが、手練手管に長けた店主に絡め取られ、ついつい刀を売ることを了承してしまった。大小二本ならば二両出すと言われ、さらに、丸腰では様にならないだろうと、売り物にはならないが見た目は立派ななまくら刀を付けるとの条件に屈してしまったのだ。長屋に住むための準備金、一分を用意するために質屋へ赴いたはずが、その帰りには腰の大小が全く使えないなまくらに代わってしまっている。己の馬鹿さ加減に愛想が尽きかけた浪人は、ふとある考えに思い至った。
「侍、辞めるか……」
故郷を捨て、家を捨て、名を捨ててこの江戸に流れついた浪人だ。刀も売ってしまった以上、武士にこだわる必要はもうなかった。藩を出た時から、いつかは武士を捨てる日が来ると思ってはいたものの、踏ん切りがつかないままでいた。しかし、業突く張りな質屋にその手伝いをしてもらうとは思ってもみなかった。途端に気分が楽になった気がして、浪人は思わず声を出して笑い出した。往来の人々が奇異に見つめるその中を高笑いしながら歩いていると、すぐそこに町の剣術道場があることに気付いた。立派な看板が掛かっているものの、中から人の声は聞こえない。
「道場か。この時分ならば、門下生の気勢が聞こえてもよさそうなものだが……。まあ、関係のないことか」
足を止めてそう呟いた時、背後に立つ気配を察して浪人は咄嗟に振り向き、思わず柄に手を掛けた。そこには長躯の侍が立っていた。
「おっと、驚かせてしまったようだ。相済まない」
そう言うと、その侍は柔和な顔をさらに崩して笑った。浪人ではあるだろうが身なりは派手だ。高く結んだ髷に黄と黒の羽織、腰には鞘を朱に染めた大小が差してある。いささか滑稽なその姿を見て、浪人は言葉を失った。
「もしや、ここの道場生であられるか」
笑顔を崩さずにそう問われた浪人は、無言で首を振ることしかできなかった。すると派手な侍は、呆気に取られている浪人の肩を馴れ馴れしく叩き、町の方を振り向くと両手を挙げて叫んだ。
「やあやあ我こそは、当代一の剣豪、柴田宗右衛門である。全国の名のある道場と手合わせをして今だ無敗だ。流浪の修行から久方ぶりに帰ってきてみれば、何やら怪しげな道場がこの江戸には溢れておるではないか。聞いたこともない流派の看板なぞ、この天下無双の剛剣で叩き割ってくれる。まずはこの真柔流とやらに、剣術のなんたるかを叩き込んでやるとしよう」
大きな体躯を震わせてそう叫ぶと、その声ははるか沿道のさらに向こうにまで届いた。すると、ぞろぞろと野次馬があふれだし、何事かを期待する好奇の視線を集めた。群衆の集まり具合に納得したのか、柴田宗右衛門とやらは満足そうにうなずき、道場に振り向きかえった。そして唖然としたままの浪人の肩をもう一度叩き、悠然と道場の敷地内に入っていった。
しばらくの静寂の後、けたたましい気勢と道場の板を踏む音が響いた。しかし、それも一瞬だった。どたどたと道場から飛び出してきたのは、柴田宗右衛門だ。長躯を無様に屈め、這うように外に出てきた宗右衛門の顔には、二本の鼻血が対をなして垂れていた。そして門の前にいた浪人の姿を見つけると、その足にすがりついて泣き叫んだ。
「し、信じられぬ。全国の猛者を退けてきたそれがしをもってしても、この真柔流には全く手も足も出なかった。だが、このままでは済まさぬ。必ず雪辱を遂げるために舞い戻るぞ」
一息の下にそう言うと、道場破りは足を引きずりながら去っていった。一様に呆気に取られていた群集だったが、すぐにどっと笑いに包まれた。
「なんだいありゃあ。師走だってのに暇な野郎もいたもんだ」
「天下無双の剣豪とやらが、鼻血垂らして這いつくばってたな。しかし、真柔流ってのは案外やるもんだ」
まるで芝居でも楽しんだかのように、思い思いの感想を口にしながら群集は散らばっていった。浪人も馬鹿らしくなってその場を去ろうとしたが、袴にべっとりと血が付いていることに気付いて立ち止まった。宗右衛門にしがみつかれた時に付いたのだろう。浪人は腹立たしさを覚えながら、それを落とそうとした。その時、不機嫌そうに曇っていた浪人の表情が変った。
騒動があった道場からしばらく北へ行くと、町を流れる川へと降りる場所がある。町民が洗濯などに使う場所だが、今そこでは派手な格好をした侍が、川面に顔を付けて勢い良く洗っているところだった。例の柴田宗右衛門である。ばしゃばしゃと両手で顔をこするものの、なかなか血が取れない。本人もそれを心得ているのか、何度も何度も洗顔を繰り返していた。
「ううむ。もう少しか」
そう呟いてまた顔を水に着けようとした時、こちらに降りてくる者に気付いて振り返った。それが道場の前で会った浪人である事に気付くと、慌てて手ぬぐいで顔を拭きその場を立ち去ろうとした。降りる場所も登る場所も同じなために、やむを得ずすれ違わなければならないが、宗右衛門は軽く会釈してその場をやりすごそうとした。
「何故あんなことをした」
そう聞いたのは降りてきた側の浪人である。言葉を受けて立ち止まった宗右衛門は、とっさに笑顔を取り繕った。
「いやいや、恥ずかしいところをお見せした。それもこれも、それがしの修行不足と増長がたたって……」
「あくまで芝居を続けるのか」
続けざまに浪人に問われても宗右衛門は笑顔を崩さず、そのまま立ち去ろうとした。
「血糊、付いたままだぞ」
そう指摘され、観念したように足を止めた宗右衛門の顔は、余計に広がった血糊で真っ赤に染まっていた。
浪人は、川べりへ戻った宗右衛門と並んで、袴に付いた血糊を落とし始めた。隣でばしゃばしゃとやる宗右衛門を苦笑しながら眺め、自らは濡らした手ぬぐいで血糊の付いた部分を拭いた。しかし、なかなか落ちない血糊に四苦八苦して、愚痴をこぼした。
「しかし、この血糊はどこから仕入れたのだ。やたらと落ちが悪いが」
「ははは、済まん済まん。糊を買ってきて染料を混ぜてみたがなかなか思うようにできなくてな。それで油を混ぜてみたら、うまい具合に人の血に見えた。落ちが悪いのはその油のせいだ」
本当に済まないと思っているのかいないのか、宗右衛門は豪快に笑いながら洗顔を続けた。それは、今までの芝居じみた様子から一転して、とても自然なものだった。
「あきれたものだ。しかし、そこまでしてあのような芝居をするのは何故だ」
ようやく顔の血糊が落ちた宗右衛門は、浪人の問いを受けて、芝居の理由を話し始めた。
「江戸に多くの剣術道場があるのは知っておろう。しかし、どこも門下生の来手が少ないのだ。もう剣の時代でもないゆえに仕方のないことだが、あれらも商売だ。門下生がいなくなれば看板を降ろすより他ない。伝統のある道場や、過去に傑物を出した道場ならば黙っていても人は集まるが、まだできて日の浅い道場などは知り合いに声をかけて募るしかない。ならば道場の喧伝をしようとしても、戦は終わり、頻繁に御前試合があるわけではない為に、腕前を見せる場がないのだ。そこで、私に芝居の出番が廻ってくる。屈強な侍が道場を訪れ、見るも無残に返り討ちにされたとなれば、町の人々に道場の強さが知れ渡る。門下生も集まりやすくなるというわけだ」
なるほど、と呟き、浪人はしきりに頷いた。まだ江戸の現状に疎い浪人にとって、このような商売が存在することはちょっとした驚きだった。素直に感心する浪人を見て、宗右衛門はまた大きく笑った。
「そう真面目な顔をして頷かれたら却ってむずがゆいな。決まって、武士の恥だと笑われるものだが」
「いや、よく考えたものだ。人を斬らずとも、立派に糧を得ることができるのだな」
この時代、藩に属さない侍にできる仕事は限られており、多くの者は荒事に流れた。まっとうな仕事をしようとすれば、武士という身分がむしろ邪魔になる。刀を捨てず、しかし人を傷つけず、それなりの収入を得ていることに、浪人は心から感嘆していた。
「それにしても、何故芝居だとわかったのだ。やはり作り物の血糊を見てか」
宗右衛門に問い返された浪人は、一つ頷いた後に言葉を続けた。
「確かに芝居だとわかったのは血糊を見てからだが、初めにおかしく思ったのは、お主が負けて出てきた時だ」
浪人の言葉を図りかねて、宗右衛門はその後に続く言葉を待たねばならなかった。
「道場の前で後ろに立たれた時、間合いに入られたことがすぐにはわからなかった。これは相当な人物だと身構えたものだ。それほどの力量があれば、どこの道場に踏み入ったとしてもそうそう負けるわけがない。わざと負けたとしか思えなかった」
既に笑顔を消した宗右衛門は、改めて浪人を見据えた。互いの力量を正確に自信を持って見定めているこの若者に、掴み所の無さを感じた為だ。それまで相手の力量を量り損ねたことなどなかった宗右衛門だったが、このさえない浪人の底だけはわからなかった。
「貴公、名は何と申される」
宗右衛門に名を聞かれ浪人は戸惑った。自分の名前は既に捨てたものとしていたが、考えてみれば他に名乗る名もなかった。結局、浪人は捨てたはずの名を告げるしかなかった。
「阿須野義章、と名乗っていた。今は名無しだ」
「立派な名だ。何かしら事情があるのだろうが、捨てるには惜しい」
過去の名を褒められ、義章はばつが悪そうな顔で袴を拭いた。すると、宗右衛門は改めて自分の名を名乗り、血糊の詫びに夕餉を奢ると言いだした。突然の申し出に遠慮をする義章だったが、「芝居の報酬を得たばかりだ」と言われ、強引に飯屋へと連れられて行った。
日が落ち、降っていた雪は既にあがっていたが、容赦のない底冷えが江戸の町から活気を奪っていた。町の通りも閑散としており、動くものといえば、時折吹く風が揺らす柳の枝のみだった。
そんな静寂を打ち消したのは、豪快に笑う柴田宗右衛門だった。高く立てていた髷を寝かせ、派手な羽織を裏返しにすれば、滑稽だったその姿は、どこにでもいる素浪人に変っていた。そして、その横には足元がおぼつかない義章の姿もあった。飯屋にて約束通り馳走になった義章は、上機嫌な宗右衛門に何本もの熱燗を付き合わされたのだった。予定では大家に支度金を払い、長屋に居を構えているはずだったが、この夜分に大家の下へ押しかけるわけにもいかなかった。その件を宗右衛門に告げると、今夜は自宅へ泊まるように勧められ、義章もその善意に甘える事とした。しかし、今日会ったばかりの者の家へ泊まることに抵抗がないわけではない。酒を酌み交わし、宗右衛門の人柄はよくわかったのだが、ここまで親切にされる理由はなかった。
「義章殿よ、もうすぐ我が家だ。遠慮は無用だぞ」
宗右衛門に言われ、その指さす方向にふらつく焦点をなんとか合わせた義章は、今にも崩れ落ちそうな長屋を見ることとなった。そのあまりの粗末さにしばし呆然とした義章だったが、なおも笑い続ける宗右衛門に腕を引かれて、よれた戸が並ぶ長屋路へと入って行った。果たしてこの中で眠れるのかと、不安になりながら腕を引かれていると、長屋の戸がほぼ一斉に開いた。驚く義章をよそに、中から出てきた長屋の住民たちは、次々に宗右衛門に頭を下げて挨拶をし始めた。中には拝むように手を合わせている者までいる。宗右衛門も笑顔のまま、出てきた一人ひとりに声を掛けた。何がなにやらわからない義章だったが、挨拶を終えた宗右衛門に促されて、一つの戸の中に納まった。
「いったい、あれはどういう訳だ」
蝋燭に火を灯そうと火打石を打ち付ける宗右衛門に、義章は表でのことを尋ねた。蝋燭に照らされ浮かび上がった宗右衛門の顔は、照れや嘲りが混ざった複雑なものだった。
「なに、あの人たちの家賃を出しているだけだ」
素っ気なくそう言われて、義章は理解に苦しんだ。少なくとも五、六軒分の家賃を負担していることがにわかに信じられない義章は、宗右衛門にその事情を聞いた。
「江戸に出て、多くの人々が家を持たずに路傍で寝起きしていることを知った。そういう人たちと知り合ううちに、ほおってはおけぬと思えてきてな。冬の間だけでも長屋に住んでもらおうと思ったのだ」
「それにしても、赤の他人に家賃まで出すとは……。お主にとって、そんなことをする義理もなければ、何も得がないではないか」
義章の当然の疑問に対し、珍しく視線を落とした宗右衛門は、ゆっくりと話し始めた。
「以前、藩に属していた時には、多くの人を斬った。そのほとんどは野盗の類だったが、命ぜられるままにあらゆる者を殺してきた。そんな仕事を続けていくなかで、いつしか人を人とも思えぬ己が恐ろしくなった。その時の償いというわけではないが、助かる命ならば助けたい、そう思うようになったのだ。……いかんな、酒のせいか今宵は口がよく回る。忘れてくだされ」
照れくさそうにそう言うと、宗右衛門は湯呑みを二つ取り出した。義章はこの男に親切にされる理由がようやくわかった気がした。過去に対しての贖罪とは別に、柴田宗右衛門という人物は、愚直なまでに心根が優しいのだ。少しだけ残っていた警戒心を解きながら、義章は出された白湯を一口すすってため息をついた。
「立派なものだ。俺などは、己一人の食い扶持を得るのもままならんというのに……」
「貴公はまだ若い。士官の道も残されておるだろう」
そう言った宗右衛門だったが、この時代、仕官のあてなど望むべくないことは知っていた。だが、この浪人の底知れない何かを汲み取っていた宗右衛門は、半ば本気で仕官という言葉を口にした。すると、義章は途端に肩をすぼめ、大きくうつむいてしまった。
「仕官もなにも……、俺はもう武士ではないのだ」
そう言うと、義章は側に置いていた刀を手に取り、ゆっくりと抜いて見せた。そのくすんだ刀身にはところどころに錆が浮き、鞘から抜く際に何度かひっかかる始末だった。
「このとおり、これは刀と呼ぶのもはばかれる出来損ないだ。俺は、長屋へ住む支度金を作るために、代々伝わる刀を質に入れてしまった。もう、武士でさえないのだ」
「その刀はもう流れてしまったのか」
「いや、質に入れたのは今日の昼だ。だが、金を返して刀を取り戻したとしても、一度金のために刀を手放したことには変らぬ。刀を売ると共に武士である己も売ったのだ」
吐き捨てるようにそう言うと、義章はそのなまくらを力なく置いた。そして、自らを嘲るように笑った。
「だが、良い機会だと思っている。武士という重石を捨てて、楽になった気もするのだ」
せいせいした強がる義章の話を、宗右衛門はしばらく黙って聞いていた。しかし、突然片膝を立てたかと思うと、脇に置いていた刀に手を伸ばした。抜くと同時に義章に斬りかかろうとした宗右衛門だったが、それに先んじて、義章の刀がその首筋近くに突きつけられ、抜刀を止めた。
「さすがだ。殺気を受けて、私よりも先に刀を抜いたか」
にやりと笑ってそう言う宗右衛門を見て、義章は発せられた殺気が偽りのものだと気付いた。
「試したのか」
「武士を捨てたと思ってみても、そう容易く捨てられるものではない。その体捌きとて武士なればこそ」
宗右衛門は刀を鞘へ戻し、困惑する義章に構わず白湯を一口含むと、突如おかしなことを言い出した。
「私の刀とそのなまくら、取り替えてもらえぬか」
そのとても釣り合わない申し出に、義章は目を白黒させて断った。
「何を馬鹿な。見てのとおり、これは人も斬れぬような……」
「人は斬れぬが、鞘に収めれば立派に見えるなまくら刀。私の商売にぴったりの道具ではないか」
宗右衛門の口ぶりは本気だった。さらに、戯れではないことを示すように、己の刀を前へと差し出した。義章は戸惑ったが、伸ばした宗右衛門の腕は義章の元まで届き、その胸に刀を押し付けた。
「貴公は侍だ。一時の気の迷いで、己の本分を捨ててはならん」
その言葉と共に刀を受け取った義章は、噛み締めるように頭を垂れた。
「かたじけない……」
義章のその様子を見て、宗右衛門は満足そうに笑みを浮かべて腰を下ろした。他人の痛みも喜びも、自分の事として受け止めてしまう、そんな男だった。義章も腰を下ろすが、先ほど感じた宗右衛門の殺気は、今でもわずかな緊張を残す程だった。
「さきほどの抜刀、宗右衛門殿が本気ならば間違いなく斬られていた。本当に刀を捨てていいのか」
「捨てるのではない。貴公に託すのだ。これからも続く侍の道を、その刀と共にしてくだされ」
そう言うと、宗右衛門はおどけるような顔になって言葉を続けた。
「しかし、我ながら芝居のうまさに惚れ惚れいたす。さすがの義章殿も、私の殺気に騙されてしまったのだからな」
豪快に笑う宗右衛門を見て、義章は、この人にはとても敵わないと首を振った。
翌日、宗右衛門の長屋を後にした義章は、町の南側にある長屋に赴いていた。昨日渡しそびれた支度金を大家の下へ持ってきたのだ。しかし時遅く、入るはずだった長屋は既に埋まってしまっていた。素性のわからない浪人でも入れるような長屋を探し当て、入居の段取りまでつけていたにも関わらず、寸でのところで振られてしまったのだ。かなり粘ってみたものの、空きがないのはどうしようもなく、結局あきらめることとなった。
義章は、呆然としながら長屋を後にした。何かしらの仕事を探そうにも、住処がなければ生活の基盤がなりたたない……、そんなことを考えながらふらふらと歩いていると、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。近づいてみると、威勢のいい瓦版売りが、道行く人々を煽るように声を張り上げていた。
「さあ皆の衆、聞いて驚き見て驚きの瓦版だよ。近頃ここいらの道場にたびたび現れる道場破り、大きな体のわりにめっぽう弱いと評判だ。行く先々で騒動を起こすが、間抜けな姿をさらして逃げるってんで、知ってる御人も多いだろう。さて、その件の道場破りが、とうとう斬られちまったってんだから穏やかじゃないね。詳しくはこの瓦版に綴られてるよ。さあ買った買った」
義章は、似たような者もいるものだ、と思い通り過ぎようとした。だが、瓦版が続けて言う滑稽な道場破りの詳細は、やはり宗右衛門以外考えられなかった。宗右衛門とは今朝まで共にいたため、斬り殺されるなどあるはずがないのだが、気になってしまった義章は駆け足で瓦版のもとへ行き、金を払うのも忘れてそれを手にした。お代をせびる瓦版売りを背に、その内容をざっと読んでみると、宗右衛門の似顔絵と共に、あるはずのない出来事が記されていた。義章は瓦版売りに詰め寄ると、血相を変えて問いただした。
「商売といえど、嘘を書くとは断じて許せん。どういう了見だ」
瓦版をふんだくられた上に、胸倉をつかまれて非難された瓦版売りは、声を上ずらせながらも必死で抵抗した。
「じょ、冗談じゃねぇやい。うちの瓦版は、見聞をおおげさにせず、まっとうに扱うってのが信条なんだ。この件にしても、これっぽっちの嘘も書かれてねえ」
「では聞くが、己が負けに恨みを募らせ刀を抜いて道場に押し込んだ、と書いてあるな。あの人がそんな下衆なことをするわけがなかろう」
「なかろう、って言われてもよ、実際こっちは道場とその周りに聞き込んで、きっちりとしたためてんだ。嘘だと言い張るんなら、番所へ行って仏さんを見てくりゃいいじゃねえか」
刀を携えた武士にすごまれても、瓦版売りは決して折れなかった。その反応を見て、義章の心にもしやという思いが湧き上がった。
義章は瓦版売りから聞きだした番所へと向った。そして、運ばれた死体を確認したいと申し出ると、意外とあっけなく中へ通された。奥に続いた土間を進むと、暗く陰ったその中に死体はあった。冷たい土間の上に寝かされ、隠すように筵が掛けてある。ここにいたっても、この死体が宗右衛門だと義章は思っていない。何かの間違いであること、別人であることを確認するためにやってきたのだ。しかし、筵をめくることに少しだけ戸惑ってしまった。
「どうした。仏の面を見に来たんじゃないのか」
横柄に口を挟んだのは、この番所に詰めている同心だ。せかされるように筵をめくると、露になったその死体は、間違いなく柴田宗右衛門だった。
「何故だ……」
呆然とする義章を一瞥して、同心が面倒くさそうに頭を掻いた。
「全く、おかしな格好をして道場破りを繰り返すなどと、武士の風上にも置けぬ奴だ。その上、負けた腹いせに刀を抜いて討ち入るなど、正気の沙汰とは思えぬ。死体を預からねばならん我らの身にもなってほしいものだ」
宗右衛門を侮蔑する同心の言葉も、今の義章には届かない。ただ、目の前で冷たくなっている宗右衛門を見やることしかできなかった。同心は構わず続けた。
「それに、その刀。そんな刀でよくも討ち入ろうなどと考えたものだ。身なりだけ派手にして、刀をおろそかにするとは、全くもって嘆かわしい」
遺体の側には、義章と取り替えたなまくら刀が置かれてあった。
「本当に抜いたのか、この刀を」
「近所の者が、朝方刀を抜いて奇声を上げるこの男を見ておる。しかし、道場の門下生は、急な討ち入りにも慌てることなく、立派に立ち合ってそれを退けた。嗜みだけの道場ではなかったと専らの評判だ。それに比べてこの浪人は、討ち入って雪辱を果たすはずが、かえって道場の株を上げてしまった。どこまでも虚しい死に様よ」
同心の言葉を聞いて何を思ったか、義章は宗右衛門の体を返してその背中を見た。派手な柄の羽織は大きく縦に裂かれ、そこからはやはり大きな刀傷が生々しい痕を覗かせていた。
「その一撃にて命を落としたのだろう。あらかた、逃げ出そうと背を向けたところを、ばっさりとやられたのであろうな。道場破りならば斬られても一切の文句は言えぬし、こ奴の……」
「亡骸を引き取りたい。手はずをとりたいのだが」
なおも続きそうな言葉をさえぎって義章がそう言うと、同心はそれまでの不機嫌な態度を一変させた。
「おお、引き取られるか。そうしてもらえると助かる。身寄りもなさそうな素浪人ゆえ、それの扱いを思案していたのだ。埋葬するにも金がかかるのでな。御奉行から番所の金遣いを厳しく言われている折に、無縁仏の埋葬などに金は出せんのだ」
死者に対して何の礼も尽くさず言葉を連ねる同心だったが、振り向いた義章と目を合わせると、途端に口をつくんだ。義章の顔つきから、何か危険なものを感じ取った同心は、慌てて取り繕った。
「と、とにかく、棺桶の手配はすぐにいたす。埋葬に関してはお手前にお願いすることになるがよろしいか」
小さく頷く義章を見て一安心した同心は、すぐに手配をするからと足早に戻っていった。
宗右衛門の遺体を収めた棺桶とともに、義章は近くの寺へ赴き、埋葬の手配をおこなった。住職に念仏を唱えてもらい、埋葬の費用とこれからの供養のためにと二分を渡した。そして、ここまで棺桶を担いできた者達にも、棺桶代と担ぎ代の二分を支払った。埋葬が終った時にはすっかり日は傾き、山あいの古寺は夜の闇に包まれようとしていた。最後に、立ったばかりの粗末な墓の前で手を合わせると、義章はゆっくりと立ち上がり、静かにその場を去った。
夜が明け町に活気が戻り始めた頃、例の道場の前に義章の姿はあった。しばらくじっと道場の看板を見ていたが、一つ深呼吸して町の方へ振り向いた。そして両手を挙げて大声で叫んだ。
「やあやあ我こそは、当代一の剣豪、柴田宗右衛門の盟友、阿須野義章である。宗右衛門が果たせなかった道場破りを、今こそこの義章が見事に果たし、仰々しく掛かるその看板を貰い受ける。往来を行く方々よ、無念を抱えて死した友の弔い、その顛末をしかと見届けていかれよ」
すっかり町の話題となっていた道場前に、昨日の今日で復讐者が現れたとあってか、瞬く間に見物人が集まってきた。すると、道場の戸が勢いよく開き、門下生とおぼしき若者が血相を変えて出てきた。
「おい、これは何の騒ぎだ。道場の前で何をしている」
怒声を受けて振り向いた義章は、とぼけたようにそれに答えた。
「もう喧伝は間に合っておるのか」
途端に顔を引きつらせた門下生は、慌てて義章を道場の中へ招き入れた。道場の評判を上げるきっかけとなった、道場破りのその実態を、大勢の前で喋られたらたまらないと思ったためだ。すると、中に入った義章は、まるで通いなれた場のように、泰然として奥へ進んだ。あまりに堂々としたその態度に、門下生も引き止めることができず、従者のようにそれに続いた。すぐに広い板間に出ると、門下生達の修練を見ていた男が義章の姿に気付いた。そして屈強な体躯を揺らし、木刀を担いで威圧するように近づいた。
「何用だ。入門願いか、それとも見学か」
義章が答える前に、後から続いてきた門下生が急いで割り込んだ。
「木藤師範代、それが、道場破りに来たと申しております」
他の門下生に聞こえぬように、耳打ちされるようにそう伝えられると、師範代と呼ばれた男は小さく首をひねった。
「道場破り……、何かの手違いか、先生からは何も聞いておらぬが」
「私もです。聞いていれば新入りの門下生たちを休ませたのですが……」
小さな声でやりとりする二人の思惑を無視するように、義章ははっきりと用件を切り出した。
「これは喧伝ではない。柴田宗右衛門殿が斬られた理由、それを問うために来た」
その言葉で表情を一変させた門下生は、すがるように木藤へ目をやった。しかし、木藤はさほど動じず、「ほう」とだけ言うとくるりと背を向けた。そして壁にかかる木刀を一振り掴むと、突きつけるように義章に差し出した。
「何か聞きたいことがあるならば、力ずくで聞き出してみたらどうだ。互いに手加減なしで立ち合おうではないか」
訪問者に応じる木藤の、なにやら不穏な空気を感じ取った門下生達は、素振りを続けながらもちらちらとその動向を見張っていた。その視線に気付いた木藤は、道場中に聞こえるように告げた。
「この御仁は力試しを御所望のようだ。かなり腕前に自信があるとのこと、皆も今から行う試合をとくと見ておくがいい」
正々堂々の勝負を持ちかけられたとあっては、武士たるもの引き下がるわけにはいかない。そんな、武士の体面をくすぐる木藤の誘いに乗ったのか、義章は素直に差し出された木刀を受け取った。木藤はすぐに間合いを取って一礼してみせたが、頭を上げた際、義章を見据える視線が一瞬だけずれた。義章もそれに気付いたが、確かめる間もなく試合は始まってしまった。
「いざ参る」
静かに正眼に構えるその姿は、確かに師範代の名に恥じない力量を感じさせた。対する義章は、手にした木刀に一度目を落とした後、構えはとらずに体を斜にして立つのみだ。その余裕ある態度が癪に障ったのか、木藤は地の底から響くような雄叫びと共に木刀を振り上げ、真上から打ち下ろした。義章はそれを受け止めたが、続く胴払いは後ろに跳んでかわした。
「単身乗り込んでくるだけのことはあるようだ。だが、いつまで続くか」
一呼吸置いた後、木藤は右足で床を蹴り、滑るように間合いを詰めると、それと同時に必殺の突きを繰り出した。捉えた、と思われた瞬間、義章は薄皮一枚の距離でそれを見切ってかわしたが、反撃することは叶わなかった。まっすぐに喉を狙うその攻撃は、木刀と言えど決まれば確実に死に至る危険なものだった。試合だと宣言しながらも、最初の言葉通り手加減などは全くなかった。
「どうした、よけるばかりではいつまでも答えは得られぬぞ」
余裕を浮かべ挑発する木藤だったが、義章の表情は変らなかった。そして、力を抜いたように腕を下ろすと、木藤から目を外して呟いた。
「この程度か。道場破りの芝居とはいえ、負けねばならぬのはさぞ悔しかったことだろう……」
宗右衛門の心情を思っての言葉だったが、木藤は当然侮辱されたと受け取った。あまりの怒りに戦慄く木藤だったが、義章の言葉に気を取られた門下生らがざわめき始め、まずはそれに対処せざるを得なかった
「戯言だ。皆も比奴の申す事を真に受けるでない。所詮はあの間の抜けた道場破りと同じ手合いなのだ。まっとうな侍である訳がなかろう」
「宗右衛門殿は、間違いなく腕の立つ侍だった。本来、どこの道場と立ち合っても容易く後れを取ることなどありえぬ。ここにいる者たちは、あれが芝居であることを知らぬのか」
「黙れ黙れ黙れぇい。言うに事欠いてあれが芝居などと、無礼にもほどがある。まともに歩いては帰さぬぞ」
どよめく道場を押さえつけるようにそう叫ぶと、木藤は一気に詰め寄り全身の力を込めて打ち込んだ。さすがに左手を添えて受け止めた義章だったが、力比べの末じりじりと持ち上げると、それを撥ねのけ木藤の無防備な腹に蹴りを入れた。無様に態勢を崩す師範代の姿を見て、門下生らは皆驚愕した。道場では絶対の力を誇る木藤が、簡単にあしらわれた事が信じられないのだ。
「木刀を振ればあばらは折れ、刀ならば腸が飛び出しているところだ」
そう言って見下ろす義章をなんとか睨み返した木藤は、またも一瞬だけ視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
「勝ち誇るのはまだ早い」
それが合図であったのか、突如義章の背後から気勢と共にさっきの門下生が真剣を持って斬りかかった。見事に意表を突いたと見取った木藤だったが、床に突っ伏したのは斬りかかった側の門下生だった。事も無げに不意打ちを退けた義章を、師範代はただ瞠目するしかなかった。
「肘、か。あの態勢から……」
背後を警戒していた義章は、急襲を察知すると素早く後方へ体を送り、あえて間合いを潰して肘を鳩尾へ叩きこんでいた。その瞬間をかろうじて見て取った木藤は、義章の力量に驚嘆した。
「やはり不意打ちか。武士の道を教えるべき道場で、まさか背後からの不意打ちを指示するとは呆れ果てる」
番所で宗右衛門の死体を確認した際、義章は背中についた傷を不審に思っていた。宗右衛門ほどの力がありながら一刀の下に背中を斬られた理由は、刀が使えなかったことに加え、道場では考えにくい不意打ちしかないだろうと踏んでいたのだ。ただ、実際に確認するまではさすがに信じにくいことだった。
義章は木刀を投げ捨てると、苦虫をかみ殺したように顔を強ばらせる木藤を睨みつけた。
「剣術の真似事はこの辺りで十分だろう。そろそろ、我が問いに答えてもらおうか」
当初の目的を果たそうと詰問する義章に対して、師範代は口をつぐんだまま何も語ろうとしない。どこまでも往生際の悪いその様子に義章が呆れていると、奥の部屋からひょろりとした体つきの中年男が出てきた。仕立ての良い着物に足袋、髷はしっかりと結ってあり、艶まで放っている。すると、それまで呆けたように事態を見守っていた門下生らが一斉に姿勢を正し、木藤もばつが悪そうに下がって場所を空けた。
「先生、一度は不覚を取りましたが、すぐに追い払いますので、どうか今一度……」
「腕に自信があると言うから雇ってはみたが、どうやら見掛け倒しだったようだ。さっさと国元へ帰って百姓にでもなるのだな」
その男は木藤に対して突き放すようにそう言うと、しかめていた顔を途端に崩し、笑顔を湛えて義章に歩み寄った。
「いやあ、見事な腕前でござった。さぞ厳しい修練を積まれたことだろう」
細い目をさらに細めてそう言うと、先生と呼ばれた男はおもむろに懐から小判を十枚取り出し、義章に差し出した。
「どうだろうか、そこの木藤に代わって、この道場の師範代を勤めてもらえぬか。これは手付けの金だ」
その金をちらと見ると、義章は男の目を見据えた。
「そこもとが"先生"であられるか」
「いかにも、当道場を開いた竹川重三である。剣の指南などはやらぬが、この道場の責任を全て背負っておる。ここまで門下生を増やしたのも私だ」
そう言って胸を張ると、得意げに襟をなぞった。
「さぞ明朗な御仁であられるのだろう。では、先だって来たという道場破りを斬り捨てたのも、精緻な計算あってのこととお見受けいたすが、いかがか」
「無論だ。あのような不埒な輩も、使い方によっては世のためになるものだ。その死に様まで我らの役に立ってくれた」
「つまり、討ち入りの芝居を頼んだ上で斬り捨てた、と」
「さすがに察しがよろしい。最後に見事な散り際を演じられたのだ、あれもあの世で満足しておろう」
その道場破りと義章が知り合いであることを知らぬまま、竹川はいい気になって核心を喋った。
「なるほど」
そう呟いた一瞬の間の後、義章は突如刀を抜くと、躊躇無く真横に振りぬいた。皆が唖然としたのもつかの間、竹川が間抜けな声を上げて尻餅を付いた。その顔にはだらりとぶら下がった髪がまとわりつき、無様に頭頂をさらけ出していた。
「ひ、ひえ、髷が、私の髷」
頭を隠すように抱えたまま周りを見渡した竹川は、きれいに形を残したまま転がる自らの髷を見つけて、覆いかぶさるようにそれを手に取った。そんな竹川に見せ付けるように、義章は抜いた刀を掲げた。
「よく見ろ。名は無いが、しかと手入れされた良い刀だ。この刀は昨日ここに来るはずだった。本来の持ち主に携えられてな。俺などに渡さなければ、宗右衛門殿は死なずに済んだ。代わりに貴様らが斬り倒されておっただろう」
なおもうずくまって震える竹川を一瞥して刀を収めると、義章は道場内に響くように声を上げた。
「これがこの道場の真の姿だ。不意打ちを是とし、師範代は容易く敗れ、道場主は金の勘定しかできぬ武士もどきだ。門下生は月謝を納める金蔓でしかない。それでもまだこの道場に忠節を尽くすか」
痛烈な言葉を受けて、道場内は静まりかえった。これまで自分らが従ってきたものが、全く取るに足らないものだと思い知り、門下生らはしばらく動くことも口を開くこともできずに、ただ立ち尽くしていた。そんな固まったように動かない空気を、がたりという音が壊した。門下生の一人が木刀を落としたのだ。すると、それを契機にして次々と木刀は投げ捨てられ、門下生らはぞろぞろと道場から出て行ってしまった。
「待て、待たぬか」
出て行く門下生を引きとめようと立ち上がった竹川だったが、結局頭を気にしてまたもうずくまった。そしてその格好のまま、背後に一人残った木藤へ命じた。
「木藤、木藤師範代よ。何をしている、やれ、さっさと斬ってしまえ」
すると、木藤はゆっくりと歩を進めて前へ出た。その背後に回った竹川は、木藤の袴のすそを握ると、義章を指差し金切り声で言い放った。
「おのれぇ、よくもここまで愚弄してくれたな。ただでは済まさぬぞ」
承ったとばかりに木刀をぶんと振って自分を睨む木藤に、義章は疑問をぶつけた。
「何故その男に従う。義理立てする訳でもあるのか」
「義理立て……。ふふ、そんなもの、ある訳がなかろう」
そう言うと、自分の袴を握る竹川の手に、突き刺すように木刀を打ち下ろした。続く絶叫を楽しむように木刀を捻り、逃れようと必死でもがく竹川を見下ろしながら口を開いた。
「算盤を弾くことしかできぬ手だ。潰れてしまっても構わぬだろう」
義章もそれをとがめはせずに黙して見るのみだった。木藤はなおも見下ろしながら続けた。
「最初から気に喰わぬ奴だった。金の為に耐えもしたが、道場がこうなってしまえばその必要もない」
そう冷たく言い放った後、顔を上げた木藤は、義章を睨んで言った。
「ここからは私闘だ。最後までつきあってもらおう」
木刀を上げて真っ直ぐに義章へと向けると、木藤は不敵に笑った。ようやく解放された竹川は、悲鳴を引きずりながら道場の隅へと避難すると、骨が覗くその手を押さえて呻いた。だが、二人とも竹川のことなど既に関心の外だった。
「まだ負けを認めぬというのか」
「腹を蹴ったぐらいで勝ったつもりでおるのか。さっさと木刀を取れ、永くはかからぬ」
あれだけの実力差を見せつけられても、木藤の言葉には自信が溢れていた。その言葉に何を感じ取ったのか、義章は側に落ちていた木刀を拾い上げ、正眼に構えてみせた。すると、自らの勝機が見えてでもいるように、木藤はにやりと笑い、一気に間合いを詰めて木刀を振り上げた。
もらった
木藤が勝利を確信した時、道場の隅で二人の様子を窺っていた竹川は、それが現れた瞬間を垣間見た。打ち込む木藤の木刀はその手元から外れ、そこから抜き出た鋼の刀身が銀色に閃いたのだ。
木藤の自信は根拠あるものだった。木刀に仕込んだ刀を全力で振り下ろし、受けた木刀ごと叩き斬る。二度も上段からの攻撃を受け止めていた、義章のその癖を読んだ上での策略だ。どれだけ腕の違いがあろうと、この魔性の罠からは逃れられないはずだった。しかし……。
魔の剣先を振り下ろした先に義章の姿はなかった。事態が理解できないまま笑顔を張り付かせた木藤は、真横から両の手を打たれて仕込み刀を叩き落された。腕から伝わった骨が折れる感覚は全身を貫き、声にならない叫びをあげて力なく膝を付くより他なかった。消えたと思われた義章の姿は、何事もなかったようにすぐ側から木藤を見下ろしていた。
「一撃目を受けた際に、その木刀が普通ではないことは解っていた。この安物の木刀ならば、刀が途中で止まることなく、間違いなく相手の額を割れる、そう目論んだのだろう」
「たまたまかわせただけで大口を叩きおって……。一撃目で解っておったなら、二撃目を受けるはずがない」
なんとか声をひねり出した木藤は、義章の言葉が信じられずに反論した。だが義章の答えは明快だった。
「殺気だ。最後の打ち込みには殺気が満ちていた。それを察すればかわすのも容易だ」
「馬鹿な、いずれの打ち込みも、全身全霊をもって臨んでいる。気をみて受けを変えるなど、できようはずがない」
「くだらぬ策に頼るようではわかるまい。膝を屈したその姿こそがなによりの証拠だ」
事も無げに言い放たれ、木藤は口をつぐむしかなかった。理屈を並べて論戦を挑んだとしても、敗者の強弁は虚しさしか生まない。木藤は負けを認めるように、がくりと頭を落とした。
「殺気を謀ることは誰にもできぬ。ただ一人を除いてな」
そう言うと、義章は腰の刀に一瞬だけ目を落とし、踵を返した。道場から出る途中、袴を濡らして怯える竹川と目が合ったが、小さく悲鳴が聞こえただけで特に何事もなく通り過ぎた。
外では、多くの見物人が今だに道場の前で中を窺っていた。門下生たちが憮然として帰る様子を見ていただけに、中で何が起こっているのか気が気でなかったが、飄々と帰ってきた義章を見て一斉にどよめいた。中には拍手や喝采があったものの、そのほとんどは町の名物道場が破れたことに失望しているようだった。何故か申し訳ない気分になった義章は、一つ目礼してその場を去ろうとした。
「旦那、看板持っていかなくていいんですかい」
観衆の一人に言われ、乗り込む前に述べた口上を思い出した。勢いで看板を貰うと宣言していたものの、もともと看板などに関心はなかったのだ。だが宣言した以上貰って帰らねばと思い直し、義章は看板を取り外して道場を後にした。
既に日は高く昇っているはずだが、江戸の町はどんよりとした雲が垂れ籠め、冬の寒々しさをさらに際立たせていた。町を行く義章の顔もまた、同じように曇ったままだ。果たして、自分がやったことは正しかったのかどうか、今もって解らずにいた。あの行動は、宗右衛門が望むものなのか、それとも己の怒りをぶつけただけなのか、それも解らない。ただ、宗右衛門から託されたこの刀で、あの二人を斬ることはできなかった。
「これでよかったのだろうか」
呟いた後、手にした看板にふと目が行った。とりあえずこれを持って墓前に報告するか、と考えるのをあきらめ、義章は歩いた。向う先は宗右衛門の長屋だ。宗右衛門が亡くなったことを、あの長屋に住む人たちとその大家に告げねばならない。だが、そうなれば住人たちは再び家を失い、この寒空の中路頭に迷うことになる。それを考えると、また気が重くなった。
長屋に近づくころ、今まで上がっていた雪がまた降り始めた。大きな粒でゆっくりと降る雪だ。この雪は積もるだろう、と思っていると、向こうからこちらに慌てて駆け寄る者があった。おそらくは長屋の住人だ。義章が宗右衛門と共にいたことを覚えていたのだろう。その女は洗濯物を入れた籠を持って、義章に近寄った。
「お侍様、なにやら町では道場破りが返り討ちにあったと噂しております。まさかとは思いますが、柴田様のことではありませんでしょう。昨日はお帰りにならなかったから気になって……」
にこやかだが、その声には不安が滲み出ていた。いたたまれなくなった義章は、意を決して神妙に答えた。
「残念だが、宗右衛門殿は亡くなられた。昨日、埋葬もしてきたところだ」
噂が事実だと知った住人はよろめき、籠を落としてしゃがみこんだ。そして大声で泣き叫び始めた。
「まさか、まさかそんな、柴田様が……」
仲間の異変に気付いた他の住人も集まり、宗右衛門の死は全ての住人の知るところとなった。大家も騒ぎを聞いて駆けつけ、細かい事情を義章に聞いた。
「そうですか、あの柴田様が……。私達とも身分の分け隔てなく接していただきました。あんなに良いお方がお亡くなりになるなんて、こんなに悲しいことはありません」
神妙に宗右衛門を語る大家も、周りで泣き続ける住人たちも、皆が皆、心から悲しんでいた。これから自分たちの住処がどうなるのか、そんなことには考えも及ばぬように、ただ、延々と泣き悲しんだ。……かのように見えた。
「ところで、お侍様は柴田様とは親しい間柄とお見受けいたしますが」
「うむ、知り合って間はないが、宗右衛門殿にはその生き様にも感銘を受け……」
「では、滞っていた家賃と、貸付金、締めて三両のお支払いをお願いします」
いきなり金の催促を始めた大家の態度に驚いていると、周りで泣いていたはずの住人達が皆で義章に手を合わせた。意味がわからない義章は、手で制する格好をして首を振った。
「待て、どういう訳だ。何故俺が三両も……」
「柴田様のお知り合いならば、お解かりになるでしょう。この者たちが住処を追われれば、あのお方はきっと悲しまれます。それに、ほらその刀」
そう言って指差す先には、宗右衛門から託された刀があった。やはり意味が解らず聞き返すと、大家はにっこりと笑って真実を語った。
「柴田様のその刀は、ひと頃質に入っておりまして、あわや流れる寸でのところだったのです。そこで私が二両をお貸しして、どうにか質から出したのでございますよ」
「そんな……」
「借金の代わりにこの長屋の用心棒をお任せしたのですが、次々に人を呼び込んでらして、ご覧の通りの大所帯でございます」
衝撃の事実を聞いて、義章は愕然とした。あの夜、宗右衛門から武士の本分と共に託された刀は、二両の借金というおまけも付いていたのだ。言葉の出ない義章に、大家はある提案をしてきた。
「いきなり三両は厳しゅうございましょう。よろしければ、とりあえずこれまでの家賃一両を納めていただき、残りの二両は柴田様を継いで、この長屋の用心棒を勤めながら返していただいても構いません」
どう考えてもそんな義理はないのだが、何故か義章は、それなら返せるかも……、と思い始めていた。さらに周りで義章を拝む住人達を見るにつけ、この者たちの家賃も引き受けねばならないと責任を感じていた。刀では誰にも負けない義章だったが、世間というものには全く疎いのだった。
「あ、相解った」
結局、いい様に乗せられ絡め取られた義章は、大家の提案を受け入れ、住人たちの家賃も負担することを了承してしまった。そして、懐に残っていた一両を大家に渡すと、宗右衛門の部屋を使うように言われて素直に頷いていた。一方、冬の間の住処を確保することができた住人たちは、義章に厚く礼を言ってそれぞれに散らばっていった。
この急な事態が整理できずに呆然としていると、住人の子から袖を引かれて、義章は気を戻した。
「それ頂戴」
義章はぼんやりと返事をすると、脇に挟んでいた看板を手渡した。ちょこんとおじぎして走り去ろうとする子供へ、義章は尋ねた。
「それ、どうするんだ」
「雪降って寒いから焚き木にするんだ。お侍さんも当たりなよ」
その板が何なのか知らない子供は、無邪気にそう言って手招きした。少しだけ目を瞬かせた義章は、苦笑いを浮かべて手招きに応じた。
「賭けの行方」に対してのご意見を参考にして、続編を書きました。とにかくご意見を取り入れまくってみましたが、いかがだったでしょうか。時代物ですが、ちらほらと現代の問題にも通じるとこがあるのかな、と思っています。江戸時代の細かい部分はかなりいい加減で、言葉遣いやお金の単位もふさわしくないところがあるかと思います。どうかご容赦ください。浪人物はまだアイディアもあるので、これからも書いていこうと思っています。最後まで読んでいただいてありがとうございます。




