七話 醤油への試練
そのまま先ほどのイヴと同じように背を丸め、ごほごほと噎せてしまう。
慌てて水を飲み干すが、それでも舌を刺すようなえぐみと苦さが口の中にこびりつき続けた。
嘔吐くような酸い臭いが鼻腔を容赦なく突き刺し、目には自然と涙が浮かぶ。
「げほっ、がはっ、な、なんだこれ……! エグくて苦くてしょっぱいだけじゃねえか……!」
「あ、あら、さっきのあたしと似たような反応ね……? 失敗ってこと?」
イヴは一瞬目を白黒させてから、にたりと笑う。
ハルトへ人差し指を突きつけて、勝ち誇ったように告げることには――。
「ほら! やっぱりバチが当たったじゃない!」
「そんな馬鹿な……!」
ハルトは愕然としつつ、もう一度液体の味と臭いを確認する。
しかし、やっぱり同じ味だ。
とても醤油とは呼べない、腐った豆の汁である。
どうやら先ほどまでテンションが上がっていたせいで、臭いなどの異変に気付けなかったらしい。
「おかしい……! 《智者の窓》に間違いはないはずだ……! いったいなにをミスったんだ!?」
「あなたの性格そのものじゃないかしら」
「うるせえ! そんな根性論は今聞いてねえんだよ! くそっ! やり直しだ! 巻き戻せ! 《時忘れの雫》!」
失敗作の時間を操作して、元の豆と小麦に戻す。
そこからまた石版を片手に、あらためて醤油造りを進めるのだが――。
「ぶふーーーーーーーーっ!!」
結局、何度やっても腐った豆汁しかできなかった。
とうとうハルトは床に膝をつき、頭を抱えてうずくまってしまう。
「ぐおおお……なぜだ……いったいなにが悪いんだよぉ……」
「いい気味、って言おうとしたけど……ここまで来るとちょっと哀れかも」
最初はニヤニヤと見ていたイヴも、その頃にもなると気遣わしげに眉をひそめていた。
口ではあれこれ言いつつも、やっぱり面倒見のいい方らしい。
「ほんとになんで失敗したのかしらね。それっぽい作り方だったのに。ちょっと見せなさいな」
「あっ、こら! 返せ!」
イヴはひょいっと《智者の窓》を奪い取り、慣れた手つきで操作する。
アップル派という自己申告は嘘でもないらしい。
すいすいページをめくっていくが、あるところでその手がぴたりと止まった。
イヴはかすかに眉を寄せて、ちらりと失敗したばかりの樽を見やる。
「そういえば、あなた……麹菌って入れた?」
「へ」
ハルトはぽかんとするしかない。
たしかに《智者の窓》には、そんなものを入れろと書かれていたものの――。
「いや、入れてないけど……菌って空気中にたくさんいるんだろ? なんかこう、勝手に混ざってくれるもんだと……」
「そんなわけないでしょ。ほら」
イヴは呆れたように肩をすくめてみせる。
石版をかざして見せてくるのは『ニホンコウジカビ』という大見出しだ。
添えられたイラストは、細い管のようなものの先端にわさっとイソギンチャクの触手部分のようなものが生えており、いかにも菌といったものだった。
麹菌。
別名ニホンコウジカビ、もしくはA・オリゼー。
醤油や味噌などの発酵を助ける不完全菌の一種……らしい。
「あたしも日本にいた頃は、簡単なお料理くらいはしてたのよ。で、塩麹なんかも使ったことがあるんだけど……元になる麹菌って、お店で買わないと手に入らないものなの。パンのイースト菌なんかと一緒よ」
「し、知らねえよ……あの頃はほとんど自炊もしてなかったし」
「呆れた。それでお醤油を作りたいとか、ほんっと無謀ね」
イヴはため息をつきつつ、石版を読み込んでいく。
「お醤油を作るにも、そういう麹菌が必要なのよ。ここにもちゃーんとそう書かれてるんだから」
「ちっ……じゃあ、その菌のを調達しなきゃいけないのか」
現代日本ならいざ知らず、この世界で菌が売られているなんて、聞いたことがない。
つまり手に入れようと思えば、自然界で生息している菌を探し出し、採取する必要がある。
なかなか大仕事になりそうだ。だが、ここで足を止めるわけにはいかない。
ハルトは腰を上げ、大きく伸びをする。
「それじゃ、その麹菌ってのはどういう場所にいるんだ? 検索してくれ。急いで取ってくる」
「えーっと……っ」
石版を操作していたイヴの顔色が、急にこわばった。
目を丸くして石版とハルトの顔を見比べる。
「うん? どうかしたのか? 情報が出てこないとか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
すこし言いよどんでから、イヴは口を開く。
「麹菌は……日本で手に入るわ」
「はあ? いや、それは分かってるんだって。この世界で手に入る場所を聞いてるんだけど」
「この世界じゃ無理よ」
「……へ?」
目をしばたたかせるハルトに、イヴは淡々と石版を読み上げる。
「諸説あるみたいだけど……もともと麹菌っていうのは、昔の日本人が発見したものなんですって」
その歴史は、はるか昔の奈良時代にさかのぼる。
当時の日本人は、カビが生えた米から酒ができることに気付く。
かくしてそこから毒性を持たない無害な菌をより分けて、試行錯誤のうちに繁殖に成功。
それを何代も培養し、長い時間をかけて食品加工に役立つよう飼い慣らしたものこそが、麹菌と呼ばれる菌らしい。
東アジアでは別種の麹菌が使われている地方も存在する。
だが、醤油や味噌を作る麹菌は、日本独自の菌になるという。
「だから地球の、日本にしかいない菌なのよ」
「日本人の食への執着、マジ半端ねえな……」
ごくり、とおもわず喉を鳴らしてしまう。
毎日何気なく食べていた醤油に、まさか千年以上の歴史があったとは。
食の神秘に呆然としてしまうハルトだが、ふと恐ろしいことに気付く。
「えっ、つまりこの世界で醤油を作るには、その麹菌の培養から必要だってことになるのか? ご先祖様たちが千年以上かけて作り上げた無害な菌を、この世界でも一から作り出せってことなのか……?」
「そういうことになるわね」
「ハードルが高ぇよ!!」
ハルトは頭を抱えて絶叫する。
いくら神遺物を大量に所有しているといっても、さすがにこれは無理ゲーが過ぎた。
いったいどれほどの時間がかかるのか、想像することも難しい。
「くっそぉ……俺はまだ和食にありつけないのか……!」
「そういうことになるわねえ。お味噌を造るのにも、麹菌が必要みたいだし……」
慟哭するハルトをよそに、イヴはしれっとした反応だった。
しかし、ふと顔を伏せて。
「……やっぱり無理なんかなあ。この世界で、卵かけご飯を食べるなんて」
小さくため息をこぼしてみせるのだ。
それがすこし気になって、ハルトは声をかけようとするのだが――。
「……貴殿らはなにをやっているんだ?」
「!?」
そこで、思わぬ声が降りかかった。
続きは6月18日に更新。