六話 醤油ができた?
懐中時計から放たれた光が、まっすぐ鍋を打ち据える。まるで裁きの雷だ。使い古された鉄鍋はしばし神々しい光を放っていたが、すぐに光は弱まって、ふっとかき消えてしまう。
恐る恐る中をのぞけば、大豆と小麦の混合物はでろでろに溶けていた。
「よっし! 下ごしらえは完了だ! あとは食塩水を入れて――」
「こっっっの、不敬者!!」
「うおっ!?」
そこで、突然イヴが殴りかかってくる。
片手に《時忘れの雫》、片手に鍋。両手が塞がっていたため、ハルトは軽やかに飛びのいてその一撃を回避する。
ドグシャアッ!
細い腕っ節から繰り出された打撃は、狙いを外れて作業台をおもいっきり打ち据えた。おかげで天板ががべこっと凹んでしまう。
イヴはぶるぶると震えながら、ハルトをねめつける。
「その神遺物は大魔神様のものなのよ!? お醤油作りなんかに使っていい代物じゃないの!」
「いやでも、世界征服なんかに使うよりはよっぽど健全じゃね?」
「つべこべ言うな! その神遺物……あたしによこしなさい!!」
今度は真っ向からの突進だった。
彼女が狙うのは、もちろんハルトが手にした懐中時計で――。
ばぢぃっ!!
「へあっ!?」
その指先が触れる寸前、それを阻むようにして光の障壁が現れる。
光の壁は紫電を放ち、イヴをあっさりと弾き飛ばした。彼女はよろめきながらも目を丸くする。鋭くとがった爪の先端が焼け焦げて、白い煙が立ち上っていた。
「な、なによ今の! いっちょ前に結界なんか張っちゃって……驚かせないでくれる!?」
「俺はなんにもしてねーよ」
ハルトは肩をすくめるしかない。
懐中時計――《時忘れの雫》の鎖をつまみ、ぶらぶらと揺らしてみせる。
「噂程度には聞いたことがあるだろ? 一級だの特急だのって限られた神遺物の中には、意志を持つものがあるって。そういう代物は、己が主と認めたやつ以外には触らせもしないのさ」
「つまり……あなたが《時忘れの雫》に主だって認められてるってこと!?」
「そういうことになるな。いやあ、こいつ地中深くの大遺跡に長い間忘れ去られていたみたいでさ。ずいぶん人恋しかったらしくて、俺が見つけてやった瞬間からもうゾッコンラブってわけよ」
「考え直して!? あなたにはもっといい人がいるはずよ!?」
完全に、悪い男に騙される女友達を諭すような台詞だ。
しかし懐中時計はうんともすんとも答えない。ハルトはにやりと笑う。
「くっくっく……! つまり、俺の醤油造りを阻む者はここにはいない! 鍋に食塩水を混ぜて、撹拌して……さらに一年の熟成!だ」
空っぽの樽に準備を整え、ふたたび《時忘れの雫》を起動させる。
本来ならこの一年間の熟成の最中も頻繁にかき混ぜる必要があるのだが、それも問題ない。
この神遺物は単純に物の時を進めるだけでなく、『本来その物が過ごすはずだった時間における変化』を反映することができる。
そして、ハルトはこの醤油造りに手を抜かない。この《時忘れの雫》がなければ、確実に一年もの間しっかり面倒を見ていただろう。
ゆえにその『手入れをした変化』も反映される。
はたして光が収まったあと、樽の中には――。
「できた!」
ドロドロで黒ずんだ、固形と液体の混ざり合ったものが完成していた。《智者の窓》によると、これを『もろみ』と呼ぶらしい。
おもわずガッツポーズを取るハルトである。
「よしっ! あとはこれを絞って加熱すれば醤油の完成だ!」
「り、倫理観がない……!」
一方で、イヴは蒼白な顔でよろめく始末だった。
「世界を掌握できるほどの偉大な神遺物なのよ……!? それを使って着手するのがお醤油造りって……バチ当たりにもほどがあるでしょう!?」
「はっ、そんなもの怖くもなんともないな。道徳だろうが倫理だろうが、俺の野望を阻めるものか!」
「完全に悪役の台詞じゃない! ハリウッド映画なら、まず間違いなくラストで爆発に巻き込まれて死ぬタイプの!」
「なんとでも言え。醤油さえ手に入れれば、俺はビッグバンすら生き延びられる自信がある……!」
「醤油にそんな効能はないわよっ!」
イヴのツッコミを聞き流しつつ、ハルトは仕上げに取りかかる。
圧搾も加熱も、すでにこの部屋にある器具で事足りたし、《時忘れの雫》もある。瞬く間に醤油の工程が完了していく。
(ようやくだ……! ようやく俺は、和食にありつける……!)
もはやハルトの目には、和食の天国が見えていた。
つやつや輝く白米に、わかめと豆腐の味噌汁、そして綺麗に火の通った焼き魚。その焼き魚には大根おろしが小山になって添えられている。
そのてっぺんに醤油を垂らせば、雪山があざやかな赤褐色に染まり――。
(うおおお……! ぜったいサンマだ! ここはサンマしかありえねえだろ……!)
この世界にサンマ、もしくはサンマの親戚のような魚が生息しているか調査するのは今後の課題だろう。
ともかくそんな幻覚を見ているうちに、すべての作業が終了した。
ハルトの目の前には手のひらサイズの小皿が置かれている。小皿を満たすのはとろりとした黒い液体だ。
「できたぞ! これが本物の醤油だ!」
「うう、大魔神様……もうしわけございません……あたしには巨悪を止める力がありませんでした……」
「和食が食えるなら、俺は悪にだって身をやつすわ! そんじゃ、まあ……いっただきまーす!」
ハルトはその液体に人差し指をちょんっとつけて、迷いなく口にふくんでみせて――。
「ぶふーーーーーーーーっ!!」
盛大に噴いた。
続きは6月17日(月)更新。