五話 いざ、醤油作り!
「ともかく俺の野望は和食を食べること。以上だ」
「つ、ツッコミきれない……とりあえず、それはもうわかったけど……」
疲れたように肩を落とし、イヴはあらためてあたりを見回す。
「つまりこの実験器具の数々って……和食を作ろうとしてるの? 料理っていうより、怪しい魔道生物でも作ろうとしてるようにしか見えないんだけど」
「だってまだ料理する段階には至っていないからな。今は絶賛、醤油を作っているところなんだ」
醤油は和食の基本だ。
ゆえに、この世界で和食を作ろうと決めたとき、まず真っ先に着手したのが醤油造りだった。
「ふーん……あの黒い液体、なにかと思ったらお醤油なんだ」
イヴはすこし興味が出てきたのか、樽の方へと歩いて行く。その下に置かれた受け皿には、樽から流れ出た黒い液体が溜まっている。
「案外それっぽいじゃない。どれどれ、お味のほどは……」
「あっ、それはやめといた方が――」
ハルトが止める暇もなかった。
イヴは液体に人差し指をちょんっとつけて、迷いなく口にふくんでみせて――。
「ぶーーーーーーっっ!!」
盛大に噴いた。
そのまま苦しそうに背を丸め、ごほごほと噎せてしまう。
「な、なにこれエグくて苦くてしょっぱ……!! お醤油ってこんな味だっけ!?」
「少なくとも、こんな味じゃなかったことだけは確かだな」
涙目の彼女に、ハルトは水を入れたコップを差し出す。
ひったくるようにしてそれを飲みくだせば、すこしは気分が落ち着いたらしい。
樽いっぱいの黒い液体を、イヴはじとーっとした半目で凝視する。
「ひょっとしてこれ……失敗作?」
「ああ、試作品三百六十五号。またの名を『腐った豆の汁』だな。まともな醤油はこれまでに一度も作れた試しがないんだよ」
「こんなに神遺物があるのに、お醤油のひとつも作れないわけ!?」
「仕方ないだろー。そもそも作り方もよくわからないんだから」
醤油は、大豆を発酵させて作る。
ハルトにあるのはその程度の知識だ。というか、大部分の日本人もそれくらいしか知らないだろ。
「おまえだって、醤油がどういう行程でできるか知らないだろ。スーパーで一リットル三九八円で買える世界じゃないんだぞ、ここは」
「ぐっ……たしかにわかんないけど」
「だろ。それでも俺は……試行錯誤を繰り返しているんだ」
ハルトは遠い目をして思いをはせる。
さいわい、大豆に近い豆はこの世界のあちこちで栽培されていた。
だがしかし、いくらそれに塩を足して寝かそうと、藁で包んで土に埋めようと、ハルトの追い求める醤油は一向に完成しなかった。
樽をそっと撫でれば、自然と空虚なため息がこぼれ落ちる。
「これが醤油じゃないってことはわかるんだよ。でも、時折ふっと不安になるんだ。本当に俺は正しい醤油の味を覚えているのか……? ひょっとしたら、もう醤油の味を忘れてしまっていて、ありもしない幻影を追いかけ続けているだけなんじゃないか……って」
「お醤油と真摯に向き合いすぎなんじゃ……」
「でも、ここに来て光明が見えた!」
「へっ?」
ハルトはイヴに詰め寄って、その手をがしっと握りしめる。
目を丸くする彼女は、魔王というより普通の女の子にしか見えない。しかしそれ以上に、ハルトにとって今の彼女は、暗い夜空を照らし出す星のように見えていた。
「同じ日本出身のおまえにも味見してもられえば、ちゃんと正しい判定ができるはず! 夢にまで見た和食の高みに、ようやくたどり着けるんだ……!」
自分ひとりでは自信がない。
だがしかし、ふたりならきっとこの苦難も乗り越えられる。
その先に待っているのは芳しい出汁のかおりに包まれた天国だ。醤油も味噌も、本物の味がすぐそこに待っている。
ハルトは勢いよく頭を下げる。
「頼む、イヴ! うまい和食を作るため……俺に力を貸してくれ!」
「えっ、もちろん嫌だけど」
「よかった! そう言ってくれると信じ……は?」
ぎぎぎ、と錆び付いたカラクリ細工のように顔を上げる。
イヴは冷たい真顔だった。ハルトの手をぺいっと振り払い、呆れたようにため息をこぼしてみせる。
「あいにく、あたしはそこまで食事にこだわりがないのよね。こっちの世界の料理でも十分満足してるし」
「はああああ!? 死ぬ前に卵かけご飯が食いたいって泣いてたのはどこのどいつだよ!」
「泣いてはいないっつーの! あれは……ちょっと懐かしくなっただけだし。そもそも、あなたとあたしじゃ境遇がまるで違うんですもの」
彼女は胸元に手を当てて、堂々と告げる。
「あたしがここに生まれたのは百年も前なのよ。こっちの人生の方が長いの。前世のことなんか、もう完全に過去として割り切ってるんだから」
「……前世は同世代でも、今世はずいぶん開きがあるんだな」
「輪廻転生なんてそんなものよ。すっごく不確定でややこしいシステムなんだから。昔調べたからよーく知ってるわ」
ふん、と鼻を鳴らし、目をすがめてハルトをにらむ。
そこには同郷の親しみなど一切込められておらず、石をひっくり返した下にいた得体の知れない虫でも見るような眼差しだった。
「そもそも、あなたはあたしの敵じゃない。そんなのに協力するなんて死んでもごめんだし。それに……」
「そ、それになんだよ」
「和食への情熱がひたすらキモい」
「ぐっ……! シンプルな悪口じゃねえか!」
シンプルゆえに、けっこう深めにメンタルが抉られた。
しかしその程度で折れるハルトではない。冷たい目をしたイヴに、真っ向から人差し指を突きつけて吠える。
「いいだろう! だったら嫌でもその気にさせてやる! 醤油の匂いをかいだら、否が応でも日本人の心を思い出すはずだ!」
「いや、試作品の味見ならもう絶対しないからね?」
「くっくっく……そんな澄ました顔をしていられるのも今のうちだぜ。そのうち尻尾を振って、醤油に忠誠を誓うんだからなあ!」
「なにその台詞……完全にあんたの方が悪役らしいわよ」
やや引き気味のイヴだったが、ハルトはおかまいなしだ。
懐をあさって取り出すのは白い石版……ハイニック皇国から借り受けた代物だ。
「じゃーん! こいつは《智者の窓》! 別世界の知識を覗き見できる神遺物だ!」
「あー、なんか聞いたことあるわ。でも、役に立つような情報は見れないんでしょ」
「それが俺にとっては最高のアイテムなんだよな」
しれっとした態度のイヴを放って、石版の表面を軽く撫でる。
すると淡い光を放ち始めた。待機状態になった証しだ。ハルトは大きく息を吸い込んで、石版に命ずる。
「《智者の窓》、起動! 検索世界は『地球』、検索単語は『醤油』だ!」
石版がひときわ強い光を放つ。
それはすぐに収まるが、かわりに石版の表面には細かな文字がびっしりと浮かんでいた。
文字こそこの世界のものではあるものの、ご丁寧に添えられたカラーイラストは間違いなく日本人おなじみの醤油ボトルだ。
その下には『醤油の作り方』という見出しもあって――。
「見ろ! 醤油の作り方が出てきた! これがあれば、この世界でも醤油が作れるぞ……!」
「仮にも神遺物なのに、そんなiPadでウィキペディアを見るみたいな使い方どうかと思うわ……」
「ふっ、聞いて驚くなよ……なんと料理のレシピも閲覧可能だ。ウィキペディアだけじゃなく、クックパッド的なものも見れるんだぞ!」
「やっぱりそれ、iPadなんじゃない」
「でも名前は《智者の窓》なんだし、Windowsタブレットって呼ぶのが正しくね?」
「うるさい。あたしはアップル派だったの。でもそうか……お醤油ってこんなふうに作るのね」
剣と魔法の異世界に似つかわしくない単語がぽこぽこ出てくる会話だった。
ともかく憎まれ口を叩きつつも、イヴもやはり気にはなるらしい。ちらちらと《智者の窓》を覗き込んでくる。
ハルトがタブレット端末のように指をすべらせればページが移り変わり、知りたい情報がずらっと現れた。
「なるほど……一般的な醤油の生成には、まず大豆を水に浸して……っと」
「うわっ」
作業台の棚を空け、中から一枚の絵画を取り出す。
一抱えほどもあるキャンバスには、色とりどりの花々が咲き乱れる平原が描かれていた。平原の奥に見えるのは銀に輝く荘厳な城だ。
美しさと、どこか胸を締め付けられるようなわびしさが同居する、そんな不思議な一枚だった。
リビングにでも飾れば、その場の空気を引き締めてくれることだろう。
イヴは信じられないものでも見るようにして目を丸くする。
「あなたそれ、一級神遺物の《永久なる約束の地》よね……時の止まった亜空間につながっているっていう」
「おお。よく知ってるなあ」
ハルトが絵画の中に腕を突っ込めば、まるで水面のように波が立ち、肘のあたりまでとぷりと沈む。
そのまましばしごそごそとあされば、大豆の詰まった袋が出てくる。
「この中は時間が流れないから、食料を入れとくと腐らないんだ。おかげで重宝してるんだよ」
「それ……かつて人間の女に恋した神が、彼女と暮らした城を永久に残しておくために作ったっていうロマンチックな伝説があるんだけど……」
「うん。だから城には一切触ってないぞ。空間の隅っこを物置に使わせてもらってるだけだ」
「iPadの次は冷蔵庫かあ……」
「えーっと、あと必要なのは小麦とー」
釈然としない、とばかいに首をひねるイヴ。
そんな彼女を放置して、ハルトは醤油の準備を手早く進める。
水に浸した大豆を蒸し煮して、小麦は煎って細かく砕く。
それを混合したものを三十度前後に保ち、数日寝かせる……らしい。
「そこから塩水を混ぜたりして、常温で半年から一年寝かせる……か」
「気の長い話ねえ。あたしはそんなの付き合わないわよ」
「ふっ、奇遇だな。俺だってもう一分一秒たりと待てないさ」
口元に薄い笑みを浮かべながら、ハルトは鍋を作業台に載せる。
大豆と小麦を混ぜたものだ。当然鍋の中は真っ白で、醤油の気配はまるでない。
これをまずは数日寝かせる必要があるのだが……そんな暇はない。
足を伸ばすのは、壁際のガラス戸だ。
その鍵を開け、ハルトは迷わず目当ての品に手を伸ばす。今度はイヴがぎょっと凍り付いた。
「ちょっ……! あ、あなたまさか、それ……!」
「さあ、《時忘れの雫》よ!」
おかまいなしで、ハルトは古びた懐中時計を掲げてみせる。
呼び声に呼応するようにして時計の針が突然勢いよく回り始め、中空には奇怪な魔方陣が浮かび上がった。
特級神遺物――《時忘れの雫》。
かつて大魔神が作ったとされ、世界を変えると噂されるほどの神遺物。その能力は単純明快。あらゆるものの時を操ることができるのだ。
大豆と麦の詰まった鍋に向け、ハルトは意気揚々と叫ぶ。
「かの者の針を進めん!」
「世界屈指の超絶レアアイテムで醤油を作るな!!」
イヴの悲鳴が、地下室いっぱいに響き渡った。
続きは6月16日更新。